テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
レオナルド様の隣で眠りにつくようになって、数日が経った。
あの日、賑わう街の中で繋いだ手の熱は、今も私の指先に鮮やかな記憶として残っている。
凍てついていた私の世界に、彼が灯してくれた暖かな火。
それは、これまでの孤独を溶かしてくれる魔法のようだった。
朝、微睡みの中で目が覚めれば、枕元には瑞々しい季節の花が飾られている。
露を帯びた花びらは、彼が私の目覚めを静かに待っていてくれた証だ。
そして食卓に座れば、かつては氷のように冷徹だったはずの彼が、今は壊れ物を扱うような手つきで私を気遣ってくれる。
「今日の体調はどうだ…?」
「何か食べたいものはあるか?君が望むなら何でも用意しよう」
溢れるほどの言葉。
私を真っ直ぐに見つめる、不器用な熱を帯びた瞳。
(信じても、いいはずなのに……。こんなに大切にされているのに……)
彼が私を愛してくれているのは、痛いほど伝わってくる。
けれど、彼が優しく、その大きな手が私の肩に触れようとするたび、私の心臓は裏切り者のようにドクンと嫌な音を立てて跳ね上がるのだ。
「アネット。今日は庭のバラが綺麗に咲いたそうだ。貴重な茶葉も手に入れてな。よかったら、午後からテラスで……」
レオナルド様が、私の手にそっと自分の手を重ねてきた。
温かい。
本来なら、世界で一番安心するはずの温度。
なのに──
「……っ!」
私は反射的に、指先をピクリと震わせて、自分でも気づかないうちに勢いよく手を引いてしまった。
ガタッと椅子が鳴り、静かな食堂に拒絶の音が響き渡る。
「……ご、ごめんなさい……っ、レオナルド様、その、わざとじゃなくて……」
引いた自分の指先を見つめて、私は一気に血の気が引くのを感じた。
あんなに誠実に、心を尽くして大切にしてくれている彼に対して
なんて失礼なことをしてしまったのか。
恐る恐るレオナルド様の顔を見ると、彼は差し出したまま行き場をなくした自分の手を見つめていた。
ひどく悲しそうに、けれど私を責めるまいと必死に奥歯を噛み締め、表情を押し殺している。
「……いや。急に触れて、驚かせたな。すまない」
「ち、違います、レオナルド様が悪いんじゃなくて……私が、その……」
「わかっている。急には、慣れないよな」
彼はそう言って、自分に言い聞かせるように無理に微笑み、静かに席を立った。
去りゆくその背中が、以前の「冷徹な夫」だった時よりもずっと小さく、寂しそうに見えて、胸が千切れるほど締め付けられる。
自室に戻った私は、鏡に映る自分の青ざめた顔をただ見つめた。
頭では分かっている。
レオナルド様は、私を借金のカタや道具としてしか扱わなかった実家の人たちとは違う。
そして───昔、社交界の隅で私を「没落貴族の女」と嘲笑い、暗がりに連れ込もうと無理やり腕を掴んできた、あの男たちとも。
『ビビりだな、おい』
『すぐ泣くじゃんか。泣けばいいと思ってんだろ』
『お前みたいな汚れた血筋の女、誰が本気で愛するもんか。……黙って俺に従え』
耳の奥で、かつて浴びせられた罵声が呪いのように蘇る。
男性に嘲笑され、逃げ場のない場所で強く腕を掴まれ、どれだけ抗っても逃げられなかった時の、あの底冷えするような恐怖。
レオナルド様が自分に触れようとすると、その「手の大きさ」や「体温」が、どうしても過去のトラウマを呼び起こしてしまう。
(甘えたい。本当は、レオナルド様の胸に飛び込んで、『大好きです』って言いたいのに……。どうして体が動かないの……?)
彼が優しくしてくれればくれるほど、私は自分の心の欠陥を突きつけられているような気分になった。
こんなに怯えてばかりで、差し出された愛を拒絶してばかりの可愛くない妻なんて、いつかきっと愛想を尽かされてしまう。
その夜───
私は、忘れたはずの過去の夢を見た。
湿り気を帯びた暗い部屋、逃げ場のない部屋の角。
複数の男たちの影が、私を嘲笑いながら追い詰めてくる。
蛇のような手が私の細い腕を掴み、乱暴に引き寄せる。
……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……っ!
叫ぼうとしても、声が喉に張り付いて出ない。
冷たい汗が全身を伝い、心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
酸素がうまく吸えなくて、胸が苦しくて、もう死んでしまうのではないかと思った。
──そのとき
「……ねっと。アネット!」
闇の底から、私を呼ぶ必死な声が聞こえた。
絶望の淵から引き上げられるように、バッと目を開ける。
そこには、寝着のまま、私の肩を掴もうとして──
けれど私が怯えるのを恐れて、寸前で手を止めているレオナルド様の姿があった。
月光に照らされた彼の瞳はこれまで見たこともないほど激しく揺れ、深い焦りと後悔に染まっている。
「レオナルド、様……?」
「……酷いうなされ方だった。アネット、大丈夫か……?」
震える私の肩を見て、彼は迷い、葛藤し───
それでも耐えきれなくなったように、私の手を優しく、壊れ物を包むようにぎゅっと握りしめてベッドの脇に膝をついた。
私と同じ目線になろうとする、その献身的な姿。
そんな彼の、震えるほどの優しさに触れた瞬間。
私は、堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!