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薄暗いビルのロビーで、のどかは目を覚ました。
寝ていたソファから起き上がると、身体にかけてあった薄手のカーディガンが落ちた。
自分のカーディガンだ。
そのまま、ぼんやり向かいのビルを見つめていた。
幼なじみ海崎綾太の会社であり、自分が働いていた会社のビルだ。
なんでこんなところに居るんだろうな、とのどかは思った。
同期のみんなと楽しく酒を呑んでいたはずなのに。
そうだ。
気がついたら、みんな彼氏から電話がかかったりして、ひとり減り、ふたり減り――。
そのあと、誰かと呑んでて。
えーと……と思ったとき、その人は現れた。
細身で厳しい顔の警備員のおじさんだ。
のどかに向かって言う。
「あんた何処から入ったの?
上のオフィスの人?
まだ明かりついてるとこあるけど。
なんか酒臭いよ。
こんなところで寝てないで、早く帰りなさい」
「は、はい、すみません」
と言って、のどかは慌てて自分のカーディガンを拾い、出て行こうとした。
それにしても寒いな。
クーラー効きすぎなんじゃないか?
と思ったとき、ちょっと震えたのどかに気づき、その一見厳しい顔の警備員さんが眉をひそめて言ってきた。
「この時間、誰も居ないのに、なんでこんなクーラー効いてるんだ?
あんた、風邪ひいてないかね」
「あ、はい。
大丈夫です。
ありがとうございます」
と出て行こうとして、はっと気づいた。
クーラー?
酔っていた頭がハッキリしてくる。
みんなと飲んでいたのは、まだ寒い連休前の金曜日だった気がするのだが。
「あっ、あのっ」
とのどかは警備員を振り返った。
「今、いつですかっ?」
「金曜日の午後11時だよ」
「あっ、そうじゃなくて、日付なんですけどっ」
のどかのその言葉に、警備員は、相当酔っているのだろうかとちょっと不安になったようだった。
「六月二十一日だけど……」
「へっ、平成っ?」
「令和元年六月二十一日」
と言う警備員の顔はますます不安な感じになってくる。
その瞬間、のどかの頭に蘇っていた。
令和を迎える前の連休。
此処で目を覚ましてからのことが――。
苦手な取引先の社長、成瀬貴弘と出していた婚姻届。
呪いのあばら屋敷。
猫耳神主に、ふさふさの泰親猫。
そして――
『お前と出会って気づいたんだ。
俺が先に行きたいのは、振り返って誰かの手を引きたいからだって』
『俺がお前を好きなほど、俺を好きにならなくていい。
その代わり、絶対、ついて来るんだぞ』
『俺がお前を死ぬほど好きになったら、お前も俺を、まあ、死んでもいいかな~くらいは好きになれ』
そう言い、自分を見つめてきた貴弘の顔が――。
そのとき、のどかのポケットでカサリとなにかが音を立てた。
「あっ、君っ」
といきなり走り出したのどかに、警備員が後ろで声を上げた。
のどかはボタンを押すと、すぐに開いた扉からエレベーターに飛び乗った。
階数ボタンを押すと、夜遅いからか、誰も乗ってこないまま、エレベーターは着く。
白い壁にナルセの社名。
受付には誰も居ない。
のどかは会社の入り口のガラス扉を押し開けた。
デスクのライトだけつけた貴弘が、電子タバコを手にしてみたり、煙草を手にしてみたりしながら、苦悩していた。
……笑ってしまう。
いや、笑いながら、ちょっと涙ぐんでしまっていた。
貴弘が気がついて、こちらを見る。
「起きたのか。
冷房効きすぎてたか?
お前、あそこから動きたくないっていうから、警備員さんに言って、置いてきたんだが」
酒の呑みすぎで暑いとうるさかったので、ちょっと冷房を効かせてもらっていたと貴弘は言う。
「警備員さん、交代したみたいですよ」
引き継ぎが上手く行ってなかったようだ、と思いながら、のどかは貴弘の側に行く。
「水でも持ってこようか」
と立ち上がった貴弘の胸に頭をぶつけた。
貴弘がびくりとしたのが伝わってくる。
「今―― 全部夢だったのかと思ったんです。
またあのロビーで目を覚まして」
猫のように額を貴弘の胸に擦りつけたまま、のどかは言う。
「社長のような人がふっと現れて、ピンチのとき助けてくれるとか。
そんな都合のいいことあるわけないとか。
あやかしが住んでる呪いの家でカフェを開くとか。
そんなことあるわけないとか」
「まあ……それはあんまりないかもな」
と貴弘も認めて言った。
「そんなこと考えてたら、やっぱり、全部夢だったんじゃないかって思えてきて。
ものすごく怖くなって。
カフェのことと、社長のことが気になったんですけど。
……社長の方に来ちゃいました。
私、やっぱり、社長が好きなんですかね?」
そう言うと、貴弘は、
「……今か」
と小さく言いながらも、そっと、のどかの後ろ頭に手をやった。
そのままじっとしていた。
「二人でまたあの店に行ったのは覚えてるか?」
と貴弘が言ってくる。
そういえば、すべての始まりだったあの店に行こうと貴弘が言い出して、二人で呑みに行ったんだったと思い出す。
「店に行ったら、やあ、やっと来てくれましたねって言われて。
前、婚姻届を出すって言って帰っていったから、店の人たちがお祝いを用意してくれてたんだ。
それで、みんなで写真を撮ろうってことになって――」
ああ、とのどかは言った。
思い出したからだ。
みんなで、のどかのスマホで写真を撮ることになったのだが、容量がいっぱいだったのだ。
「なに入れてんだ、お前」
と言いながら、貴弘が写真を少し消そうと確認していたのどかの手許を覗き込む。
「いやあ、私、適当に撮っては見返さないので」
ははは、とのどかは笑いながら、どれを消そうかと写真を見ていた。
「雑草だらけじゃな……」
雑草だらけじゃないか、と言いかけた貴弘はその言葉を止めた。
のどかが庭や道端で撮った雑草の写真のその先に、それはあった。
お店の人が撮ったとおぼしき貴弘とのどかの写真。
二人は店の中でちょっとだけ頭を寄せ合い、恥ずかしそうに微笑んで写っていた。
「……早く見ればよかった」
とのどかは言った。
写真の中の二人は幸せそうで。
この写真を見れば、適当にその辺の人とヤケになって婚姻届を出したのではなかったことくらい、すぐにわかったのに。
「まあ、俺はわかってたけどな」
と今、目の前に居る貴弘が言ってくる。
「だって、酔った弾みで一夜を共にするならともかく、婚姻届を出すなんて。
本気だった証拠だろ」
「あっ、なんなんですかっ。
そんな後出しで勝ち誇らないでくださいよっ」
後からなら、なんとでも言えるではないかと思いながら、のどかは言い返す。
「それを言うなら、私なんて、ぐへへへへですよ。
大家さんに、結婚するんです、ぐへへへへって言うなんて。
よっぽど嬉しかったんですよ、社長と結婚することがっ」
阿呆か、とちょっと赤くなり言ったあとで、貴弘はのどかの頰に触れてきた。
そっと口づけてくる。
「……指輪、買いに行かなきゃな。
あと式も挙げて」
「式はともかく、指輪はいいですよ」
とのどかは言った。
「もう、いただいたので」
と言いながら、さっきポケットの中で、かさりと音を立てたそれを引っ張り出す。
ハンカチの間に挟んであったのは、貴弘が作ってくれたシロツメクサの指輪だった。
もう干からびてしまっているのだが。
あの日の店に行くと聞いたのどかは、大事にとっていたそれをポケットに入れて持ってきたのだ。
貴弘は少し笑って、それをもう一度、指にはめてくれる。
貴弘につかまれたおのれの手を見ながら、のどかは言った。
「……青田さんに、雑草は踏まれたら立ち上がらないって話したんですけどね。
確かに立ち上がらないんですけど。
シロツメクサは踏まれたら、成長点が傷ついて、四つ葉になるらしいんですよ。
だから、よく踏まれる場所ほど、四つ葉が多いんじゃないかなって思います。
立ち上がってはこないかもしれないけど。
踏まれて、どんどん幸福が増えるとか。
雑草、たくましいですよね、やっぱり。
だから、私、雑草カフェ、頑張りたいです。
私も雑草のように、店が倒れても倒れても、幸せになれるよう頑張りたいです」
「いや……店倒れると増えるのは幸福じゃなくて、赤字だから」
と経営者の貴弘は、そこは頷かずに言ってきた。
「そうだ、のどか。
この間、換気しにマンションに帰ったら、ルーフバルコニーの隅に雑草が生えてたんだ。
生えるんだな、あんな高い場所でも。
いつの間にかつるっと俺のところに侵入してきて、おのれの居場所を作ってる。
まるでお前みたいだな」
と貴弘は笑うが、そこはちょっと微妙だった。
あの社長。
雑草のようでありたいとは思ってるんですが。
妻に、俺んちに何処からともなく侵入してきた雑草みたいだと言うのはどうなんでしょう……と思うのどかに、貴弘は少し迷ったあとで言ってきた。
「……なんの草か、お前ならわかるだろ?」
「え?」
「健気に生えてるぞ、今から見に来ないか?」
そこへ話をつなげたかったらしい。
「寮だとあいつらがうるさいから」
と言う貴弘に、のどかは少し赤くなり、
「え……えーと、そうですねー」
と言った。
「よし、決まりだな」
いや、えーと、そうですね、しか言ってないと思うんですがっ、とのどかは思っていたが。
同じように散々迷っていたくせに。
一度こうと決めたら、仕事と同じように強引になる貴弘は、もうさっさとデスクの明かりを消していた。
「帰ろう、のどか。
俺たちの家に――」
貴弘は、のどかの手を握り、歩き出す。
あの日、言ったみたいに、少しだけのどかの先を歩いてくれながら――。