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第69話 帰る場所
世界が裂けた。
縫季は次の世界線へ落ちようとした――だが、その一歩が踏み出せなかった。
足が止まる。膝が砕ける。視界が真白に霞む。
縫季は、世界線の狭間で崩れ落ちた。
光も闇もない。時間の流れもない。ただ、静止した世界の裏側だけが、ひどく白く広がっている。
灯台職員としての接続も、有限の人間としての定着も不完全なまま。移行の狭間に、縫季という魂だけが取り残されていた。
縫季は膝をついたまま、動けなかった。
(……限界だ)
胸の奥が裂けるように痛む。息を吸うたび、肺が崩れそうになる。
香の循環が、ほとんど止まっている。
これは緊急有限化の失敗だ。
灯台との接続を離れた魂が、人界の時間へ定着できずに崩れかけている。
指先の感覚は遠く、腕の輪郭もぼやけ、足はもう自分のものではない。
立てない。
声も出ない。
ただ、崩れるだけだった。
縫季は目を閉じた。
◆
五つの帝辛の顔が浮かぶ。
笑いながら黒闢の宴に立っていた帝辛。「すまぬ」と呟きながら炮烙を執行した帝辛。迷いも痛みも削ぎ落とされた帝辛。笑いながら蠆盆を眺め、指先だけが震えた帝辛。花壇の前で泣き、それでも縫季を送り出した帝辛。
どの帝辛にも手は届かなかった。
どの魂も、救えなかった。
(……俺は、何も変えられなかった)
胸が痛い。涙が出ない。涙を流す余裕すら、もう残っていない。
そのときだった。
胸の奥で――
光が震えた。
帝辛の魂の欠片。
五つの世界線を渡り、泣き、苦しみ、それでも縫季から離れなかった光。
縫季は息を呑む。
光が、温かい。
今の縫季のどこにもない温度。息づくような、脈のような――生命そのものの熱。
その光が、縫季の胸へ触れた。
震えている。
言葉にはならない。だが確かに、意思を持って震えている。
香が、縫季の胸へ『返ってきている』。
帝辛の魂が――縫季へ応えている。
(……励まして、いるのか)
震えは強くなる。
拒絶ではない。哀願でもない。
鼓動だ。
縫季の喉が詰まった。
(……お前は、まだ諦めてないのか)
五つの世界線で泣き続けた魂が――まだ、笑える場所を求めている。
縫季の胸に、痛みとは違う熱が宿った。
(……そうか)
縫季は、ゆっくりと息を吸った。
胸が裂ける。骨が軋む。肺が潰れる。
それでも吸う。
光が応えるように、強く震える。
縫季は歯を食いしばった。
◆
(……立つ)
足に力を込める。
砕けそうになる。
一度目は倒れた。
二度目。足が滑る。視界が倒れる。
三度目――光が、縫季の背を押した。
縫季は、完全に立ち上がった。
体は崩れ、輪郭は揺れ、香の流れは細い糸のように、かろうじて続くだけ。
それでも立った。
胸の光が応えるように、温かく震えた。
帝辛の魂が――共に歩こうとしている。
縫季は白い空間の裂け目を見据えた。
そこだけが、他の世界線とは違っていた。
白ではない。
底の見えない、淡い昏さ。記録の層が薄く、神話の色がほとんど沈んだ場所。香の流れが、うまく読めない。
それなのに。
胸の光だけが、その方向へ強く脈打っていた。
(……あそこだ)
灯台の観測記録が薄く、天界の手も届きにくい、史からこぼれ落ちた線。
縫季は一歩、踏み出した。
その瞬間だった。
白い空間全体が、ひしゃげた。
裂け目の縁が逆巻き、香の海が上から押し潰すように落ちてくる。
白い圧。
天界の怒りだった。
「……っ!」
縫季の体が沈む。肩が落ちる。膝が、また折れそうになる。
だが今度はそれだけでは終わらない。
裂け目の前に、九つの影が立った。
九尾だ。
一本ではない。九本すべての尾が、縫い目の前に、ゆるく扇のように広がっている。
塞いでいるのか。測っているのか。判別がつかない。
ただ、その尾がそこにあるだけで、裂け目は目に見えて不安定になった。
意味だけが、落ちてくる。
――そこは、神話の外だ
尾が、わずかに揺れた。
――記録が薄い――天は足場を持たぬ
一拍。
――それでも行くのか
縫季は裂け目を見たまま答えた。
「……帝辛が笑える場所が、俺の帰る場所だ」
九尾の尾が、一瞬だけ止まった。
――帰る場所、か
意味だけの声に、かすかな笑いの気配が混じる。
――調整員の口から出るには、ずいぶん人間くさい言葉だな
次の瞬間、白い空間の奥で何かが爆ぜた。
天界全体が、軋んだのだ。
祖霊層のざわめきが逆流し、白い香波が無数の鎖となって走る。
行かせるな。そこは記されぬ。そこは残してはならぬ。
声ではない。意味の濁流だった。
白い鎖が縫季の手首へ絡む。足首を締める。喉元へ食い込む。
天界が、縫季を『戻すべき側』へ引き戻そうとしていた。
縫季の体が浮く。引き剥がされる。帝辛の魂の光まで、鎖に削られていく。
「……帝辛!」
縫季は胸を押さえた。
「待て、消えるな」
コメント
1件
うわああ69話…!!😭💦 縫季が崩れ落ちるところからもう胸がぎゅっとなるんだけど、「帝辛が笑える場所が、俺の帰る場所だ」この台詞が刺さりすぎて…!自分の限界超えてなお誰かのために立つって、ただの強さじゃないよね。胸の光が励まして背中押すシーン、本当にもう涙止まらん…。九尾の「人間くさい言葉だな」もなんか好きだったよ、あの温かみ。次どうなるの…!?続きが気になりすぎる…!✨