平石建設に勤めるようになって、萌夏の生活は一変した。
規則正しく起き、仕事をし、夜は遥の住むマンションに帰ってくる。
この当たり前の生活が穏やかな時間を与えてくれた。
毎日ではなくても遥のために夕食を用意したり、季節に合わせた模様替えをしたり、週末に時間があれば二人で散歩に行くこともあった。
この生活に慣れてはいけないと思いながら、萌夏は幸せを感じていた。
就職して1ヶ月。
平石建設での業務の流れも理解し、伝票処理だって電話応対だって今では難なくこなせる。
それに、平石建設くらいの大企業になると色んな人間が出入りする。
そんな来客のたびにお茶出しをするのもアシスタントの仕事。
トントン。
「はい」
部長の声を確認してからドアを開けお客様にお茶を出す。
毎日のようにこなす業務ではあるんだけれど、
「ありがとうございます」
にこやかに返された笑顔。
その人は初めてのお客様で、新規の取引先と聞いていた。
30代後半の、いいスーツを着たお金持ち風の人。
でも、お茶を出しペコリと頭を下げながら、萌夏は嫌な予感に襲われた。
この人、怪しい。
きっと裏がある。
人はみな裏と表があるものだと思う。
すべてをさらけ出している人なんていない。
でも、目の前の男性は違う。
明らかに悪意があって、何かを企んでいる。
言いようのない不安を感じながら萌夏は会議室を出た。
***
どうしよう。
あのお客さんが怪しいなんて誰に言っても信じてもらえない。
下手をすると私の方が怪しまれてしまう。
だって、目に見える根拠は何もないんだから。
「どうしたの萌夏ちゃん?」
お盆を持ったまま給湯室で立っていた萌夏に礼が声をかけた。
「あのお客様なんですが、」
「何、知り合い?」
「いえ、そうではなくて・・・」
子供のころから、萌夏は霊感のようなものがあった。
霊感と言うよりも、その人の持つオーラが萌夏には見えるのだ。
悪だくみをしているときや、悪意があれば黒や群青色。
危険が迫っていたり、切羽詰まっているときには赤やオレンジ。
不安な気持ちがあれば、黄色系の色を放つ。
その強さもその人の持つパワーと思いの強さに比例し、その人本来が持つオーラは透明感がある色なのに対して一時的な感情は濁った色になることが多い。
とにかく千差万別で一人一人違うため萌夏の受ける印象によるものが大きい。
だからこそ、絶対とは言えない。
「何か気になるの?」
「ええ、なんとなく」
それ以上は言えなかった。
あのお客さんの背後にどす黒いオーラを感じるなんて言っても、きっと信じてもらえないと思う。
気持ちの悪い子ねと、言われて終わりだろう。
子供のころからずっとそうだった。
「いいわ、調べてみましょう」
「いいんですか?」
「ええ。でも雪丸や遥に話すのは調べてみてからね」
「はい」
礼さんだってたくさん仕事をか抱えているのに、引き受けてくれた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、萌夏は少しほっとした。
***
それから1週間。
日がたつにつれて萌夏があのお客さんのことを思い出すこともなくなっていた。
礼さんは何も言わないないし、あれきり姿を見ることもない。
もしかしたら気のせいだったのかもしれないと思い始めていた。
「小川さん、この伝票今日中に頼めるかなあ?」
「はい、いいですよ」
仕事にも慣れて、仕事が楽しくもなってきた。
「ねえ、今日若手で飲み会をするんだけれど、小川さんもどう?」
こうやって時々飲み会に誘われることもある。
でもなあ・・・
「今日は、やめておきます」
確か遥が早く帰るって言っていたから。
「お兄さん?」
「え、ええ」
ここに勤めるようになって何度か飲み会に誘われるたびに、「同居してる兄のご飯を作らないといけないので」と言い訳をするようになった。
本当は兄ではなく遥の食事だけれど、まさかそれを言うわけにもいかず、兄と同居中とごまかしている。
「じゃあ、また誘うね」
「はい」
職場の同世代との飲み会は嫌ではない。
そんなに頻回に行こうとは思わないけれど、たまに行けばいい刺激をもらえるし普段自分が作ったのもしか食べない萌夏にとってはメニューのレパートリーを広げるいいチャンス。
だから、美味しいものを見つけると必ず家で再現し遥に出している。
「あれ、礼さんは?」
「さあ」
そう言えば、さっきから姿が見えない。
***
「小川さん、ちょっといい?」
珍しい。遥に呼ばれた。
次長室から顔だけ出して、萌夏に手招きしている。
「はい」
返事をして立ち上がる萌夏。
何だろう、何かしたっけ?
毎日顔を合わせている同居人なのに、こうして呼ばれれば緊張してしまう。
一応上司だしね。
「入って」
次長室に入った途端、ドアを閉められた。
え、何?
萌夏は一瞬動きが止まった。
えっと、これはどういう状況だろうか?
目の前のソファーに礼さんと高野さん。入口に近い一人掛けの椅子に雪丸さん。遥は自分のデスクに寄り掛かるように立っている。
「ごめんね、萌夏ちゃん」
訳が分からず立ったままの萌夏に、なぜか謝る礼さん。
「えっと・・・状況が」
誰か今何が起きているのか説明してほしい。
「先日の来客、知り合いだったのか?」
「え?」
遥の言葉の意図がわからず萌夏は聞き返した。
「何か知っていたから、礼に調べてくれるよう頼んだんだろ?」
「いや、それは・・・」
ははーん、礼さんがあのお客さんを調べていることがばれたのかぁ。
でも、それで全員集合?
「結論から言うと萌夏ちゃんが正しかった。俺の調査が甘くてあいつが詐欺師だって気づかなかったんだ」
高野さんが悔しそうに吐き捨てる。
「お前の責任ばかりでもない、会社としてもう少し詳しく調べるべきだった」
雪丸さんは高野さんの味方みたい。
「いいじゃない、契約前だったんでしょ?事前に防げてよかったじゃないの」
礼さんは何がいけないのよって感じ。
「萌夏、お前は何を知っているんだ?」
入り口近くに立ったままの萌夏に遥が近ずく。
「いや、私は別に・・・」
***
まず状況を整理すると、あのお客さんは都内の一等地に先祖代々から受け継ぐ土地の地主。という触れ込みだった。
今回の契約はその土地を手放し、平石建設に売るというもの。
平石建設はそこに商業施設を建てる計画になっていた。
プロジェクトの発足は2年前。
もちろん平石建設側も色々と事前確認をしたし、書類上何の落ち度もないように見えた。
しかし、実際は詐欺師だった。
「どうして気が付いた?」
遥はどうしてもそれが聞きたいらしい。
「えっと、それは・・・」
4人に見つめられうまい答えが出せない萌夏。
「もしかして、クラブのお客さんだったとか?」
ちょっと馬鹿にしたような雪丸さんの言葉に
「違います」
強く言い返してしまったけれど、当然「じゃあ何で?」とみんなに見られる。
困ったなあ。
このままじゃ話が進まない。
「さあ、わかるように説明してくれ」
萌夏との距離を詰めまっすぐに視線を合わせる遥は、家で見るのとは別人。
どんな小さな嘘も見抜く強い眼差しをしている。
***
「あのお客さんが」
「客じゃない」
遥の突っ込み。
そうでした。詐欺師でした。
「あの男の目つきが怪しくて、人相が悪かったから、気になったんです」
無理を承知で、ごまかすように言葉をつないでみた。
「人相が悪いって」
雪丸さんが眉間にしわを寄せる。
言い訳じみているのは萌夏にもわかっている。実際言い訳だし。でも、まさか男から黒いオーラが見えたとは言えない。
「どうしてそんなに聞くの?被害はなかったんでしょ?」
何かを怪しんでいる雪丸さんと遥に、礼さんが言ってくれる。
「確かに詐欺は未然に防いだ。しかし、このプロジェクトは2年も前から動き出していて、人も物も時間もかけてきたんだ」
そんな単純な話じゃないと遥は苦い表情。
そう言うことか。
詐欺自体は未遂に終わったけれど、会社としてはこのまま終わりにはできないのかもしれない。
「とにかく、高野は今回の顛末を報告書にして提出してくれ」
「はい」
遥の言葉に、声を落とす高野さん。
「礼も、上司の指示を仰がずに社内システムにアクセスして男のことを調べたんだよな?」
「ええ」
「それについての報告書を雪丸に提出してくれ」
「はぁい」
やっぱり不満そう。
「話は以上だ。ああ、萌夏には話があるから残ってくれ」
やっぱりこのまま終わりってことにはならないらしい。
***
「さて、何から聞こうか?」
さっきまで礼さんが座っていた場所に腰を下ろした遥は、ジーッと萌夏を見ている。
「何か隠しているだろう?」
「隠してない」
速攻で答えた萌夏。
ククク。
楽しそうな遥の笑い声。
「人はやましいことがある時に限って早口になる」
「そんなことないよ」
「嘘をつくと目が泳ぐ」
「そんなこと、」
ないと思う。
「必要以上に身振り手振りが増えて、無駄に強がる」
「それは・・・」
「さっきから、萌夏は俺を見ないな」
「・・・」
この人は一体どこまで知っているんだろう。
まさかすべてを知っているとは思えないけれど、何かに気づいているのは確か。
大金持ちのお坊ちゃまは、頭がキレて、洞察力があって、嘘なんてすぐに見抜いてしまうらしい。
でも、それだけではない気がする。
ただ頭がいいとか、勘が働くとか、そういう能力だけではない何かが遥にはある。
「まあいい、嫌がることを無理に聞こうとは思わないから。まずは座れ」
「う、うん」
さっきまで追い詰めるように話していた遥がいきなり引いたことで、萌夏は体の力が抜けソファーに座り込んだ。
きっと遥は、その気になればいくらでも追い込んで嘘なんて白状させられるんだと言いたいんだ。
***
「何が問題だったのかわかっているか?」
ソファーに向き合って座り、しばらくの沈黙の後遥が口を開いた。
それはその、
「礼さんに頼んで調べてもらったから?」
礼さんと遥は親しそうだし、恋人同士だって噂もあるし。
礼さんに迷惑がかかるのが嫌だったのかも。
「そうだな、それもある」
やっぱり、礼さんと遥は
「なぜ俺に言わなかった?」
「え、それは」
はっきりとした確証があったわけではないし、まさか本当に詐欺師だとは思わなかった。
実際、萌夏の能力なんて曖昧なもの。
なんとなくそんな気がするっていうだけで、証拠なんてない。
それに、100パーセント当たるわけでもない。
あの状況ではまだ話せなかった。
「ここ1週間、何か心配事があるのは気づいていたんだ。いつか話してくれるんだろうと待っていた」
「嘘よ」
萌夏だってそこまで単純じゃない。
いつもと変わらないように暮らしていたし、気づかれないように気を付けていたつもりでもある。
「本当だ。ここのところ、萌夏の歯磨きの時間が長くなっていた。呼んでも気づかないことが増えたし、急に笑わなくなったじゃないか」
言われてみればそうかもしれない。
鏡に向かって歯磨きをしながら考え事をする時間が増えたし、ぼーっとすることも多くなった。
でも、それは指摘されなければ自分でも気が付かないくらいの変化。
まさかそんなことに遥が気づくなんて。
「ごめん、気持ち悪いよな」
自虐的に笑って見せる遥。
ちょっとだけ沈んだ遥の声に、萌夏は顔を上げた。
その時、
***
トントン。
次長室のドアがノックされた。
「はい」
抑揚のない遥の声とともにドアが開く。
入ってきたのは雪丸さん。
一瞬萌夏を見て、遥を見て、チラチラと部屋の中に視線を泳がす。
「明日の会議資料ならデスクの上だ」
「はい」
「社長からの電話は折り返すと伝えてくれ」
「はい」
「心配しなくても、30分後には出る」
「はい」
短い会話だけして出て行った。
すごいな、雪丸さんは何も言っていないのに。
「朝の内に会議資料を渡されていたからね、そろそろ取りに来る頃だと思ったし、いつもは右の胸ポケットに携帯を入れている雪丸が持っていなかったからどこかから電話があったんだと思った。そうなれば相手は社長か実家か取引先。取引先なら会社にかけるだろうし、この時間なら社長しかないだろう」
不思議そうにしている萌夏に、遥が種明かしをする。
「ふーん」
瞬時にそんなことを考えていたなんてびっくり。
「それに、雪丸は萌夏を心配して入ってきたんだ」
「え?」
「ここに入ってきたとき、萌夏を見ただろ?」
「うん」
確かに目が合った。
「ああ見えて心配しているんだよ」
今の私は雪丸さんが直属の上司、心配するのもわからなくはない。でも、意外だな。
てっきり嫌われていると思っていたのに。
「雪丸は自分の感情で公私混同するような奴じゃない」
「そうね」
失礼なことを考えてしまった。
ん?
え?
今、私は何も言ってないはず。
「萌夏が何を言いたいのか、表情を見ていればわかるさ」
「それって、すごい能力ね」
ちょっと嫌味を込めてしまった。
言葉にしない感情を見透かされるのは、正直いい気持ちではない。
自分の中にずけずけと踏み込んでこられたような気分。
***
「気分を悪くしたなら、ごめん」
うなだれる遥。
「これも帝王学の一環なの?」
嫌味ではなく萌夏はきいた。
大企業の御曹司はそんな教育も受けるんだろうかと、単なる好奇心。
「俺のこと、聞いたんだな」
遥の顔色が変わった。
ああ、そうだ。
遥が平石財閥の御曹司だと、萌夏は知らない事になっているんだった。
「ごめん、たまたま聞いてしまったの」
「謝ることはない。事実だ」
「うん」
そうだね。
遥はきっと、住む世界の違う人。
今はたまたま同じ家にいるだけだものね。
「なあ萌夏」
ん?
「これからは、何かあったらまず俺に話してくれ。どんな小さなことでも俺に知らせてくれ」
「礼さんに相談したことが、そんなに嫌だった?」
「そうだな。礼より先に知りたかった。そうすればもう少し違う方法で解決できたかもしれない」
違う方法って・・・
「お前が何を根拠にあの男を怪しんだのかは知らない。話したくないなら聞こうとはしない。でも、礼は詐欺師の正体を突き止めて、本部長に報告した。当然詐欺師のことは公となった。それはいいんだ。でも、『なぜ、礼が詐欺師の正体を突き止めたのか?』『そもそもどうして怪しいと思ったのか?』嫌でも憶測を生むことになる」
「私は、礼さんに迷惑をかけることをしたのね」
「そうだな。もう少し穏便な方法で解決したかった」
「ごめん」
「いや、お前が謝ることじゃない。経営側の人間としては、被害を未然に防いでくれたことに礼を言うべきところだ」
遥の辛そうで悔しそうな表情に、萌夏の胸が苦しくなる。
「ごめんなさい」
「うん」
「これからは何でも遥に話すから。本当に」
泣くつもりなんてないのに、萌夏の頬を涙が伝っていく。
「萌夏、怒って悪かった」
いつの間にか隣に座っていた遥にそっと抱きしめられた。
この温もりも匂いも身近な存在。
でも、この心地よさに慣れてはいけない。
今だけの一時的なものだから。
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