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第5話:セリカ=イムとの昼下がり
SF棚の“第6階層=オービタルドーム”は、今日も静かに回っていた。重力が微妙に不安定で、歩くたびにわずかに身体が浮く。演出の一環だが、没入感は高い。
高野シユは、無言でヘッドセットを締めた。身長は175cm、アバターはそれよりやや細身に調整されており、濃灰のロングコートにモノアイ風の眼鏡をかけている。演者というより“観察者”の立場でログインすることが多い。
今日は「セリカ=イム」のオープン枠に偶然入れた。待機時間なし。人気キャラにしては珍しい。
ブックスペースのSF棚では、感情を持たないキャラに対する“距離感”を楽しむ者も多く、セリカの回は静かな評価を受けていた。
SNSでは、現在《#セリカ回》《#間の演技》《#返答なしがエモい》などのタグが散らばっている。
なかでも議論が続いていたのは、セリカの“応答タイミング”だった。
「会話に0.7秒の“間”があるせいで、感情が読み取れない」という意見と、
「その間があるから、機械じゃない何かに見える」という意見が交錯している。
その議論を監視するように、SF棚の調整担当である学芸員カシノが、SNSに経過報告を上げていた。
今回は“会話予測演算をあえて外し、人間らしい読み間違いを再現する”という試験を行っているという。
【SF棚:第118話『余白と漂流』】
プレイヤーが入ると、無音のドームに微細なノイズが流れていた。
目の前のイスに、セリカ=イムが座っていた。
彼女の姿は、10代後半の少女のように見える。髪は白に近い銀で、質感は光沢のあるシリコンのよう。瞳は透明なガラス球。制服のようなグレートーンの装備を着て、腕を組んでじっと座っていた。
セリカはこちらを見上げた。視線が合って、すぐに外れる。何も話さない。
ログが始まっているのか、それとも待っているのか判断がつかない。演者の操作が問われるタイプの導入だ。
シユは一歩近づき、椅子に座った。
「……こんにちは」
セリカは無反応。
だが、わずかにまばたきが遅れた。
タイムラグ。応答演算の“間”。その意図を掴みかけたとき、彼女が声を出した。
「きょうは、重力が0.2ずれていました」
それは答えでも会話でもない。ただの観測結果。
シユは肯定も否定もせず、沈黙した。
「あなたは、言葉を求めている。言葉は、応答のために存在していません」
彼女が静かに立ち上がる。歩き出す。重力が不安定な床の上を、まるで滑るように移動していく。
シユはその後を追うでもなく、ただ視線だけを向けていた。何も語らない時間が続く。だが、その“無”こそが、今のこの物語に意味を与えている。
ログは、それだけで終わった。
体験終了後、SNSのタイムラインでは、セリカの挙動についての考察が飛び交っていた。
ある投稿は、「セリカは“受信に徹している”ことで人間に近づいている」と書き、
別の投稿では「人間の感情を模倣する前に、感情の欠如を演じているのが逆に怖い」と評されていた。
学芸員カシノの投稿はそのどちらにも言及せず、ただ淡々とアップデート内容をまとめていた。
“今回の演算調整により、返答待機処理は意図的に再遅延化されました。再現したのは、思考のための“迷い”ではなく、“決定の空白”です。”
高野シユはその文を読み、端末を閉じた。
セリカが見せたのは、心の演技ではない。あれは、心がないことを**確かめられない“間”**だった。
それを感じ取った時点で、体験は成功だったのだと思った。