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***
この日わたしは、「話がある。」と部長から呼び出されていた。
何の事についてなのか、検討もつかずに従うまま面談室に呼ばれ、わたしは部長と向かい合うように席についた。
そこで部長の口から出てきたのは、わたしを崖の上から突き落とすような言葉だった。
「芽吹さん、実はね、先日決まったプロジェクトリーダーの件なんだけど、あれは無かった事にもらえないかい?」
意味が分からなかった。
ずっと実現の為に実績を積み重ね、残業を繰り返しながら作り上げてきた企画が初めて通り、そのプロジェクトのリーダーとして任命され、これからという時だった。
「無かった事にって、どういう事ですか?どうしてですか?」
あまりにも突然の撤回発言に、わたしは前のめりになって言った。
すると部長はわたしから視線を逸らし、バツが悪そうに「いやぁ、そのぉ······」としどろもどろになりながら理由を述べ始めた。
「”ある人”からね、芽吹さんがプロジェクトリーダーなのは納得いかないと···話が出てね。このままプロジェクトを進めるわけにはいかなくなったんだよ。」
「”ある人”って···誰ですか?」
わたしは、その”ある人”に心当たりがあった。
いつも何かと難癖をつけ、わたしの業務を妨げるような行為を続けてきた人物、それは···――――
「船田さんですか?」
わたしがある特定の人物の名前をあげると、部長はあからさまに挙動不審な態度を見せた。
船田さんとは、わたしと同じ部署の”お局様”だ。
「んー、まぁ、誰とは言えないが···、芽吹さんも少し考えて行動しないとね。やっぱり先輩を立てないと。入社してまだ5年の後輩にリーダーなんてやられたんじゃ、先輩の立場からすると面白くないだろ?」
否定しないところを見ると、やはりわたしがプロジェクトリーダーになるのを反対しているのは船田さんなのだろう。
ただそれだけでも納得がいかないというのに、部長は更に耳を疑うような発言をした。
「だからね、プロジェクトリーダーは船田さんにお願いする事にしたよ。」
わたし発信のプロジェクトに、なぜ一切関わっていない船田さんが···?
流石に納得がいかなかったわたしは、部長に「それなら、この企画自体を無かった事にしてください。」と申し出た。
しかし、部長はわたしの気持ちや言葉など、一切無視をして話を進めた。
「この企画自体は我が社にとってプラスになるだろうから、それは出来ない。リーダーが君から船田さんに変わるだけだよ。」
変わる”だけ”?
どこまでわたしを馬鹿にすれば気が済むのだろう。
まるで、十月十日お腹の中で大切に育てた我が子を、生まれた瞬間に奪われたような気持ちだった。
「あ、それからね···、突然で申し訳ないけど、芽吹さんには九代支社に異動してもらう事になったよ。」
「えっ?!九代支社に異動?!どうしてですか?!」
「んー···、まぁ、色々あるんだよ。芽吹さん、あんな田舎の支社に行ったって大変なだけだ。だから、ねっ?分かるだろ?」
諭すような言い方をする部長に、わたしの気持ちはスーッと冷めていく。
要するに、田舎の支社への異動が嫌なら”自主退職しろ”という無言の圧力だ。
(本来であればリーダーになるはずの発案者が、理不尽な理由で突然下ろされたなんて周りにバレたら、都合が悪いんだろうな······)
自分が一番じゃないと気が済まないお局様に、被害者よりも加害者を守ろうとする上司、現場を知らずに上層部の話だけで面倒事を解決しようとする会社。
怒りを通り越し、涙も出なかったわたしは、スッと椅子から立ち上がると「分かりました。短い間でしたが、お世話になりました。」と無表情で頭を下げ、面談室を出たその足でそのまま総務課へ向かい、その場で退職届を記入したのだった。
わたしは仕事が好きだった。
だから、いくら船田さんから嫌味を言われても、嫌がらせをされても、仕事で見返してやればいいと思っていた。
しかし、努力をしても評価する側の会社が不誠実なのであれば、それは意味を成さない事を知った。
絶望的に感情を掻き乱されたわたしは、ジワジワと湧き上がる悔しさから涙を流し、普段であればまだ帰路につくには早い時間に自宅マンションへと帰宅した。
すると玄関には、朝仕事に向かったはずの弘太郎のスニーカーと、その横には綺羅びやかなビジューがついたハイヒールのパンプスが脱ぎ散らかされていた。
見覚えの無い女性物のパンプスに胸騒ぎを感じつつもわたしは家へと上がり、微かに話し声が聞こえる寝室のドアノブに手を掛けた。
その先で目にしたのが、先程の光景だ···――――
上半身裸でベッドに横たわり、わたしの姿を見て慌てふためく弘太郎の姿に、弘太郎の横で悪怯れもせず勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる派手な女性。
その光景が鮮明に脳裏に焼き付いて、掻き消そうとしてもグルグルとわたしの頭の中を巡って消え去ってはくれなかった。
雨に濡れ、前髪から滴る水滴が涙に紛れて頬を伝う。
気付けばわたしは、ある一棟のビルの中にある店の前に辿り着いていた。
シックな木目調の看板に書かれた”SEVENS BAL”の文字。
ここは、わたしが就職難にぶつかり、就職も出来ないまま高校を卒業した後、転々としながらアルバイトをしていた中で2年間と一番長く働かせてもらっていたお店だった。
わたしはこのお店を辞めて就職してからも、お客として度々訪れていた。
重量感のある厚めのドアを押すと、ドアの内側に掛かったベルが揺れ、カランカランと来客を知らせる。
明る過ぎない照明に落ち着いた雰囲気の店内には、弱った今のわたしにはよく沁みる切ないピアノの音が静かに流れていた。
この”SEVENS BAL”には、大きなグランドピアノが設置されており、日替わりでピアニストがBGM代わりにピアノを奏でに来てくれるのだ。
わたしは店内に入ってすぐ、ピアノの音に心を奪われ、立ち尽くしたまま聴き入ってしまった。
黒髪を揺らしながらピアノを弾くのは、シャープな輪郭に鼻筋の通った涼やかな表情の男性で、白いワイシャツを腕捲くりしたピアニストというよりも仕事帰りに立ち寄ったサラリーマンのような装いだった。
その男性が弾いていたのは、”最後の雨”という切ないラブソング。
古い曲ではあるが、わたしが幼い頃に父がよく聴いていた曲なので、馴染みのある曲だった。
わたしはただただ、その男性が歌うように奏でる”最後の雨”を聴きながら、涙を流し続けていた。
すると、わたしの存在に気付いた一人の男性が静かに歩み寄って来る気配を感じた。
「いらっしゃい。」
そう優しく話し掛けてくれたのは、店長の山辺賢司さんだ。
賢司さんは、わたしがここで働いていた当時から店長を務めている人で、外見は42歳になるダンディーなイケメンなのだが、心は女性のいわゆる”オネェ”だった。
「こんなとこに突っ立ってないで、ほら、座りなさい。」
賢司さんはそう言うと、わたしの肩に手を置き、カウンター席の一番端に案内してくれた。
あまり人目につかない席をわざわざ選んでくれたのは、全身びしょ濡れであまりにも悲惨な姿のわたしに配慮してくれての事だろう。
賢司さんは、わたしをカウンター席に座らせると、「今、タオル持って来るわね。」と言い、一度その場から離れて行った。
一番端のカウンター席に座るわたしは、クルリと後ろを振り向くと、ピアノを奏で続ける男性が醸し出す不思議な魅力に釘付けになっていた。
すると、バスタオルを持った賢司さんが戻って来て、わたしの頭からそのタオルを被せた。
フカフカで肌触りが良いタオルからは、微かにフローラルの香りがした。
「こんなに濡れちゃって、せっかくの美人が台無しよ。」
そう言いながら、力強さの中に優しさを感じる賢司さんの手は、雨を含んだわたしの髪の毛を拭っていく。
それと共に、どこかへ置き去りにして来てしまっていたかのような自分の心が、少しずつ現実へと引き戻されるのを感じ、一気に寒気がわたしを襲ってくると、足先から頭の天辺までが身震いした。
「ほーら、風邪引いちゃう。」
わたしの震えに気付いた賢司さんは、わたしの髪を拭い湿ったタオルとは違う乾いたタオルをわたしの肩に掛けると、小走りでカウンター内に入って行きしゃがみ込んだ。
そして、そこから持って来てくれたのは、カウンター内で足元を温める為に使っていた電気ヒーターだった。
「ちょ〜っと頼りないけど、無いよりはマシでしょ?」
賢司さんはそう言うと、電気ヒーターをわたしの足元に置いてくれた。
「ありがとうございます。」
力無く掠れた声でわたしがそう言うと、賢司さんは優しくと微笑み、「今、コーンスープ持って来るわね。」と言って、カウンター裏へと姿を消して行った。
それから数分待つと、賢司さんは白いカップに入ったコーンスープを運んで来てくれた。
フワッと湯気が立つコーンの粒たっぷりの”SEVENS BAL”のコーンスープは、わたしのお気に入りだ。
「ほら、これ飲んで温まりなさい。」
まるで小さな子ども相手に言うような包容力を感じる賢司さんの言葉は、身も心も冷え切ったわたしを包み込む。
わたしは雨に濡れ体温が奪われた両手でカップを包み込むように持つと、そっと口元へ運んでいき、息を吹き掛けた。
そしてカップに添えられていた真ん丸のスプーンで熱いコーンスープを掬い上げると、わたしはそっと口を付ける。
少量でも熱さを感じる程のコーンスープに口の中が火傷してしまいそうになったが、コーンの程良い甘さが身体へと沁み込んでいくのを感じた。
「美味しい······」
コーンスープの温かさから少しだけ気持ちが解され、わたしがそう呟くと、賢司さんは「当たり前でしょ?愛情たっぷりに作ったんだから!」と言って、綺麗なウインクをした。
賢司さんはカウンター内に入り、カウンターを挟んでわたしの目の前に立つと、近くに居たスタッフに「あたししばらく動けないから、よろしくね?」と伝え、わたしに付きっきりになってくれた。
「少しは落ち着いた?」
首を傾げてそう言う賢司さんに、わたしは「はい、すみません、ご迷惑をおかけして······」と言うと、コーンスープが入ったカップをそっと置いた。
「何も迷惑なんかじゃないわよ。それで、何があったの?話せる?」
自分から話を切り出すのが苦手なわたしを分かってか、涙の理由を引き出そうとしてくれる賢司さん。
わたしは小さく頷くと、ゆっくりと今日あった出来事を賢司さんに話していった。
賢司さんは、真剣な表情でわたしの話に耳を傾けてくれていた。
話している内に感情が込み上げてきて、涙声で言葉に詰まりながらも何とか伝えようとするわたしの話を、聞き取りづらいところがあったにも関わらず、賢司さんは急かす事も遮る事もなく、静かに聞いてくれた。
「もう本当に、会社といい彼氏といい腹立つ奴らね!」
わたしが話し終えたタイミングで、賢司さんは怒りを露わにする。
わたしは自分の事で賢司さんが怒ってくれた姿に、ボロボロだった心が少しだけ救われた気がした。
「雫ちゃん、そんな奴らの為に涙流す事なんて無いわよ!そういう奴らにはね、必ず天罰が下るから!」
そう言って、手に握り締めていた布巾をバシバシとカウンターテーブルにぶつけ、怒りを表す賢司さんの姿に、わたしは何だか笑えてきてしまう。
すると、眉間にシワを寄せていた賢司さんが突然ハッとした表情に変わり、わたしの背後に視線を向けた。
それにつられてわたしも振り向こうとすると、賢太さんが手招きをしながら「あ!慧仁くん!ちょっとこっち来て!」と言った。
「どうしたんですか?賢司さん。」
そう言って、こちらに歩み寄って来たのは、先程までグランドピアノで”最後の雨”を奏でていた男性だった。
賢司さんが”慧仁くん”と呼ぶその男性は、わたしが座るカウンター席の隣まで来ると、自然な流れでわたしの隣の椅子に腰を掛けた。
わたしは”慧仁くん”の登場に、慌てて濡れて乱れた髪の毛を手ぐしで整えようとした。
「ねぇ、慧仁くんのとこの会社、今求人募集してない?」
カウンターに手を付き、首を傾げながらそう訊く賢司さんの表情は険しく、問い掛けられた”慧仁くん”は、低くも滑らかな落ち着いた声で「してますけど、何かありました?」と言った。
「この子、あたしの妹みたいなもんなんだけどね、今新しい仕事探してるところなのよ。」
そう言って、賢司さんはカウンターから身を乗り出すと、わたしの肩に手を触れる。
賢司さんがわたしの事を”あたしの妹”と言ってくれた事が嬉しくて、わたしは微かに口角を緩ませた。
「慧仁くんの力で何とかならなぁい?」
「あ、いえ、そんな!申し訳ないです!わたしは大丈夫ですから!」
賢司さんが無理なお願いをしているように見えたわたしは、慌てて止めようとしたのだが、賢司さんは「大丈夫じゃないでしょ!」とわたしを説得するように言って、わたしの肩に置く手に力を込めた。
「慧仁くん、こう見えて”BLENDA(ブレンダ)“の総務課人事課長なのよ?」
「えっ?!”BLENDA”って、あの文具メーカーの”BLENDA”ですか?!」
わたしがそう驚くと、賢司さんは得意気な表情で「そう!凄いでしょ?」と言い、そんな賢司さんを見た”慧仁くん”は「別にそんな凄くないですよ。」と言って控えめに笑っていた。
“BLENDA”とは、日本では誰もが一度は手にした事がある程のボールペンやシャープペンで有名な文具メーカーなのだ。
「なぁに言ってるのよ!”BLENDA”なんて一流企業じゃない!あたしだって、”BLENDA”のボールペン愛用してるわよ?」
賢司さんはそう言うと、着ているシャツの胸ポケットから一本の黒ペンを摘んで持ち上げて見せた。
それを見た”慧仁くん”は、「いつもご愛用頂き、ありがとうございます。」と言って、優しい笑みを浮かべたのだが、その微笑む横顔があまりにも美しく、わたしは思わず目を逸らしてしまった。
「あ、そうそう、雫ちゃんにまだ紹介してなかったわよね!このいい男は、雨城慧仁くん!最近よくピアノを弾きに来てもらってるのよ!」
そう言う賢司さんの紹介から、「初めまして、雨城です。」と程良く低いイケメンボイスで自己紹介してくれる雨城さんは、わたしの方へと顔を向け会釈をする。
恥ずかしくて直視出来ない程の整った美しい顔立ちと、内面から放たれる穏やかなオーラに圧倒され、わたしは緊張で強張った表情を何とか引っ張り上げながら、「初めまして、芽吹雫です。」と自分の名を名乗った。
「それでね、さっきも言ったけど、うちの雫ちゃんどうかしら?若いのに、真面目で仕事熱心な子よ?」
「僕は構いませんけど···、どうしますか?」
賢司さんからのお願いに、雨城さんは落ち着いた様子でそう訊き、わたしに判断を委ねる。
正直言うと、今すぐにでも新しい職に就かなければいけない状況だ。
残っていた有給休暇も使わずに辞めてしまい、働かなければ生活をしていけない。
わたしは(そんな一流企業にわたし何かが通用するのだろうか···)という不安を抱きつつも、「本当に、いいんですか?わたしなんかが······」と控えめに問い掛ける。
「雫さんが前向きに考えてくださるなら、まずはうちの会社に見学に来てみませんか?それから働きたいかどうかを決めて頂いて構いませんよ。」
雨城さんの提案に「そうしなさいよ!まずは見学に行ってみたら?」と、賢司さんはわたしの背中を押してくれる。
わたしが賢司さんの言葉に「はい。」と自信無さ気に小さく頷くと、賢司さんは「そうしましょ、そうしましょ!」と嬉しそうに手を合わせ叩いた。
「雫ちゃんの事、よろしくね?」
雨城さんにそう言う賢司さんは、安堵の笑みを見せる。
わたしは雨城さんの方に身体を向けると「よろしくお願いします。」と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。お世話になっている賢司さんからの推薦ですから、こちらとしては歓迎しますよ。」
そう言う雨城さんもわたしの方に身体を向けると、同じように頭を下げ、姿勢が良くとても紳士的な対応をしてくれた。
それから、”いつ見学しに行くか?”についての話になり、わたしはいつでも日程を合わせる事が出来るので、その旨を雨城さんに伝えると、「行動に移すなら、早い方がいいですよね。」と言う雨城さんの判断により、早速明日に見学させてもらえる事になった。
「うちの本社が澄田駅のすぐ傍なんですけど、雫さんのご自宅はどの辺ですか?」
雨城さんからの問いに、わたしはどう答えようか迷う。
なぜなら、今のわたしには帰れる場所がないからだ。
恋人”だった”弘太郎と同棲していたわたしは、浮気現場を目の当たりしたあの家には帰りたくもなければ、帰るつもりもなかった。
わたしは答えに戸惑いカウンターテーブルに視線を落とすと、異常な程に瞬きを繰り返した。
そんなわたしの様子を見た察しの良い賢司さんは、「もしかして、彼と同棲してたの?」と訊く。
わたしが賢司さんの言葉に苦笑いを浮かべながら頷くと、賢司さんは「あら、やだ。大変!」と綺麗なネイルが施された右手の小指を立てながら、口元を手で覆った。
「どうかしたんですか?」
わたしの事情など知る筈もない雨城さんは、賢司さんとわたしを交互に見ながら疑問を問い掛ける。
先程から賢司さんばかりを頼ってしまっているわたしは、あまりにもプライベートな話題を話そうか迷いつつも、自分の口から「実は······」と、帰る場所がない理由を話した。
すると、それを聞いた雨城さんは、「それは帰りたくないですね······」と腕を組み、表情を強張らせた。
「あ、でも、大丈夫です!新居が見つかるまで、その辺のビジネスホテルにでも寝泊まりするので!」
わたしは出来るだけ明るい口調でそう言うと、平然を装った。
しかし賢司さんは、そんなわたしの心情を見抜くかのように「もう、大丈夫じゃないくせに!そんなに無理して明るく振る舞う必要なんてないのよ?」と言い、わたしの肩をバシッと強く叩いた。
「ビジネスホテルだなんて、連泊したら結構お金かかるでしょ!そんなのにお金遣うだなんて勿体ないわ!でも、どうしましょね···、うちに来なさいって言いたいところだけど、うちには純ちゃんがいるし······」
そう言って、賢司さんは考え事をするように顎に手を添える仕草をする。
賢司さんの言う”純ちゃん”とは、同棲をしている賢司さんの恋人の事だ。
「わたしは大丈夫ですよ!何とかなりますから。」
「でもぉ······」
わたしの事を心配する賢司さんが不安気に口角を下げると、そこに雨城さんが「あのぉ······」と言いながら、小さく手を挙げた。
「もし、雫さんがよろしければですけど、うちに泊まりますか?」
そう言う雨城さんの言葉の意味をわたしはすぐに理解出来なかった。
しかし、頭が追い付かずポカンとしているわたしの傍らで、賢司さんは「いいのぉ?!」と大袈裟という程の喜びの反応を見せていた。
「僕は構いませんよ。雫さんが抵抗なければ······」
そう言って、前のめりになる賢司さんに微笑みかける雨城さんの姿にわたしは思考が追いつかないままぼんやりとしていた。
すると、雨城さんに向けていた強い眼差しをわたしの方に向けた賢司さんがパッと花開いたように微笑んだ。
「雫ちゃん、慧仁くんの家に泊めてもらいなさいよ!この男なら、安心して雫ちゃんを任せられるわ!」
賢司さんの言葉に徐々に状況が呑み込めてきたわたしは、ハッとして「えっ?!」と大きな声を上げてしまう。
(雨城さんの家に?!泊めてもらう?!いくら何でも、今日初めて会った男性の家にお邪魔するのは······)
口には出さずに心の中だけでそう思ったはずなのだが、まるでそれを読み取ったかのように「大丈夫よ、雫ちゃん!」と言う賢司さんは、わたしの混乱を宥めるように手を前に出した。
「慧仁くんはね、こう見えて女っ気がない硬派な男なのよ!あまりにも女っ気がないから、もしかしてあたしと同じタイプなのかと疑ったくらいよ!」
「賢司さん、”こう見えて”ってどう見えてるんですか?」
雨城さんはそう言うと「はははっ」と静かに笑った。
それに対し賢司さんは、「慧仁くんみたいないい男は、大体どうしょうもない女たらしだったりするのよぉ〜。」と言い、「あはははは!」と口元を手で隠しながら豪快に笑っていた。
「実はね、あたしと慧仁くんは同じマンションのお隣さんなのよ!でも、女のカゲ一つも感じた事ないわよ!この男、せっかくいい男に生まれてきたのに、仕事ばっかりしてるの!」
「仕事が好きなんですよ。」
「仕事が恋人ってやつぅ?もうやだぁ〜!」
そう言って笑いながら、賢司さんは雨城さんの肩を容赦無くバシバシと叩く。
賢司さんから見て、雨城さんがそう見えているのであれば、本当に信用出来る人なのかもしれない。
疑いと不安の中でもそう思い始める自分がいた。
「だから、雫ちゃん!安心しなさい!あたしも隣に住んでるし、あたしの大事な”妹”に手を出すような男じゃないから!これから引っ越しでお金かかるんだから、そのくらい甘えちゃいなさい!」
そう言う賢司さんの押しに負けたわたしは、「えっと、じゃあ···よろしくお願いします。何から何まですいません。」と賢司さんの勧め通り、雨城さんに甘える事にしてしまった。
雨城さんは、「いえいえ、気にしないでください。」と穏やかな口調で言うと、「それじゃあ、賢司さんの美味しいご飯を食べてから帰りましょうか。」と言って、その場を和ませてくれた。
―――帰りましょうか。
その言葉は何だか温かくて、弱っている今のわたしの心には、あまりにも優しくじんわりと沁み込んでいくのを感じたのだった。
それから、賢司さんが作ってくれた幾つもの料理をいただき、身も心も癒やし満たされたわたしは、賢司さんに見送られながら雨城さんと共に”SEVENS BAL”を後にした。
普段からあまりお酒を飲まないという雨城さんは車通勤らしく、残業が無い日は仕事を終えてから”SEVENS BAL”に立ち寄り、ピアノを弾いて、賢太さんが作る料理を食べてから帰宅するというのがルーティンなのだと話してくれた。
すっかり雨も止み、夕陽が沈んだ後のまだ雲がかかる夜空の下、”SEVENS BAL”の近隣にある有料駐車場に向かう雨城さんは、その中でよく目立っていた大きな黒い四駆の車に近付いて行く。
そして、スーツのポケットからリモコンキーを取り出すと、その車のヘッドライトが点滅した。
「どうぞ。」
雨城さんはそう言って、車の助手席のドアを開けると、わたしが乗りやすいように促してくれる。
特別車に興味があるわけでもなく、自動車免許すら持っていないわたしだが、雨城さんの車が高級車なのだという事だけは一目瞭然だった。
「···失礼します。」
そう言って、わたしは緊張気味に雨城さんの車に乗り込んだ。
助手席に座ると、甘過ぎない爽やかな香りがふんわりと香り、綺麗に整頓された車内は清潔感そのものだった。
助手席のドアを閉め、クルリと運転席側に回って来た雨城さんは、スマートに運転席へと乗り込む。
そして雨城さんがシートベルトを締めるのを見て、わたしも慌ててシートベルトを締めると、エンジンがかかり「それじゃあ、出発しますね。」と言う雨城さんの声と共に車は静かに発進された。
すると、振動もほとんどなく静かな車内にわたしのスマートフォンのバイブ音が鳴り響く。
実は、まだ”SEVENS BAL”に居た時からバッグの中でしつこく鳴り続けている事に気付いてはいたのだが、わたしはずっと無視し続けていたのだ。
「電話じゃないですか?出なくていいんですか?」
雨城さんはそう言って気にしてくれたのだが、わたしは「大丈夫です。すいません、うるさくて······」と言い、電話に出る事はしなかった。
電話の相手が弘太郎である事は、確認しなくとも分かっていたからだ。
ただ、このまま何度も鳴り続けるのは煩いと思い、わたしはスマートフォンの電源を落とす事にした。
その際にチラッとスマートフォンのディスプレイが見えたのだが、LINEと着信履歴の件数がとんでもない事になっていた。
それから10分もしないうちに、雨城さんの車はある駐車場へと入って行った。
見慣れない景色にわたしがキョロキョロしていると、雨城さんが「着きましたよ。」と落ち着いた口調で教えてくれる。
その駐車場の横には、背の高い灰色のマンションが所々に明かりを灯しながら聳え立っていた。
“7”と記された指定の駐車スペースに車が停まると、シートベルトを外し、車から降りる。
広い通りから住宅街に一本中に入ったところに建つそのマンションは、周りに建つどのマンションよりも目立っており、中庭のようなスペースを囲うようにして建ち並んでいた。
わたしは歩き出す雨城さんの後に続き、一番左端にある一棟のマンションの中へ入って行く。
雨城さんはエントランスにたくさん並ぶポストの中から、”A-702”と記されたポストを開けて郵便物を確認すると、ガラスドアの横にある差込口にカードキーを差し込んでオートロックを解錠した。
解錠されたガラスのドアは自動で横に開き、わたしたちはその中へと進んで行く。
オートロックがついたマンションに住んだことがないわたしは、何もかもが新鮮に感じ、ワクワクとドキドキを密かに抱きながら雨城さんの後について歩いて行った。
「立派なマンションですね。」
エレベーターに入ったタイミングでわたしがそう言うと、雨城さんは「一人で住むには、ちょっと広過ぎましたね。住めればどこでも良かったので、一番最初に内見に来たこのマンションにすぐ決めてしまったんですよ。」と言って苦笑いを浮かべながら、エレベーター内にある扉横の階数ボタンの中から”7”を押していた。
そしてエレベーター内に入り、雨城さんの横に立ってみて思ったのだが、雨城さんは背が高く、160センチあるわたしよりも20センチ近くは背丈が違うように見えた。
(7階かぁ。家賃結構するだろうなぁ······。”BLENDA”の人事課長って言ってたもん、そりゃそうか。)
そんな事を考えながら、ゆっくり上るエレベーターが7階に着くのを待っていると、エレベーターはあっという間に7階に到着し、雨城さんは7階フロアの奥の方へ進んで行き、奥から数えて2番目の扉を解錠し、ドアノブに手を掛けた。
「着きましたよ。どうぞ、入ってください。」
そう言って扉を開ける雨城さんは、玄関の照明を点ける。
わたしは「お邪魔します······」と言いながら、遠慮がちに玄関へと足を踏み入れた。
暖色のライトが照らすのは、広々とした玄関と真っ直ぐにリビングへと続く殺風景な廊下。
雨城さんは玄関の扉を閉めて鍵を掛けると、「何もないですけど、自宅だと思ってくつろいでくださいね。」と言って、茶色い革靴を脱ぎ揃えた。
それから普段使っているのであろうダークグレーのスリッパに足を通すと、玄関の壁寄りに置いてあるスリッパ立てから来客用らしいライトグレーのスリッパを手に取り、わたしが履きやすい向きで床に置く。
雨城さんのその動作のあまりのスマートさにわたしは、(こんなわたしがお邪魔して良かったのだろうか······)と、今更ながらに不安になってきてしまった。
無駄な動きがない雨城さんは、そのまま廊下の向こう側へと足を進めて行く。
わたしは賢司さんの電気ヒーターのおかげで乾いたパンプスから足を解放させると、雨城さんに用意して頂いたスリッパに足を通した。
その瞬間、スリッパの肌触りの良さと履き心地に締め付けられていた足が解されていくのが分かった。
長めの廊下を歩き、その先にある開いたドアから中を覗き込むと、そこには広々としたリビングが広がっていた。
ホワイトフローリングによく映えるダークブラウンの家具に、肌触りが良さそうなグレーのラグ。
住宅街の夜景が広がる大きな窓辺には、大きな葉の観葉植物が置かれている。
センスを感じるそのインテリアや家具の配置に、インテリアコーディネーターの経験でもあるのではないかと疑ってしまう程だ。
わたしが物珍しそうにリビングを眺めていると、雨城さんは「どうしたんですか?」と言って、微かに笑う。
雨城さんの反応に自分の挙動が恥ずかしくなったわたしは、「いえ、お洒落なお部屋だなぁと思って。」と言い、微笑みを浮かべて誤魔化した。
「そうですか?気に入って頂けたなら良かった。何か飲みますか?珈琲でも淹れましょうか。」
そう言いながら、対面になっているキッチンに入って行く雨城さんは、キッチン内の棚に置かれたブラックの珈琲メーカーの電源を入れた。
「あ、そんな気になさらないでください。」
「珈琲はお嫌いですか?」
「いえ、好きですけど······」
わたしがそう答えると、雨城さんは「良かった。」と穏やかに微笑み、食器棚を開けてカップを取り出した。
「珈琲はブラックが良いですか?それともカフェラテの方がお好きですか?」
「じゃあ···、カフェラテでお願いします。」
「カフェラテですね、了解。」
遠慮するつもりが、結局お言葉に甘えてしまう形になってしまい、何だか申し訳なく感じてしまう。
わたしはリビングの中央の方まで足を進めると、住宅街とずっと先の方まで見える景色を眺めながら「夜景、綺麗ですね。」と呟くように言った。
「7階でも意外と向こうの方まで見えるんですよね。夏は、毎年ある琥珀川の花火大会も見えたりするんですよ。」
そう言いながら、雨城さんは珈琲の準備を進めていく。
わたしは「花火も見えるんですか?わざわざ行かなくても花火大会が見れるなんて最高ですね。」と言い、窓辺の方へと歩み寄って行った。
「まぁ、一緒に見る人が居るわけじゃないので、最高なのかどうかは分かりませんが、毎年大体、お隣のベランダから賢司さんと純一さんの仲睦まじい会話が聞こえてくるので、それが聞こえてくるのが微笑ましいくらいです。」
そう言って静かに笑う雨城さんだが、それに対してわたしはどう反応して良いのか迷ってしまった。
賢司さんは、雨城さんは女っ気が無いと言っていたけれど、本当なのだろうか。
こんなに素敵な人の隣がずっと恋人不在だなんて事があるのだろうか。
わたしは、その事実が何だか信じられなかった。
「さぁ、カフェラテ出来ましたよ。砂糖は使います?」
キッチン内からカップを少し持ち上げて見せながらそう言う雨城さんの言葉と共に、香ばしい珈琲の香りが漂ってくる。
わたしは「いえ、砂糖は大丈夫です。」と答えると窓辺から離れ、リビング中央に置かれたソファーの方へと足を進めた。
「どうぞ、お掛けになってください。」
ダークブラウンの3人掛けソファーに手を差し、わたしを促す雨城さんの言葉でわたしはソファーに腰を掛ける。
雨城さんはわたしがソファーに腰を掛け落ち着くのを確認すると、わたしにカフェラテが入った無地でアイボリーの珈琲カップを差し出した。
「ありがとうございます。」
そう言って、わたしは差し出された珈琲カップを両手で包み込むように受け取る。
そして、雨城さんは自分のブラック珈琲が入ったカップを手にしながら、わたしの隣に腰を下ろした。
「いただきます。」
わたしはそう言い、珈琲カップを口へと運んでカフェラテをそっと口を付ける。
まろやかなミルクの香りと珈琲豆の香りが口の中に広がり、それは家で飲めるカフェラテとは思えない程の美味しさだった。
「少し落ち着けましたか?」
「はい、お陰様で。雨城さんと賢司さんのお陰ですね。」
わたしがカフェラテにホッと一息つきながらそう言うと、雨城さんは「いえ、」と首を小さく振り「僕は何もしていませんよ。」と謙虚に言った。
「何から何までお世話になってしまって、本当に申し訳ないです。」
「お気になさらず。賢司さんも大切な”妹”さんのような雫さんを放っておけなかったんですよ。」
雨城さんはそう言ってブラック珈琲を一口飲むと、目の前のテーブルにカップを置いた。
「転職は、前から決めていたんですか?」
何気ない雨城さんの問いに、わたしは「いえ、そうでもなくて······」と言うと、何の説明もせずにいるのも失礼だと思い、今日会社で起きた出来事を雨城さんに話す事にした。
「実は、今までずっとあたためてきて、やっと通った企画があったんですけど、そのプロジェクトのリーダーにわたしが指名されたはずが、突然”無かった事にして欲しい”って言われて。」
わたしがそう話すと、雨城さんは「無かった事に?どうしてそんな突然?」と、不審そうな表情を浮かべた。
「わたしがプロジェクトリーダーになるのを反対した人が居たみたいで···、その人が誰なのかは、見当が付いてるんですけどね。」
「···普段から、雫さんに嫌がらせをしていた人が居た、という事ですね。」
わたしの言葉から何かを察し、そう言う雨城さんは、複雑な表情を浮かべると、テーブルに置いたカップに手を伸ばした。
「そしたら上司が、プロジェクトリーダーは違う人に変えると言い出したんです。しかも新しく指名した人の名前が、わたしの”見当が付いていた人”で。それが納得いかなくて、企画自体を無くしてくださいって申し出たんですけど、それも却下されて···、最終的には違う支店に異動って言われたので、辞める事にしたんです。」
「···なるほど。」
全てを悟るかのような雰囲気を漂わせる雨城さんは、表情には出さないが呆れているように見えた。
そして、雨城さんは「会社って、どうして加害者を庇うんでしょうね。」と言って、カップを口へと運んだ。
「今まで、自分なりに頑張ってきたつもりだったんですけど···、努力は報われるだなんて、嘘だと思いました。それで帰れば、彼が知らない女を家に連れ込んでて···、わたしの人生って、何なんでしょうね。」
わたしはそう言って強がりの微笑みを浮かべると、珈琲カップを口に運び、冷めかけたカフェラテと一緒に悲しみを飲み込んだ。
「···それなら、努力は報われるんだって事をうちの会社に来て、見せ付けてやればいいですよ。雫さんを失った事を後悔させてやりましょう。」
強がるわたしが醸し出してしまった切なさを、雨城さんの優しい言葉が包み込み、わたしの心が泣き出しそうになるのを感じた。
しかし、わたしは痛む心をグッと抑え、堪えた涙を笑顔に変えて見せた。
(強くならなきゃ。泣いてなんていられない。)
そう思いながら、わたしは雨城さんに「そうなれるように、頑張ります。」と誓った。
「あ、ちなみに何ですけど、希望の部署とかありますか?企画の仕事をしていたなら、同じような事をしたいですか?それとも、違う業務をやってみたいとか。」
雨城さんはそう言って長い脚を組むと、その膝の上にカップを持つ手を置いた。
わたしは雨城さんの言葉に悩む事無く「やっぱり今までやっていたような仕事がしたいですけど···」と答えたが、この際我儘を言っていられるわけもなく、職にあり就けるだけで有難いと思い、「雇っていただけるなら、どんな仕事でもやります。」と強い口調で告げた。
すると、雨城さんはわたしの答えに優しく微笑み、「雫さんは、本当に仕事が好きなんですね。僕と同じだ。」と言った。
その言葉がわたしには途轍も無く嬉しい褒め言葉に聞こえ、返答に詰まる程に照れてしまう。
その時、ふとわたしの視線が雨城さんの手に止まった。
カップを持つ、男らしさの中にもしなやかさを感じる綺麗な長い指。
この手でピアノを弾いていたのだと思うと、わたしは先程の”最後の雨”を思い出した。
「···あっ、そういえば、さっき”SEVENS BAL”で弾いてたのって、”最後の雨”ですよね?」
照れる自分を誤魔化す為に話を逸らし、わたしがそう訊くと、雨城さんは「あの曲、知ってるんですか?」とハッと驚くような表情を浮かべた。
「はい、子どもの頃に父がよく聴いていた曲なので、知ってるんです。いい曲ですよね。」
わたしがそう言うと、雨城さんは喜びが溢れるような微笑みを浮かべ「僕が一番好きな曲なんですよ。雫さんが知ってるなんて嬉しいなぁ。」と言った。
「あっ、そうだ。雫さん、こっちに来てください。」
雨城さんはそう言ってほとんど珈琲を飲み終えたカップをテーブルに置くと、ソファーから立ち上がった。
それに続き、わたしも珈琲カップをテーブルに置くとソファーから立ち上がり、歩き出す雨城さんに続いて、リビングを出る。
雨城さんが向かったのはリビングから出て、廊下のすぐ左側にあったドアの前だった。
そのドアのドアノブに手を掛け、ドアを開ける雨城さんは、部屋の電気を点ける。
すると、その部屋の奥にアップライトピアノが置いてあるのが見えた。
「あっ、ピアノあるんですね。」
わたしがそう訊くと、雨城さんはこちらを振り向き、「この部屋は防音にしてあるんですよ。」と言って、部屋の中へと進んで行った。
そして黒く光るアップライトピアノの元へ歩み寄って行き、鍵盤蓋を開ける。
わたしも遠慮がちに部屋の中に足を踏み入れると、そっと雨城さんへ歩み寄り、近くでアップライトピアノを見せてもらった。
学校の音楽室で見た事があるくらいで、全くピアノが弾けないわたしには、あまりにも新鮮で胸がワクワクして跳ね上がるのを感じた。
「ここで弾いたりもするんですか?」
「たまに弾きますよ。何か弾きましょうか?」
雨城さんはそう言いながらピアノの椅子を引き、腰を下ろした。
「えっ、弾いてもらえるんですか?」
「リクエストがあれば、いいですよ。」
わたしのリクエストでピアノを弾いてもらえる。
そんな経験をした事が無いわたしは、胸のワクワクが止まらなかった。
「じゃあ、やっぱり”最後の雨”ですかね。さっきも聴き入っちゃいましたけど、凄く素敵だったので。」
わたしが思わず本音を言うと、雨城さんは嬉しそうに微笑み「ありがとうございます。じゃあ、リクエストにお応えして。」と言い、ワイシャツを腕捲くりした。
それから、そっと鍵盤に手を添える。
その指先はやはり綺麗で、その手を見るだけで鼓動が高鳴るのを感じた。
雨城さんは自分のタイミングでそっと”最後の雨”を前奏から弾き始めた。
全身を使って奏でる雨城さんの”最後の雨”は、まるで歌うようで、不思議と脳内で歌声が再生されているように聴こえた。
今日のわたしの心が弱っているせいもあるが、その切ないラブソングが胸にストレートに刺さり、心が揺らぐのと同時に鼻の奥がツンとするのを感じた。
しかし、きっと心が弱っていない日だとしても、雨城さんが弾く”最後の雨”には、心を浄化させる作用があると思った。
なぜ、こんなにも心に響くように奏でられるのだろう。
雨城さんの醸し出す不思議な雰囲気と切ない音色に、わたしはすっかり心を奪われ、ピアノと一体になる雨城さんから目が離せなくなっていたのだった。
そして、丸々一曲分弾いたはずの約5分間はあっという間に終わりを迎え、わたしは最後の伸びた音が聞こえなくなってから、熱い拍手を鳴らせた。
部屋に響く、わたし一人の拍手の音。
雨城さんは椅子に座ったままこちらに身体を向けると、「ありがとうございました。」と言い、深い一礼をした。
「素敵でした。ずっと聴いていられるくらいに。」
わたしは熱くなる気持ちを抑えながらそう言うと、自然と零れ落ちてきた涙を指先で拭った。
泣くつもりは無かったのだが、雨城さんの”最後の雨”を涙無しで聴くのは無理だと思った。
雨城さんは椅子から立ち上がると、拍手をするわたしの姿を見て穏やかに微笑み「いつでも弾きますよ。」と言ってくれた。
「あっ、それから。雫さんは、この部屋を使ってください。」
穏やかな口調でそう言う雨城さんは、アップライトピアノが置かれている壁とは反対側の壁に置かれていたソファーへと歩み寄り、そのソファーを動かし始めた。
「これ、ソファーベッドなんですよ。」
そう言いながら、雨城さんは手際良くソファーからベッドへと変化させていく。
たった今、普通のソファーだと思っていた物があっという間にベッドへと変化していき、雨城さんはその横にあるクローゼットを開けると、そこから敷布団を運び出し、ソファーベッドの上に敷いてくれた。
「ありがとうございます。こんな素敵な部屋で眠れるだなんて嬉しいです。」
わたしがそう言ってる間に、寝心地が良さそうなベッドへと変身を遂げるソファーベッド。
雨城さんは「この部屋、気に入っていただけました?」と言うと、クローゼットを閉め、それからさっきまで雨城さんと一体になっていたアップライトピアノの鍵盤蓋を閉めていた。
さっきまでアップライトピアノばかりに気を取られて、他のものは目に入っていなかったのだが、改めてよく見てみると、6畳程のその部屋には、アップライトピアノとソファーベッドの他にお洒落な背の高いスタンドライトも置いてあり、天井から下がる球体の照明は可愛らしかった。
「はい、とっても。」
雨城さんの言葉にわたしがそう答えると、雨城さんは優しく微笑み、それから「あっ、そうだ。」と何かを思い出したかのように言った。
「明日着る服に困りますよね。今日の服、洗濯しておきましょうか。乾燥まで出来るので、明日には乾いていますよ。」
「えっ、そこまでして頂かなくても!」
「でも···、服、他にありませんよね?」
雨城さんにそう言われてしまい、(確かに···)と思ってしまう自分がいた。
明日は雨城さんの会社に見学に行く予定だ。
さすがに洗ってもいない同じ服を着て行くのは、気が引けてしまう。
「今は僕の服を貸しますから、その間に洗っちゃいましょう。」
わたしは自分が失態を連続している事に頭を抱えながらも「本当に申し訳ないです···」と呟き、結局は雨城さんのお言葉に甘える形となってしまった。
その後、わたしはアップライトピアノが置いてある部屋の斜め向かいにあるバスルームへと案内してもらった。
洗面室には白い棚にチョコレート色の籠が収納されており、その籠の中には真っ白なタオルが並んでいた。
ホテルのようなお洒落な形状の洗面台に縦に楕円の鏡。
置いてある洗濯機はドラム式で、使った事のないわたしは雨城さんに使い方を教わり、自分で洗濯機を回す事にした。
さすが洗濯までを雨城さんにお願いする訳にはいかなかった。
それから着替えを貸してくれた雨城さんは、お風呂を沸かし、わたしに一番風呂を譲ってくれた。
わたしは「後でいいです!」と遠慮したのだが、「今日は雨に濡れてしまいましたから、風邪を引くといけないので、温まって来てください。」と、わたしを納得させるのが上手い雨城さんのペースに乗せられ、わたしが先に入らせて頂く事になってしまったのだ。
(なぜか、雨城さんの言う言葉には強く断れないんだよなぁ······)
そんな事を考えながら、浴室に入ると、浴室もまたお洒落で白を基調とされた内装になっていた。
真っ白に床にグレーの石柄の壁、それから広い浴槽。
わたしは人の家ではなく、高級ホテルにでも泊まりに来てしまったのではないかと錯覚してしまう程だ。
わたしが今まで住んできた家には付いていたことがない追い焚き機能もついており、”42度”に設定されていた。
柑橘系の香りが漂うライム色の湯船に足から入っていくと、身体の芯はまだ冷えていたのか、その温かさから全身に心地良い痺れが伝わった。
ゆっくりと足から肩まで湯船に浸かると、自然と零れるのは幸せな溜め息。
その入浴剤の香りと湯船の程良い温かさは、今日あった嫌な出来事も吹き飛ばしてくれるような気持ちにさせた。
(···気持ちいい。)
わたしは目を閉じると、身体の芯まで温まっていくその感覚に意識を集中させた。
しかし、目を閉じてみると思い出すのは、脳裏に焼き付いてしまっていた思い出したくもない光景ばかり。
どうしてこうなってしまったのか、何度考えてみても答えは出ない。
けれど、わたしは(これで良かったんだ。)と自分に言い聞かせる事しか出来なかった。
いくら努力をしても報われない環境から離れる事が出来た。
わたしを愛しているフリをして、騙していた弘太郎の本性に気付けた。
それは、今後のわたしの為になる。
わたしはそう言い聞かせる事で、自分を保つ事しか思い浮かばなかったのだ。
(それに、あの出来事があったからこそ、雨城さんの”最後の雨”に出会えた。)
わたしには、それが一番の自分へのご褒美に感じたのだった。
すっかり温まり、お風呂を済ませたわたしは、フカフカのバスタオルで全身を拭いていく。
(どうやって洗ったら、こんなにフカフカのタオルに仕上がるんだろう。)
わたしはそんな事を考えながら、そのタオルでお湯がたっぷり染み込んだ髪の毛をタオルドライしていき、それから雨城さんに借りた着替えに手を伸ばした。
普段雨城さんが着ているのであろう白い無地のTシャツ。
生地は少し厚めで、これであれば透ける事もないだろうと安心できるようなTシャツだ。
しかし広げてみると、当然ではあるのだが、わたしにはサイズがかなり大きい。
サイズは、メンズのLサイズといったところだろうか。
試しに着てみたが、やはりわたしには大き過ぎて、丈の短いワンピースのようになってしまった。
自宅であれば、そのTシャツ一枚で過ごすところだが、雨城さんを前にしてその姿でいるわけにもいかず、わたしは借りていた下のスウェットも穿いてみた。
すると、自分でも笑けてしまう程に丈が長過ぎて、大人の服を着てしまった子ども状態だ。
わたしは何とか着こなそうと、スウェットのウエスト部分を何度か折り込んだ。
そうしてみると、何とか無理矢理ではあるが、自分なりには雨城さんの服を着こなせているような気がした。
そう、自分でその気になっているだけだ。
もうこれ以上はどうにもならないと諦めたわたしは、その姿で恥ずかしながらもバスルームから出て、雨城さんが待つリビングへと向かった。
「お風呂、ありがとうございました。」
そう言ってリビングを覗くと、そこにはソファーに座りながらテレビでニュースを見ている雨城さんの姿があり、雨城さんはわたしの声でこちらを向いた。
わたしの姿を見た雨城さんの反応が気になり、わたしは思わず挙動不審になってしまう。
雨城さんはわたしを見ると、「やはり、サイズが大き過ぎましたよね。」と笑うでもなく、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「いえ、貸して頂けただけでも有難いです。逆にわたしなんかが雨城さんの服を借りてしまって···申し訳ないくらいで。」
わたしがそう言うと、雨城さんはソファーから立ち上がり、こちらへ歩み寄って来た。
そして、わたしの目の前で足を止めると、雨城さんは「でも、可愛らしいですよ。自分の服を女性が着ると、こんな感じになるんですね。」と言い、優しく微笑んでくれた。
――――可愛らしいですよ。
その言葉に照れてしまい、何と言い返したら良いのか言葉に困るわたしは、笑って誤魔化す。
わたしは困ると、すぐに笑って誤魔化してしまう癖があるのだ。
雨城さんはそんなわたしに「温まりましたか?」と声を掛けてくれ、わたしは「はい、とっても良いお湯でした。」と言って、何とか恥ずかしさから抜け出す事が出来た。
その後、時刻が22時を回っていた事もあり、わたしは先に休ませてもらう事にした。
「それじゃあ、明日は8時半には出発しますので。」
「分かりました。」
「では、おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
そんな会話を交わし、わたしはアップライトピアノがある部屋へと入り、ドアを閉めた。
一人の時間になり、ふっと身体の力が抜けていくのを感じた。
わたしはスタンドライトの電気を点けると、天井の照明の電気を落とし、ソファーベッドに腰を下ろすと、目の前にあるアップライトピアノを眺めた。
この部屋に居るだけで、先程雨城さんに弾いてもらった”最後の雨”を思い出す。
(また、弾いてもらえるかなぁ。)
そんな事を考えながら、わたしは布団に入り、ソファーベッドに横になった。
すると、一気に眠気がわたしを襲う。
普段は、場所が変わるとなかなか寝付けないわたしだが、不思議と雨城さんの家では眠りに就けそうな気がした。
そんな眠気と闘いながらウトウトした中で思い浮かべるのは、”SEVENS BAL”で初めて聴き入った雨城さんがグランドピアノを弾く姿だった。
本当に素敵だった。美しいとさえ思った。
(これは、夢じゃないよね?)
そう感じてしまう程、わたしにはあまりにもたくさんの出来事が一気に押し寄せ、印象深い一日だった。
そうしている内に、わたしは自然と瞳を閉じ、いつ眠りに落ちたのか自分でも知らぬ間に夢の中へと誘われていた。
わたしは夢をみた。
しかしどんな夢だったのかまでは、よく覚えていない。
ただ感じたのは、優しさと温かさだった。
それからもう一つ、目を覚ました時、わたしは現実で涙を流していた。
わたしは涙を流しながら、眠っていたのだった。
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うわ……第2話、胸が痛かったです……。芽吹さんの大事な企画が、お局様と上司の身勝手で奪われるなんて。あの「十月十日お腹の中で育てた子を奪われた」って比喩、めっちゃ刺さりました。理不尽すぎて反論もできないまま、無表情で退職届を出したラストが切なくて。でも、その潔さがかっこよかったです。冴木詞雨さんの書く、静かな怒りと感情の描写がすごくリアルで、感情移入しちゃいました🥀🌙
#泣ける
冴木 詞雨
133
臣桜
48,725
星キラリ

2,996
桃下結衣
706
#泣ける