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ぬきあし…さしあし…
向かうのはリビングの奥にあるベッドルーム。
深い寝息が聞こえる。課長はまだお休み中だ。
そっとのぞきこむと、王子様の寝顔が真っ白な枕に埋もれている。こうして大きめの枕を抱きかかえるようにして眠るのが課長のくせ、っていうことを最近知ったわたしだった。
ううん…まだ慣れないなぁ…このドキドキ感。
「課長…」
そっと声を掛ける。
「課長…起きてください。朝ですよ」
でも、なんてやさしく声を掛けて起きる人ではなかった。
課長の寝起きの悪さは最強で、これが在宅勤務を希望した一番の理由だというだけあって、ちょっと声をかけたり揺すったりしただけじゃ、びくともしない。
「もー!課長起きてくださいよぉ!」
ばっと掛け布団をはがして、課長のお気に入りの枕を奪い取る。
「んん…」
ちょっと目が開いた―――けどまた寝ちゃった。
もう!こうなれば、と課長を揺すりまくって、耳元で…!
「課長!いい大人がなんですからっ!早く起きなさ…っきゃ!」
突然、伸びてきた手に引きずり込まれて、わたしは課長の腕の中にくるまれてしまった…!
吐息が耳に掛かって…きっちり抱き締めてくる腕がすごく熱い。
「…もう!いつまで寝ぼけてるんですかぁあ」
くすくす。
え、笑い声…?
「抱き枕は大人しくしてくれなきゃ寝心地悪いでしょ」
寝起きの割にはずいぶんしっかりした声が聞こえた…。
「課長…寝たふりしてましたね」
「ふふ」
「も~う!からかおうとして!」
無理矢理起きようとしたけど、課長の指がわたしの指に絡まって、さらにぎゅっとわたしの身体を抱き締めた。
温かい課長の手と体温にすっぽりくるまれ、わたしの体温はもっと上昇する…。
「おはよう」
「おはようございます…。起きてるなら、からかわないでください…」
「ごめんごめん。抱き枕とられちゃったから寂しくて。…でも、こっちの方が落ち着くね」
耳元で聞こえてくる声は、心からほっとしたように吐息まじりに掠れていた。
耳から胸のあたりがぞわぞわして胸がきゅうと苦しくなる。
…どうしよう、このままじゃ、おかしくなっちゃいそう…。
けど。
すーすー
と寝息が聞こえ始める…。
「わ、わたしは抱き枕になれとまで部長に頼まれてませんよ!」
「…もう、ちょっと」
「社会人に寝坊は禁物です!」
「あと五分」
「だめです!」
「三ぷーん」
「あーあ、せっかくご飯つくってあるのに、冷めちゃいますよ」
「ご飯?」
課長の声のトーンがちょっとアップした。
よし、もうひと押し。
「今朝も課長の好きな出汁巻き卵作ったのに、このままじゃおあずけですね」
「もう…キミにはかなわないなぁ」
するりと腕が抜けていく。
ほっとしたようなちょっと寂しいような…複雑な気持ちをごまかして乱れたスカートとセーターを直すと、課長をにらんだ。
「さぁ早く顔を洗ってきてください」
「はいはい…」
のそのそ、と課長が寝室から出て行ったのを見送って―――わたしは力が抜けたようにベッドに座る。
もう。
どうしてあんなこと…。
ドキドキして死んじゃうかと思った。
こんなやりとり、まるで新婚夫婦みたいじゃない。
きゅんと痛む胸。
落ち着かなきゃ、と深呼吸して胸の高鳴りを抑える。
けど、課長の温もりがすこし名残惜しくて、わたしは包むように体を抱き締めた。
※
実はわたし、服部部長の推薦により今月からら営業事務へ転属となった。
総務部での内情とこの前の鍋パーティーの成功を考慮しての抜擢だった。
総務部以上に多忙で、スピーディーさと正確さを要求される仕事だけれど、みんなやさしくてとても気さくだから、大らかにフォローしてくれる。
それにわたし自身も、麻美さんや涼子と親しくなっていたので、新しい環境でものびやかに仕事に打ち込めて、日増しにミスを少なくしていけた。
営業事務の人たちは、個性的で自己主張が強い人が多いけど、とにかくみんな大らかで気さくだ。
亜依子さんが上に立つ職場らしいな、って思う。
上で職場の雰囲気が変わる、ってこういうことなんだなあ。
なんてのびのび仕事を覚えている最中のわたしだけど、実は服部部長より預かった極秘業務もあった。
それがこの課長のサポートだ。
オフィスに出て仕事するようになってから、部下を抱え、営業と連携をとったりと、慣れない仕事が課長の身に降りかかった。
それでパンクして仕事に支障をきたす課長ではないのだけど、やっぱりいろんな面で影響は出てきているみたいで、そこでわたしが今まで以上に親身に課長のお世話をすることになったんだ。
今朝みたいに起こすのもそうだし、朝食もつくってあげるようになった。
それだけでなく、仕事の面でもサポートをまかされている。
「これが先日営業部で交わしたクライアントとの打ち合わせ結果と、それを踏まえて計画した企画書です。特に問題がなければ、二週間後には完成してほしいとのことですが」
わたしが差し出した報告書を眺めながら、課長は卵焼きを口に入れた。
「うん、これなら一週間でできるよ。あと、別のクライアントからのこの相談だけど、それもこの改良版でどうにかなるはずだから、営業に連絡しておいて」
「はい」
課長は今、新しいソフトの開発につきっきりなんだけど、それだけでなく既存のソフトウェアの改良もまかされている。
営業がクライアントから要望や意見を聞き、それを課長中心の開発課に伝える。開発課はそれを参考にソフトをバージョンアップしたり新しいソフトを開発したりする。
けど、いくら課長が敏腕とはいっても、何人もの営業から一気に報告を受ければ困惑するし、抜本的な改善案は見いだせない。
そこでわたしの出番だった。
わたしが課長の窓口代表となって、報告を集約し課長に伝えるのだ。
それだけでなく、時には営業の人について行ってセールスのサポートをするのと同時に、課長の目や耳になり、現場の雰囲気やクライアントの反応を課長に直接伝えたりもしている。
わたしが部長から特に重点的に引き継いだのは主にこういった仕事だった。
とても重要だし、クライアントと会う際には集中力が必要だ。
わたしで大丈夫かと自信が無かったけど、鍋パーティーでの手際の良さを見込んでくれた服部部長の期待に応えるためにも毎日頑張っている。
「この案に対しての向こうの反応はどうだった?」
「そうですね。まずまずと言うところでした」
「話した相手は三宅課長って人だったろ?あの人って表情が出ないって別の営業がぼやいてたからな。まずまず、って反応じゃまだ安心はできないかな。突っ込まれた時のために、もうちょっと考えておくよ」
「はい。わたしも今度はもう少し気を付けてみます」
こんな会話をしている時の課長は、ほんとに敏腕って感じがする。