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翌週の火曜、午後三時に、高梨さんから内線が来た。
「水瀬さん。専務が、熱を出して帰宅されました」
「……熱」
「三十八度二分です。本人は会議に出ると言いましたが、私が帰しました。食事を、お願いできますか。専務は自分では何も食べません」
高梨さんの声は、いつもどおり無駄がなかった。無駄がないまま、私に頼んでいた。
「分かりました」
電話を切って、課長に早退を頼んだ。課長は、まあまあ、と言わずに、行っておいで、と言った。
マンションに帰ると、玄関の一段目に革靴があって、専務の部屋の扉は閉まっていた。
扉の前で、声をかけた。
「専務。帰りました」
「……ああ」
声が、低かった。いつもより、もっと。
「何か、食べますか」
「要らない」
「高梨さんから、食べさせるようにと言われています」
「……高梨は、余計なことを」
私は台所に行った。
冷蔵庫には、水と、缶のコーヒーと、卵が二つ。それだけ。家政サービスの人が来るのは木曜で、今日は火曜。
米があった。味噌があった。豆腐はない。わかめの乾物を見つけた。
味噌汁と、お粥を作った。味見をして、少し迷って、味噌を足した。熱のある人には、少し濃いほうがいいと母が言っていた。
扉の前に、盆を置いた。
「ここに置きます。食べられるときに」
「……」
「契約外、と言われる前に言います。契約外です。でも、高梨さんの指示なので」
扉の向こうで、何かが動く音がした。それから、扉が開いた。
専務は、寝る前の格好で、髪が乱れていて、顔が赤かった。盆を見て、私を見た。
「台所で食う」
「寝ていてください」
「部屋で食うと、寝ていないのと同じだ」
理屈は分からなかった。でも、専務は盆を持って、台所の椅子に座った。
私は、向かいに座った。見ていないと、食べないと思った。
専務は味噌汁を一口飲んで、止まった。
「……しょっぱい」
「熱のある人には、濃いほうがいいと聞きました」
「誰に」
「母に」
専務は、何も言わずに、二口目を飲んだ。
「契約外だ」
「はい」
「対価を言え」
「……対価」
「契約外の労働には、対価を払う。それが筋だ」
熱で赤い顔で、筋、と言った。私は少し考えて、言った。
「それなら、備品の決裁を一つ、通してください」
「何だ」
「休憩室の加湿器。二階の休憩室は、冬になると乾いて、人事の人が毎年咳をします。三年、申請を出して、三年、通っていません」
「規定外だ」
即答だった。
「備品の規定に、加湿器はない。あれは設備になる。設備は総務の決裁じゃない」
「知っています。だから、三年通りませんでした」
「……」
「対価は、それでいいです。通らないなら、通らないで」
専務は、何も言わなかった。
お粥を食べて、味噌汁を飲んだ。全部。わかめも残さなかった。
「しょっぱい」
もう一度言って、それから、言った。
「でも、全部飲んだ」
盆を置いて、専務は部屋に戻った。扉が閉まる前に、「寝る」と言った。私は、はい、と答えて、盆を片づけた。
水曜の朝、七時四十分。
二階の休憩室の棚に、見覚えのないものが置いてあった。
白い、小さな加湿器。箱から出したばかりで、電源は入っていない。説明書が、横にきちんと折って添えてあった。
私は、しばらくそれを見ていた。胸ポケットの、机の鍵に手が触れた。引き出しは、空のままだ。
専務は、朝、まだ熱があった。七時に出るときには部屋から出てこなかった。
でも、この加湿器は、ここにある。
台帳を開いた。二階、休憩室。品目の欄に、加湿器、一台。
その横の欄に、小さく書いた。
寄贈(匿名)。
三年ぶんの、同じ字で。書いてから、私は少しだけ、笑った。休憩室には、誰もいなかった。
その日の午後、課長が私の机まで来た。いつもより、申し訳なさそうな顔で。
「水瀬さん。あのね、秘書室から」
「はい」
「パーティーの前に、水瀬さんにマナー研修を受けてもらいたいって。社長のご希望だそうで」
小森さんが、横から言った。
「研修って、秘書室がやるんですか。総務の人に?」
「まあ、親族の方に紹介されるわけだからね、って言われて。来週の月曜から、三回」
課長は、私の顔を見た。断ってもいい、と言いたそうな顔だった。
私は、十二月十二日のことを考えた。期限まで、あと一か月半。恥と目的を並べて、目的を取った。
秘書室の研修が何をするものか、見当はついている。社長秘書が講師で、総務の社員が生徒。それを三回。社内の誰が見ても、どちらが上かが分かる形だ。
「受けます」
「……いいの?」
「研修は、受けたら終わります」
翌週の月曜、午前十時。七階。
秘書室の隣の小さな部屋に、長机が一つと、椅子が五つ。秘書室の人が三人、壁際に座っていた。
講師席に、氷室さんがいた。
栗色の髪。きれいな笑顔。社長秘書の、研修の講師。
「水瀬さん、おはようございます。今日から三回、よろしくお願いします」
「お願いします」
「それでは、始める前に一つ」
氷室さんが、私の左手を見た。
「まず、婚約指輪を見せていただけますか。本物なら、サイズが合っているはずですよね」
私の左手の薬指には、何もなかった。
コメント
1件
ああ、もう……この加湿器のところ、すごく好きです。「しょっぱい」って言いながら全部飲んだ専務が、ちゃんと加湿器を置いてある。匿名って書いてあるけど、どう見ても専務ですよね(笑)。三年分の申請が、風邪の味噌汁一つで通っちゃったっていうのが、なんかじんわり来ました。そして最後の氷室さんの「婚約指輪を見せて」って……うわ、あの人、わかってて言ってますね。ニコニコしながら指摘してくるのが逆に怖い。続きが気になります。