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木風
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ゆうき
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金曜の朝、私は美咲に一つだけ頼んだ。
「今日の午後の客の前で、私を呼ぶときは佐倉だけにして。チーフも付けないで」
「なんでですか」
「客が、私の夫だから」
美咲は口を開けて、閉じて、「分かりました」と言った。聞きたいことが十個くらいある顔で、一つも聞かない。それがこの子の、いいところだ。
私は十三時に会場の円卓を四つ並べ、スクリーンの正面に一つだけ椅子を置く。置いてから、主賓の席、と小さく言ってみる。言葉は会場の天井に消えた。
金曜の十四時、アクセル広告の三人は、ロビーに並んで立っていた。
真ん中に、声の大きい五十代の男。右に悠人。左に、若い男が一人。資料の入った紙袋を両手で持って、額に汗をかいている。
一ノ瀬と若林が先に出て、私は二歩後ろに立った。黒いパンツスーツに、名札。『佐倉』。
「お忙しいところ、ありがとうございます。アクセル広告の大森です」
名刺を交換する声が、ロビーに響いた。悠人の声は、家で聞くより高かった。客の前の声だった。
悠人が私を見た。見て、笑った。
「あ、うちの嫁です」
大森が振り返った。
「ここで、飾り付けをやってまして」
「チーフプランナーの佐倉です」
一ノ瀬が、悠人の言葉の上に、自分の言葉を置いた。重ねるのではなく、置いた。
「現場の責任者です。本日は彼女が案内します」
「ほう」
大森が私の名札を見た。
「さすが高梨くん。奥さんも優秀だ」
「いえいえ」
悠人は笑って、私の肩に手を置いた。人前でだけ置く手だった。私は一度だけ会釈して、その手が離れるのを待った。離れた。
「では、庭から」
私は先に立って歩いた。
◇
石畳を渡りながら、悠人は庭の全部を見回した。
「ミモザガーデンは初めて来ましたが、庭が素晴らしいですね。この木ですか、ミモザは」
初めて。
私は振り返って、笑った。客に向ける顔だった。
「ありがとうございます。皆さまそうおっしゃいます。二度目のお客様は特に」
悠人は「そうでしょうね」と笑った。何も気づいていない顔だった。
左にいた若い男だけが、紙袋を持ち直した。額の汗が、一筋、こめかみを落ちた。名札はないけれど、分かった。柴田健。夫の後輩で、五年前に私の結婚式の受付をした人。「ゴルフ」の日の相手。メールの最後に「!」をつける人。
柴田は私を見なかった。見ないように、庭を見ていた。
「冬は、葉のあいだに灯りを巻きます。十二月は夕方から点きます」
「それはいい。夜の写真が映える」
大森が言った。
「映えます」
私は答えた。
大森は歩きながら、私のほうへ身を寄せた。声の大きい人の、小声だった。
「奥さん、五年前の式は、うちの若手が受付をやったんですよ。あいつです」
大森が柴田を顎で指した。
「覚えてます。ありがとうございました」
「高梨くんは幸せ者だ。嫁さんが式場のプロで、夫婦円満で。うちの営業の中で、一番家庭がちゃんとしてる」
「……そうですか」
「ピッチの前に、家のことで気を散らすようなやつじゃない。安心して任せてます」
大森は自分の言葉に自分でうなずいて、一ノ瀬のほうへ戻った。
私は、大森の言葉を数えなかった。数えるのは、夫の言葉だけと決めている。
◇
会場に入り、私は三十人の式の席の並べ方を数字で説明した。
円卓を四つ。スクリーンの正面に主賓の席。入口から主賓の席まで十二歩。料理の出る間隔。灯りが点く時刻。
「ブランドの話は、我々のほうで」
悠人が途中で口を挟んだ。
「現場の数字は参考にさせていただくとして、新ブランドの見せ方は代理店の仕事ですから。嫁の説明は、まあ、飾り付けの範囲で」
「今は現場の話だ」
一ノ瀬は、悠人を見ずに言った。
「続けてくれ」
私は続けた。悠人は笑ったまま、手帳に何かを書いた。書く手は、家で見る手と同じだった。
「十二歩、というのは」
一ノ瀬が聞いた。
「主賓が入口から席に着くまでの歩数です。三十人の式では、主賓が一番長く見られます。十二歩のあいだに、全員が主賓の顔を見ます」
「見られる側は」
「見られていることに、たいてい気づきません」
一ノ瀬は、うなずきもしなかった。大森が「なるほどなあ」と大きな声で言い、悠人がそれに合わせて笑った。
◇
説明が終わり、大森が一ノ瀬と話し込んでいるあいだ、悠人が私の横に来た。庭の隅、ミモザの三本目の木の下だった。
「余計なこと言うなよ」
小声だった。笑ったままの顔で、口だけが動く。
「お前の職場が潰れないのは、俺のおかげになるんだから。ピッチが取れたら、この式場はうちのブランドで売り出す。分かるか。お前の給料は、俺が守ってやるんだ」
「分かってる」
「数字とか並べるな。向こうが欲しいのは、そういうんじゃない」
「分かってる」
悠人は満足して、大森のほうへ戻っていった。
四百十六。私は数えた。
柴田が、少し離れたところから私を見ていた。目が合うと、すぐに紙袋に目を落とした。
◇
三人が門を出ていくのを、私は石畳の上で見送った。悠人は一度も振り返らなかった。
一ノ瀬が、隣に立った。
「君の夫は、君の式場を売るつもりだ」
「……ええ」
「君は」
「私は、式を一つ作るだけです」
一ノ瀬は、それ以上聞かなかった。聞かないのが、この人のやり方だった。
「君の夫は、嘘が得意だな」
「はい」
「初めて来た、と言った」
「はい」
「君は、二度目の客は特に、と言った」
「……はい」
一ノ瀬の口の端が、一度だけ動いた。笑ったのかどうかは、分からなかった。
「三十人の式で、主賓は十二歩のあいだ全員に見られる。さっきの話だ」
「はい」
「見られていることに、気づかない」
一ノ瀬はそれだけ言って、ラウンジへ戻っていった。
若林が後ろから来て、一枚の紙を私に差し出した。
「アクセル広告の提案書の、表紙の写しです。三社とも、本部に提案書を先に出しています。現場にも共有するようにと、一ノ瀬が」
「期限は」
「来週。中身の確認を、現場の目でお願いします」
私は紙を受け取った。
『グランシエル 新ブランド ご提案』
『アクセル広告株式会社』
その下に、大きな字で題が印刷してあった。
『小さな式のための十二の約束』
コメント
1件
ああ、この回…すごく好きです。 「嫁」って呼ばれるたびに、何かが削られる感じがして、胸が痛くなった。観客席の前で笑う悠人と、仕事の顔を外さない佐倉さんの対比が、静かに怖い。一ノ瀬の「嘘が得意だな」も、柴田の汗も、全部効いてる。 ラストの『十二の約束』、なんだろう。次が気になる。