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彼は、最初から“良い人”だった。
誰にでも笑い、誰にでも合わせ、輪の中心にいることを恐れず、
それでいて、傷つく者の前では少しだけ目を伏せる。
村瀬悠真。
僕が観察対象に定めた少年。
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最初に彼に目を向けたのは、教室の真ん中だった。
笑っていた。冗談を飛ばしていた。
でもその目の奥は――鏡のように、虚ろだった。
まるで、自分という“芯”を持たずに生きているようだった。
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彼は、人を笑わせるのが得意だった。
でも、自分のために笑ったことは、一度もない。
僕は、空気の中でそういう人間を“沈む側”と呼ぶ。
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片倉結惟との接触が始まったのは、それからまもなくのこと。
彼は少しずつ、笑う回数を減らしていった。
疑うように、怯えるように。
「俺、何かした?」
「嫌われてるのかな」
「俺が変なのかな」
それは、支配の第一段階だった。
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結惟は、何もしていないように見える。
でも彼女の“無言”と“視線”は、それだけで人を追い詰める力を持っている。
空気を濁すだけで、人は自壊する。
そして彼女はそれを、知ってしまった。
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【観察記録004】
■対象:片倉結惟(進化段階)
■分類:意識的支配の始まり
■備考:村瀬への“非介入的攻撃”による実験的成果
■結論:彼女は空気を用いて人を破壊する術を会得した
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村瀬悠真は、自分の言葉を疑うようになった。
発する前に飲み込み、言った後に後悔する。
“良い人”を演じようとすればするほど、自分を疑うことになる。
それは、真面目な人間が最も壊れやすい構造だ。
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ある日、僕は彼にだけ声をかけた。
「ねえ、悠真くん。最近、静かになったよね」
「なんだか、誰かの顔色ばかり見てるみたいだった」
彼は無理に笑って言った。
「……いや、別に。ちょっと、疲れてるだけ」
「笑ってる方が楽だからさ。俺、そういうタイプ」
そう言って微笑んだ彼の顔が、いちばん壊れていた。
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僕は言わなかった。
このままでもうすぐ、沈むだろう。
何もしなくても。
支配者は、ただ黙って見つめていた。
そして村瀬は、自分の足で深い底へと沈んでいった。
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彼の背中を押したのは、誰でもなかった。
空気そのものだった。