報告書を見ている真剣な眼差しは、さっきまでお布団でわがまま言っていた人と別人のようだ。
営業事務になって、より課長のお仕事を近くで知るようになって、改めて彼の有能ぶりと多忙さを思い知る日々だった。
「ところで…お顔あまりすぐれませんけど、大丈夫ですか?もしかしてあまり寝てないんですか?」
「ん…?実はね」
「昨晩は何時に寝たんですか?」
「うーんと、三時くらいかな」
「え、それじゃあ二時間も寝てないじゃないですか…!」
「大丈夫だよ。キミの料理で精はしっかりつけてるんだし」
と言って課長はずずとお味噌汁をすする。
課長の好みはやっぱり純和風。
朝ご飯は必ずご飯と味噌汁。味噌汁をすすっていると目がさめてくるらしい。
ちなみに、おかずには必ず出汁巻き卵をつけてほしいとのことだった。
「ふわぁああ」
「ちょっとお休みを取った方がいいんじゃないですか?」
「ホントに大丈夫。それに…別に仕事で起きていたわけじゃないしね」
「?」
意味深な言葉に怪訝に思った。
課長はすこし照れるように間を置いた。
「…実はさ、昨晩は親父と会ってきたんだ」
「え!?」
「ひさしぶりに会ったら、いろいろ話が多くなってね、それで帰りが遅くなったんだ。…キミの言った通り、話してみて良かったかもしれない。ありがとう」
「いえ…」
いえ…。
そんな…。
そんなことないです。
「どうしたの」
わたしは声を詰まらせていた。
課長の方がずっとうれしいはずなのに、どうしてかわたしの方が泣きそうになっていた。
「よかったな、って、うれしくて…。すみません…朝から…」
ふふ、と課長は小さく笑った。
「やっぱり可愛いね、キミは」
ぽん、と課長の手がわたしの頭を撫でた。
「ほんとに…どうしようもなく、可愛い」
その手がゆっくりと下りて、頬を撫でる。
この動きをする時のキャラメル色の瞳は、決まってやさしくて穏やかで…蕩かすように甘い。
息もできずに手の動きに気を取られていると、ふいに、指がわたしの耳たぶを揺らした。
「最近つけてるんだね、ピアス」
「あ…」
「前は付けてなかったのに」
「い、いえこれは…」
課長が嬲るように耳を弄るから、わたしは声を上ずらせて返した。
「ピアスみたいに見えるイアリングです。ピアスは痛くて怖いので…」
「そっか。可愛いイアリングだね。すごく似合ってる」
「ありがとうございます…」
まじまじと見つめる課長の顔が近過ぎて…首に吐息があたってくすぐったい。
「なんだか、最近おしゃれだよね」
「そ、そうですか?」
「うん。そのセーターも買ったばかりでしょ?あと髪の色も最近明るくなった」
わ、すごい…!
気づいてたんだなぁ。さすがだ。
総務部はみんなすごいお洒落だったから、下手にお洒落するとチェックされそうで怖かったから地味に徹してた。
営業部の人もお洒落だけど、逆に「亜海ちゃんはあれが似合う」とか「これがおすすめ」とか気にかけてくれるので…。
「お洒落しないと申し訳ない気がして最近気を使ってるんです…」
「ふぅん」
あれ、なんか冷めた反応だな。
わたしがお洒落したら面白くないんですか…?
ってか、今日の格好いまいちだったかな…。わたしセンスないしなぁ。
「営業部に転属になってからキミ変わったよね」
「ご、ごめんなさい…調子に乗って…」
「調子?どうしてそういうこと言うの?すごい可愛いくなってきてるのに」
可愛い…!?
「あ、ありがとうございます。お世辞でもすご、すごくうれしいです…っ」
「お世辞なんかじゃないよ」
しょっちゅう赤くなる耳がおもしろいのか…課長は相変わらずわたしの耳を弄っている。
囁くように話す声が、指から伝わるように耳を震わせて、甘い刺激を感じる。
「きっと他の男もキミのこと可愛いって思ってるだろうね」
…ほんと、焦るよな…。
とつぶやいた声は、イラついたような低い響きをしていたけれど…どこか甘さもあって…。
胸が切なく締めつけられる。
「…課長…?」
「いつになったら、俺のこと好きになるの?」
…なに言って…。
「さてそろそろ出社しようかなー」
急に立ち上がると、課長は大きく伸びをした。
さっきの言葉なんてなかったかのように、課長の表情は普段に戻っていたけれど。
わたしの胸はいつまでも高鳴っていた。
そうして、わたしたちは一緒にエレベータを降りた。
「じゃあ、またね」
「はい」
「今日は定時であがり?」
「いいえ。もちろん残業です」
あなたの部屋で過ごす、秘密の残業です…。
くすり、と課長は笑った。
「いい加減、こんな悪質な雇用条件、解消したいって思ってるんじゃない?ここ最近もまともな報酬払われてないし」
その通りで、営業事務になってからは理不尽な仕事の押し付けとかは皆無なため、課長に助けてもらう機会がなくなっていた。
今はむしろ、わたしが一方的に課長につくしているような感じで、もう、雇用条件って言える関係ではなくなっていた。
もうそろそろ、様変わりしてしまったこの『関係』にきちんとした名前を付けて、適切な処理をしなければならない時期に来ていた。
「俺は、いつでもこの雇用関係を解消していいと思っている」
「……」
「キミの要望次第だから」
ふいに、額に柔らかい感触を感じた。
キスを落として、「じゃあね」と囁いて、課長は踵をかえした。
このやわらかな温もりから始まった関係を解消するための条件は、ただひとつ。
わたしが課長を好きになること。
課長とのこの日々を変えるのは、わたしの気持ちただひとつ…。
わたしの気持ちは…。
わたしは課長のことを…。
「ふぅん、そういうこと」
突然、冷やかな声が聞こえて肩を震わせた。
この聞き覚えのある声は…。
営業事務になって忘れかけていた、この嫌味のこもった声は…。
「田中さん…?」
振り返ると田中さんが立っていた。
秘密を握ったかのような、勝ち誇った笑みを浮かべて。
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