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「慌てなくても、乗っていけばいいだろう」
さっきから遥は不満そうに萌夏を見ている。
「そういう問題じゃないでしょ」
「何がだよ」
だって・・・
いつも通り朝食の時間に起きてきた遥は、早めに起きて身支度をし自分の食事を済ませて遥の朝食を用意する萌夏が気に入らないらしい。
「そんなに急ぐ必要はないだろう?」
と言った遥に、
「この時間は電車が混むんだから早くいかないと」
今にも駆けだしそうな萌夏。
当然一緒に出るんだと思っていた遥は面白くない。
「満員電車なんて乗ったら会社に着くまでに疲れてしまうぞ」
「それは、みんな同じ。送迎付きで出社できる人の方が少ないのよ」
「せっかく車があるんだから乗っていけばいいだろう」
「だから」
言いかけて、萌夏は言葉を止めた。
いくら言ったって無駄だ。
一見温厚そうなふりをしてとても頑固な遥は、一度言い出したら絶対に聞かない。
こうなったら強行突破に出るしかないだろう。
***
ブーブーブー。
さっきから携帯電話が鳴りやまない。
まぁ、仕方ないか。
遥が着替えに部屋へ戻ったすきに出てきてしまったんだから、相当怒っていると思う。
「ボスを怒らせてどうする気だ?」
玄関から駆け出す萌夏に、雪丸の冷たい言葉。
そりゃあ仕事を紹介してもらった恩はあるけれど、遥はボスではない。
ご主人様ではあるけれどね。
「後悔するぞ」
ドアが閉まる瞬間かけられた声に、萌夏は振り返ることをしなかった。
あああ、本当にうるさい。
ただでさえ新しい職場で緊張しているのに、ゴチャゴチャ言わないでほしい。
そもそも、いきなり履歴書を書かされてパートで事務の仕事に就けると言われたのが3日前。
アシスタントだから心配する必要はないと言われたけれど、会社勤めが初めてな萌夏には不安しかない。
いくら遥が口をきいてくれて縁故での採用だからって、緊張はする。
ピコン。
メールの着信。
あ、遥からだ。
『会社に着いたらホールで待っていろ。担当者が行くから』
『うん、ありがとう』
なんだかんだ言って、遥のおかげで仕事ができる。
お世話になったクラブのママには申し訳ないけれど、昼間の仕事に就けることはやはりうれしい。
多少浮かれた気分で、萌夏は指定された会社へ向かっていた。
***
え、嘘。
遥に指示された会社は都心にある大きなビル。
建物の入り口で上を見上げても先端が見えないぐらい高くて、立派な建物。
それもこのビル全体が一つの会社らしいから、随分大きな会社ってことになる。
萌夏が想像していたものとはだいぶ違う。
「本当にここ?」
誰に聞くともなく声に出た。
確かに聞かされた住所はここだから、ここに間違いはないと思う。
それにしても大きな会社。
スーツ姿の人たちがビルへと飲み込まれていくのを見ながら、萌夏は足が止まってしまった。
考えてみれば、勤め先について詳しく聞いていなかった。
遥が紹介してくれて、一週間もたたずに決まったから、知り合いの会社だろう位にしか思っていなかった。
まさかこんな大きな会社を紹介されるなんて・・・
すっかり怖気ずいてしまった萌夏。
それでもこのままここにいる訳にもいかず、足を踏み出す。
さあ頑張ろう。
ホールで待っていれば誰か来るって言われたから・・・
「すみません」
絶妙なタイミングで、後方から声がかかった。
「小川萌夏さんですか?」
声をかけたのはスーツ姿の男性。
「はい、そうです」
「ご案内します。どうぞ」
20代かな、まだ若そうな男性はにこやかな表情。
萌夏は男性の背中についてエレベーターへと乗り込んだ。
***
到着したのはビルの20階。
広いスペースの中にいくつかの部屋が並んでいる。
「営業部はその先です」
男性の言葉で自分が営業部へ連れていかれるのだと知る。
廊下ですれ違う男性も女性もみんなきちんとしたビジネスの服装。萌夏も一応スーツは着てきたけれど、やはり借りてきた猫のようでしっくりこない。
こんなところでできる仕事なんてあるのかしら。
いくら雑用とは言え会社勤めが初めての萌夏には不安でしかない。
「小川さんは次長と親しいんですか?」
「え?」
次長って、役職だよね。
意味がわからずぽかんと口を開ける萌夏。
「すみません、聞いたらいけませんでしたか?」
男性はしまったと言う顔で口を押さえた。
「いえ、えっと・・・」
「無理して答えなくてもいいですよ」
慌ててフォローする男性。
そうじゃなくて、一体何のことなのかさっぱりわからない。
「あの・・・次長さんて、どなたですか?」
「え?」
男性の足も会話も止まってしまった。
その時、
「おい」
聞き覚えのある声に萌夏は振り返った。
***
「何してる?」
いつもより冷たく聞こえる声がかけられた。
「すみません、今行きます」
案内してくれた男性は足を速める。
そこに現れたのは我が家の主。
「え、どうして、遥が」
「行きましょう」
男性のほらやっぱりという表情。
もしかしてここは遥の勤務先?
萌夏だって遥がどこかのおぼっちゃまなのは気づいていた。お金持ちそうだし、秘書がついているからには役職のある仕事をしているんだろうと思っていた。でももう少し小さな会社の社長の息子くらいに考えていた。
まさかこんな大企業の偉い人なんて・・・
「今日から働いてもらうことになった小川萌夏さんだ。アシスタント業務をしてもらう」
とっても簡潔な部長さんの紹介。
「小川萌夏です。よろしくお願いします」
20人ほどの人を前に萌夏が頭を下げる。
営業部は1課から3課までありフロアもとても広い。
総勢80人ほどいるらしいから、顔を覚えるだけで大変そう。
「小川さんちょっといい?」
普段は小川さんなんて呼んだこともない遥が、萌夏を呼んでいる。
なんだか嫌な予感がするものの、上司に呼ばれれば行くしかない。
「はい」
萌夏はおとなしく遥のもとに歩み寄った。
***
パタン。
遥に呼ばれ、連れていかれたのは次長室。
どうぞと部屋に通され入った瞬間にドアが閉められた。
平石建設営業統括本部次長。
それが遥の肩書らしい。
平石建設と言えば平石財閥の系列会社で、萌夏でさえ名前を聞いたことのある上場企業。
まさか遥がこんな大きな会社で働いていたなんて・・・
「何か言うことはない?」
え?
驚いて顔を上げると、思いのほか遥との距離が近くて思わず一歩引いた。
「あれだけ一緒に行くって言ったのに」
不満げに言う口調も態度もいつも家で見せる遥と同じ。
少なからずショックを受けていた萌夏は普段と変わらない遥に少しほっとした。
「帰りはタクシーを使え」
「いいよ。電車で帰るから」
タクシー代がもったいないし。
「雪丸に送らせようか?」
「冗談。絶対に嫌」
「じゃあ、おとなしくタクシーで帰れ」
それも嫌だな。
「いいな?」
「・・・」
萌夏は返事をしなかった。
やはりタクシー通勤なんて分不相応。
深夜の帰宅なら仕方がないけれど、終電までは電車を使いたい。
***
ああぁー、もう。
勤務初日だというのに、山のような書類と抱えきれないくらい大量のマニュアルを渡された。
まずはマニュアルに目を通し渡された伝票を処理する。それが与えられた仕事。
難しい仕事ではないだけれど、まったくの素人にとっては未知の世界。
きっと間違えることもできないはずだし、期限だってあるはず。
そう思うと気持ちが焦るばかりで、なかなか作業が進まない。
その上、
「すみません・・・」
わからないことがあるたびに聞きに行く相手は雪丸さんで、それも萌夏にとってストレスになっている。
文句を言いたくても、営業本部次長なんてお偉い遥はめったに部屋から出ても来ないし、自力でやるしかない。
「はあぁー」
つい声に出てしまった。
「大丈夫?」
声をかけてくれたのは朝ここまで案内してくれた男性。
「えー、なんとか」
「少し手伝おうか?」
「本当ですか?、、、でも、やめときます」
もしそのことがバレたら余計に機嫌が悪くなるのは目に見えている。それに自分ができないから人に助けを求めるのは悔しい気がする。
「もう少し、やれるところまでやってみます」
「そう、無理しないでね。次長も少しひどいね」
周囲に聞こえないようにささやかれる声。
「そうですね、鬼です」
ククク。
2人で顔を見合わせて笑った。
「おい、仕事がたらないならやるぞ」
少し離れたところから雪丸さんの声がかかる。
本当に、本当に鬼だわ。
***
「小川さんこっちこっち」
昼休み同じ島を囲む数人のメンバーが社食へと案内してくれた。
「へー、メニューが豊富ですね」
今まで働いたバイト先でも大学でもこんなに充実した食堂はなかった。
値段もかなり安くて萌夏でも手が出そう。
「日替わりがオススメだけど、何にする?」
朝案内してくれた男性、|高野空《たかのそら》さんが席をとっていてくれた。
「じゃあ、日替わりで」
えっと、今日の日替わりランチはチキン南蛮とサラダ。小鉢に筑前煮と豆腐とわかめのお味噌汁。
「ご飯は自分でね」
「はい」
一緒に来た同じ部署の先輩|川田礼《かわたれい》さんが先にご飯をよそっている。
ご飯のお茶碗も大もり用のどんぶりと、普通サイズと、女性用の小椀。
んー。
迷った末に萌夏は普通サイズのお茶碗を選んだ。
見ると、川田さんは小椀を選んでいる。
やっぱり女子としては小椀の方を選ぶべきだったかあ。
「もりもりご飯を食べる女の子って、いいと思うよ」
萌夏の気持ちを見透かしたように、高野さんが言ってくれる。
「そうよ、若いうちはいっぱい食べなくちゃ」
「え?」
川田さんの言葉に萌夏の手が止まった。
色白で、スリムで、まっすぐな黒髪を肩まで伸ばした川田さん。
一重の涼やかな目も、口元にあるほくろも、萌夏にはない色気を感じさせる。
だからと言って、そんなに年上の印象はない。
「川田さんも十分若いですよ」
萌夏が言いたかったことを、高野さんが代弁してくれた。
「もー、やめてよ。高野君ったら」
え、えっと、2人は・・・・
萌夏は2人を交互に見比べた。
***
「ごめんね、俺は今年の新卒で萌夏ちゃんと同じ23歳。礼さんは俺の指導係なんだ」
「へえー」
「指導係とは言っても、彼は総合職で私は一般職。ただ歳をくっているから選ばれただけよ」
そう言っては謙遜するけれど、きっと違うと思う。
「川田さんっておいくつですか?」
あまりにも若々しくて、思わず聞いてしまった。
「私は27歳。10代のころ寄り道をして大学を出たのが遅かったからまだ入社3年目なの」
「そうなんですね」
みんなそれぞれ事情があるのよね。
萌夏だって、大学を休学中だし。
「雪丸も同期よ」
「ええー」
つい大きな声になった。
そう言えば雪丸さんって何才だろう。
遥より年上っぽいけれど。
「彼も同い年の27歳。あなたと遥より4つ上ね」
ふーん。
え、遥?
「礼さん」
「ああ、ごめん」
何だろうこの会話。
なんだか意味深。
「遥と雪丸は親友だし、遥自身も学生時代からうちの会社にも出入りしていたからみんな付き合いは長いの」
「学生時代からですか?」
「そう。社外役員としていろんなプロジェクトにかかわってきているわ」
「へー」
よく意味が分からないけれど、遥は特別ってことらしい。
「うちの社長も次長のことを実の子のようにかわいがっているし、能力も買っている」
ってことは、遥は平石建設の社長も息子ってわけではないのね。
てっきりここの御曹司なのかと思っていた。
「もしかして、萌夏ちゃんは彼の素性を知らないの?」
萌夏の反応を見ていて川田さんが気づいたらしい。
「お金持ちの息子なんだなあと思ってますけれど」
それ以上は知らない。
興味がないわけではないけれど、彼が言わない以上聞くのも変な気がして詮索しないまま今日まで来てしまった。
「フフフ。萌夏ちゃんて面白いわね」
「そうでしょうか?」
「そうよ」
その後ランチは和やかに進み、あっという間に午後の勤務に突入した。
***
久しぶりにちゃんとしたお昼ご飯を食べて、眠たくなった萌夏。
眠ってはダメだと気合を入れながら、必死に目をこするけれど睡魔は逃げてはくれない。
困ったなあ。
このまま居眠りでもすれば、雪丸さんに雷を落とされてしまう。
とにかくこの眠気をどうにかしなければと、萌夏は席を立った。
少し歩いて、トイレに行って、手でも洗えば目が覚めるかもしれない。
さすがに化粧をした顔を洗うわけにはいかないからとにかく動いてみよう。
「ねえ、聞いた?今日入った子って、平石次長の彼女らしいわよ」
「えー、そうなの?」
「でも、平石次長は礼さんの恋人じゃなかった?」
トイレの中から聞こえてきた女子たちの会話。
萌夏の足が止まってしまった。
「だって、次長の一声で決まった採用だって人事の子が言っていたもの」
「へえー。やるわねあの子。平石財閥の跡取りなんて玉の輿もいいところじゃないの」
「さすがに玉の輿ってことはないでしょ。平石財閥を背負っていくからには一般人との結婚とかなさそうだし」
え、平石財閥?
跡取り?
「どうやってたぶらかしたのか知らないけれど、小川さんて子も油断できないわね」
「そうね。何しろあの王子様を手玉に取るくらいだから」
「案外本気で平石財閥の奥様の座を狙っているんじゃない?バカな女ね」
嘘・・・だよね。
遥が平石財閥の跡取りなんて、そんな訳ない。
***
「萌夏ちゃん」
肩をポンと叩かれ、名前を呼ばれた。
「あ、川田さん」
一緒にお昼を食べた川田礼さんがそこに立っていた。
「なかなか帰ってこないから、探しに来ちゃった」
そうか、トイレに行く途中で女子社員たちの会話を聞いてしまってそのまま社内をフラフラしていた。
勤務中に姿を消せば、そりゃあ心配するわよね。
「すみません」
「いいのよ。それより大丈夫?顔色がよくないけれど」
「大丈夫です。すみません、ちょっと迷ったみたいで」
「そう」
聞きたいことはある。
川田さんならきっとすべてを知っていると思う。
でも、聞くのが怖い。
「もしかして、何か聞いたの?」
「え?」
「正直言って、今日の社内は萌夏ちゃんの話題で持ちきりだから。耳に入ったのかなって」
はぁー。
やっぱりそうなんだ。
「あの・・・川田さんは」
「ああ、礼でいいから」
「はい、じゃあ。礼さんは、遥と親しいんですよね?」
お昼の会話からそう感じていた。
「そうね。遥って呼べる程度にはね」
「それって・・・」
どういう意味だろう。
「私は10代のころから遥を知っているわ。ここに就職できるよう口をきいてくれたのも遥。萌夏ちゃんと同じね」
そんなに昔から知っているんだ。
でも、きっと、同じではないと思う。
萌夏は遥のことを何も知らないから。
***
「遥は平石財閥の跡取りなんですか?」
思い切って口にしてみた。
今まで1か月以上一緒に暮らしながら気が付かない方がおかしいのかもしれないけれど、萌夏は知らなかった。
もちろんお金持ちだとは思っていたし、お坊ちゃんだとも思っていた。けれど、スケールが違いすぎる。
萌夏の想像していたものとは、公園のボートと空母くらいのサイズ感の違いがある。
「本当に知らなかったのね」
「はい」
「遥が平石財閥の跡取りなのは事実よ。いろいろと事情もあるから絶対ってわけではないけれど、このままいけばそうなると思う。それに、能力的に言っても適材だと思うしね」
「そう、ですね」
そう言われてみれば、あのプライドの高さも、発せられる言葉の持つ力強さも、人の上に立つ者に備わっているべきもの。
「どうする?ここを辞める?」
え?
「過程はどうあれ、身分を明かさずにここを紹介されたんでしょ?そのせいで萌夏ちゃんはいわれのない非難を受けた。辞めるって選択肢もあると思うけれど」
「それは・・・」
今までだって気づくチャンスはあった。
特に、同棲を始めるときにもう少し調べるべきだったと思う。
でも、自分でそれをしなかった以上、今ここで遥を責めるのは筋が違う。
自分の意志でここへ来たんだから。
「このまま逃げだしても、誰も萌夏ちゃんを責めたりしないわ」
「いえ、このままここでお世話になります」
「いいの?」
「はい。だから、礼さんも今日のことは言わないでください」
こんな話が耳に入れば遥はきっと怒るだろうし。
このまま何も知らないままでいい。
どうせ今だけの関係だもの。
「わかったわ。じゃあ、戻りましょ。雪丸が怒っているから」
えええー。
それは困った。