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第171話:ヒグマの本能と鮭の遡上
十勝地方の本格的な冬は、容赦のない速さで深まっていく。
周囲の山々の木々はすっかり葉を落として雪化粧をまとい、朝晩の気温は氷点下二十度を下回る日も珍しくなくなってきた。
いよいよ、あのどこまでも白く過酷な大雪原の冬が、完全に牙を剥き始めている証拠だ。
そんな冷え込みが厳しくなってきたある日の午後。
俺――アキヤは、愛用のiPhone miniでネットワークインフラの通信帯域を監視しつつ、縁側で温かいほうじ茶を啜っていた。
居間のコタツの誘惑を断ち切り、あえて冷気に身を晒しながら、これからの冬期兵站スケジュールを脳内で組み立てる。
俺の足元では、キタキツネの兄弟であるコン吉とコン次郎が、冬毛に生え替わったフカフカの身体を寄せ合って丸くなっていた。
そして、庭のど真ん中では、我が限界集落の重装甲・最終防衛ラインが、いつも通り巨大な毛布のようにゴロンと横たわっていた。
体長3メートル、体重数百キロを誇る、ただの大きな犬種(突然変異のマスティフ、たぶん)こと、巨大ヒグマである。
彼も本格的な冬に備えてのことか、最近は一段と丸みを帯び、ブラッシングされた茶色い毛並みを陽光に輝かせて寝息を立てていた。
平和そのものの、いつも通りのバグった限界集落の日常風景。
ジンバルにセットされたスマホの画面では、五千万人のリスナーたちがこののんびりとした配信を画面越しに眺めて癒やされていた。
『十勝の冬景色、空気の透明感がガチで綺麗だなー』
『ヒグマさん、今日も完全にただのデカいビーズクッションになってて草』
『冬が近づいて、動物たちのモフモフ度がさらに限界突破してる気がする』
『世界一平和な持ち山だな、ここは』
だが、突如としてその「平和な空間」の空気が、ピンと張り詰めた。
『……グルルッ』
地鳴りのような低い唸り声を上げ、庭の芝生の上でとろけていたヒグマが、ガバッと勢いよく跳ね起きたのだ。
その巨体が立ち上がった瞬間、周囲の空気がビリビリと震える。
何より異常だったのは、彼のその「目」だった。
いつもならアキヤのブラッシングやシロ様の肉球パンチにデレデレと細められているその瞳に、かつて見たことがないほどの、鋭く、凶暴なまでに研ぎ澄まされた『野生の本能の光』が宿っていたのだ。
ヒグマは鼻を大きくヒクヒクと動かし、山の遥か下、限界集落の境界線を流れる清流の方向をじっと見据えた。
そして、大地を揺らすような足音を響かせ、のしのしと迷いのない足取りで山林を下り始めたのである。
このあまりにも劇的な変貌に、チャット欄は一瞬で大パニックに陥った。
『おいおいおい!!! クマさんの様子がガチでヤバいぞ!?』
『あの目が完全に「野生の王者」のそれに戻ってるんだが!?』
『ついに……ついにこの温かい聖域を離れて、野生に還る時が来たのか……!?』
『嫌だあああ! 行かないでヒグマクッション!!!』
リスナーたちが悲鳴のような絶叫を上げる中、小春ちゃんも顔を青くして縁側から飛び出してきた。
「お、お兄さん! ヒグマさんが凄い怖い顔して山を降りていきます……っ! もしかして、本当に野生の本能を思い出しちゃったんじゃ……っ!」
「落ち着け、小春ちゃん。パニックは兵站の最大の敵だ。……だが、あの動きは明確な目的意識を持っているな。よし、追跡するぞ」
俺は即座に防寒上着を羽織り、iPhone miniをセットしたジンバルを手に取った。
『ミャウ(私も行くわ)』
その時、俺の胸元に、純白の神獣シロ様が音もなく飛び乗ってきた。
俺の腕の中にすっぽりと収まったシロ様は、神秘的な『オッドアイ』の瞳をキラリと輝かせる。
左目の冷徹なサファイアブルーと、右目の温厚な琥珀色。その二色の輝きは、慌てる俺たちを他所に、「面白いことになりそうね」とすべてを見通しているかのように傲然と煌めいていた。
俺たちはヒグマの後を追って、山の獣道を急速に降下した。
先頭を行くヒグマの背中は圧倒的な威圧感を放っており、近づくことすら躊躇われるほどのオーラがある。
たどり着いたのは、限界集落の端を流れる、どこまでも透明で冷たい一級河川の浅瀬だった。
激しい水しぶきを上げるその川の表面を見て、俺はすべてを察した。
「……なるほど。鮭の遡上(そじょう)か」
川の中は、信じられないほどの密度の鮭で埋め尽くされていた。
海からはるばる十勝の清流へと戻ってきた鮭たちが、命のバトンを繋ぐために、激しい流れに逆らってバシャバシャと狂ったように泳ぎ上っている。
ヒグマはその冷たい川の中へと、一切の躊躇なく巨体を踏み込ませた。
『ザバァァァンッ!!』
凄まじい水しぶきが舞い上がる。
川のド真ん中に仁王立ちしたヒグマは、水面を走る鮭の影をじっと見つめ、次の瞬間、その太い前足を電光石火の速度で一閃させた。
ドバァァァッ!!!!
ヒグマの強靭な爪が水面を切り裂いたかと思うと、次の瞬間、宙を舞ったのは信じられないほど丸々と太った、見たこともないサイズの「最高級の巨大鮭」だった。
太陽の光を浴びて銀色にギラギラと輝くその魚体は、軽くメーターを超えている大物だ。
『グォォォォォ!!!』
野生の咆哮を上げながら、ヒグマの狩りは止まらない。
右へ一閃、左へ一閃。
圧倒的なフィジカルと天性の動体視力により、川の流れからピンポイントで最も脂の乗った最高級の巨大鮭だけが、次から次へとピチピチと音を立てて川岸へと放り投げられていく。
わずか数分の間に、川辺には丸太のような巨大鮭の山が築き上げられていった。
その圧倒的な「野生の王者の力」を見せつけられた五千万人のリスナーたちは、チャット欄で完全に腰を抜かしていた。
『うわあああああああ!!! ガチの鮭獲り名人(名熊)だこれ!!!』
『フィジカルがバグり散らかしてるwwww』
『野生に還るどころか、めちゃくちゃ俺たちのために働いてくれてるんじゃねえか!?』
『あの銀毛の鮭、市場で買ったら一匹いくらするんだよ……神回すぎる』
この最高級の天然資源の文字通りの「大漁」を前に、世界中の富を司るVIPたちの口座から、極彩色のMeTubeギフトが怒涛の勢いで乱舞し始めた。
『(ドバイの石油王からの¥50,000MeTubeギフト) “Incredible fishing! That bear is a master of logistics! Akiya, I will buy those fresh salmons for one million dollars per fish! Build a cold chain to my palace immediately!“(信じられない漁だ! あのクマはロジスティクスの天才か! アキヤ、その新鮮な鮭を1匹100万ドルで買い取ろう! 今すぐ私の宮殿までコールドチェーンを構築してくれ!)』
『(スイスの銀行家からの¥50,000MeTubeギフト) “The ultimate biological derivative! High-yield asset from the river! I will open a specialized salmon commodity fund for this sanctuary!“(究極の生物学的デリバティブだ! 川からの高利回り資産だな! 私はこの聖域のために、鮭専門の商品ファンドを設立するぞ!)』
『(ハリウッド女優シャーロットからの$500MeTubeギフト)十連発 “Oh my god!! That bear is so masculine and cool! Akiya, make salmon sashimi for me right now! I’m starving!“(なんてこと!! あのクマさん、最高に男らしくてカッコいいわ! アキヤ、今すぐ私のために鮭の刺身を作って! お腹がペコペコよ!)』
世界規模のマネーロンダリングならぬ「鮭マネー」がチャット欄を真っ赤に染め上げる中、ヒグマは満足したように川から上がってきた。
そして、川岸の鮭の山の前で、いつもの「ただのデカい犬」の顔に戻って「グゥ〜♪(主、お土産持ってきたよ)」と嬉しそうに尻尾を振った。
「す、すごいですお兄さん……!! 野生に還るどころか、私たちの冬の間のご飯のために、こんなにたくさんの最高級の鮭を捕ってきてくれたんですね……っ! なんて優しくて有能なクマさんなんでしょう……!」
小春ちゃんが感動のあまり両手を合わせて目を輝かせ、世界中のリスナーも画面越しに俺の称賛の言葉を待ち構えていた。
だが。
俺は川辺に積み上がった巨大鮭の山を見つめ、元・社畜としての『どんな大自然の奇跡にも屈しない鋼のポーカーフェイス』でカメラに向き直った。
「……世界中の皆さま。猛獣の野生の狩りに感動しているところ大変申し訳ありませんが、冷静になってください」
『出たァァァァァ!!!』
『鮭を百匹獲られても、絶対にブレない男!!!』
『主の限界言い訳タイム・鮭の遡上編ww』
『さあ、この圧倒的なフィジカルの暴力をどうやって事務処理のせいにする気だww』
俺はキリッとした真顔で、淀みない口調で言い放った。
「これは野生の狩りでも何でもありません。植物学的な環境要因と、重力および流体力学の相互作用を利用した、自動化された『生体駆動式・高効率物資調達(オート・ロジスティクス)』です」
「あるわけないじゃないですかぁぁぁ!!!」
小春ちゃんが、川辺に落ちていた、程よく乾燥して硬化した流木(ヘビーデューティー耐衝撃仕様・重量約2キロ)を両手でバットのように構え、俺の肩に渾身のフルスイングを見舞った。
バキィィィンッ!!!!
流木が真っ二つに叩き割れる凄まじい衝撃音が響き渡るが、俺の需品科仕込みの防御姿勢はそれを最小限に受け止める。
「生体駆動式物資調達って何ですか!! 完璧に自分の意志で鮭の急所を狙って、お兄さんの前に積み上げてたでしょうが!! しかも何が流体力学ですか!! どう見たって、いつもブラッシングしてくれるお兄さんと、大好きなシロちゃんのために、冬の間の貴重なタンパク質を全力で調達してくれた家族の愛でしょうが!! 有能すぎる門番の成果を素直に褒めなさいよ!!」
『小春ちゃんのキレキレ流木スマッシュ炸裂www(木が割れてて草)』
『生体駆動式・高効率物資調達(丸々と太った最高級の銀毛鮭)』
『オート・ロジスティクス(体重数百キロの圧倒的な愛)』
『適応力バグおじさん、ついにヒグマを自動物資調達システムに分類しやがったww』
『言い訳が理不尽すぎて今日も飯(鮭)が美味いわww』
俺の理不尽極まりないロジスティクス的な言い訳と、小春ちゃんの容赦ない物理ツッコミに、五千万人の視聴者たちは大爆笑の渦へと叩き落とされた。
『ミャウ(良い調達兵を持ったわね)』
俺の腕の中で、シロ様が誇らしげにその神秘的なオッドアイの瞳を細め、喉を満足げに鳴らした。
サファイアブルーと琥珀色の二色の瞳には、積み上がった鮭の山が、これからの冬の兵站をさらに豊かにする最高の戦利品として映っているようだった。
「……まぁ、理由はどうあれ。これで冬の間の貴重なタンパク質(兵站)が完全に確保されたのは事実だ。これほどの最高級品、最高のロジスティクスで加工しなければ需品科の名が廃るな」
俺は苦笑いしながら、ヒグマの巨大な頭を優しく撫でた。
「よし、小春ちゃん。これだけの鮭だ。新米の玄米と一緒に石狩鍋にするぞ。残りは全て贅沢な鮭トバと新巻鮭に加工し、冬の間の長期保存食(ミリタリー・レーション)として厳重に保管する。外は寒くても、我が家の兵站はこれで完全無敵だ」
「はいっ! お兄さん! とびきり美味しいお鍋にしましょうね!」
氷点下の冷気が支配する、本格的な冬の限界集落。
しかし、神獣の結界と、新たに「最強の調達兵」としての才能を開花させたヒグマの防壁に守られたこの古民家の中だけは、どんな飢えも寒さも届かない。
世界で一番温かくて、最高にバグった鮭とロジスティクスの新章が、満開の笑顔と共にここから幕を開けるのだった。
コメント
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ゆうきあきやさん、第171話拝読しました! ヒグマが野生の本能で川に突進するシーン、一気に緊張感が走って「あ、ついに来たか」と思ったら、まさかの鮭の大漁調達(笑) 「生体駆動式・高効率物資調達(オート・ロジスティクス)」ってアキヤさん、また飛躍した理論で逃げようとしてるの最高すぎますw 小春ちゃんの流木スマッシュも冴えてるし、シロ様が「良い調達兵を持ったわね」と満足げなのもツボでした。それにしてもVIPたちのギフト合戦、石油王が「コールドチェーンで宮殿に」って…さすがバグり散らかした世界観だなと(笑) 石狩鍋の話も出てきて、冬支度のほっこり感とギャグのバランスが絶妙でした。続きが楽しみです!
ゆうき あきや
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ゆうき あきや
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キュルノ
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