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低気圧
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第1話 紙の上では、よく見えない
他人の恋なら、よく見える。
あの二人は、もう時間の問題だ。
あの人は押されると弱いから、もう一度まっすぐ言えばきっと頷く。
あれは喧嘩じゃない。相手に分かってほしくて、言葉を選び損ねただけだ。
事務職員は、他人の恋愛についてなら驚くほどよく気がついた。
相談を受ければ、書類を処理する手を止めずに相手の本音を言い当てる。休憩室では半ば冗談に、恋の見立てだけで相談窓口を開けるのではないかと言われていた。
だから、机の上の一行にいつまでも目を留めている今の自分が、ひどく滑稽に思えた。
人型化準備区域で暮らす、水域由来霊獣の支援計画書。
衣服適応の欄には、飾り紐と背面留め具のみ部分介助、とある。その横の担当者欄に、恋人である介助職員の名があった。
何もおかしくない。
対象の霊獣は、人の姿を取れば誰もが振り返るほど美しい。長い髪は水面のようにきらめき、笑う時には、相手が自分だけを見ていると錯覚させる目をする。
そして彼は、介助職員によく懐いていた。
それも、何もおかしくない。
恋人は介助職員として優秀だった。自分でできることは本人に任せ、必要なところにだけ手を貸す。甘えを無下にはしないが、支援の線は越えない。
だから信頼される。だから好かれる。
誇らしいと思う気持ちは、本物だった。
担当者欄を指先で隠したくなる気持ちも、同じくらい本物だった。
「何、浮かねぇ顔してんだよ」
机の向こうから声がして、事務職員は反射的に計画書を伏せた。
いつの間に入ってきたのか、ハイエナ由来の霊獣が来客用の椅子へ逆向きに座っている。背もたれに腕を預け、獲物の動きを測るような目でこちらを見ていた。
「……君、またサボりかい?」
「休憩だ」
「さっきも聞いたよ、それ」
「じゃあ二回目の休憩」
「準備区域の時間割に、そんなものはなかったと思うけど」
追い返そうとしても、彼は動かなかった。
むしろ身を乗り出し、伏せた書類と事務職員の顔を交互に見る。
「また、あいつの名前でも見つけたか」
胸の奥を指で押されたようだった。
「何の話かな」
「顔に書いてある」
「君は字が読めるようになったばかりだろう」
「お前の顔は前から読める」
あまりに迷いなく言うので、事務職員は一瞬、返す言葉を失った。
ハイエナはそれを見て、わずかに口角を上げた。
「俺なら、そんな顔させねぇけどな」
「……それ、口説いてるつもり?」
「今さら気づいたのかよ」
「利用者から職員への私的な求愛は、記録に残した方がいいかな」
「好きにしろよ。俺がお前を気に入ってることも書いとけ」
冗談にしては、目が笑っていなかった。
事務職員は視線を外し、書類を揃え直した。
「残念だけど、俺には恋人がいる」
「知ってる」
「知っていて言うんだね」
「知ってるから言ってんだよ」
ハイエナの視線が、伏せた計画書へ落ちる。
「そいつといる時のお前、最近ずっとそんな顔してるからな」
「見たこともないくせに」
「見なくても分かる」
他人の恋なら、よく見える。
そう思っていたのは自分だけではなかったらしい。
「おい、お前。またここでサボってたか」
開いた扉の向こうに、介助職員が立っていた。
事務職員の胸が、少しだけ軽くなる。けれど同時に、机の計画書を見られたくないと思った。
介助職員は室内を見回し、逆向きに椅子へ座るハイエナを見つけると眉を寄せた。
「歩行訓練の振り返り、まだ終わってないだろ」
「後でやる」
「その後でを三回聞いた。戻るぞ」
「今、こいつと大事な話してんだよ」
「勤務中の職員を困らせるのは大事な話じゃない」
介助職員は背もたれを掴み、椅子ごと半回転させた。
ハイエナの耳がぴくりと動く。だが抵抗したのは一瞬だけで、立ち上がると、ひどく面倒そうな顔で扉へ向かった。
「じゃあな」
事務職員へ投げた声だけが、不自然なほど柔らかかった。
「二度目の休憩はないからな」
「分かったよ。うるせぇな」
二人が並んで廊下を行く。
介助職員は振り返り、事務職員へ小さく手を上げた。いつもと同じ、気負いのない笑顔だった。
事務職員も笑って手を振った。
扉が閉じたあと、その笑顔が消えた。
伏せた計画書を、もう一度表へ返す。
担当者欄の名前は、やはりそこにあった。
*
事務職員が入れない準備区域の奥では、衣服適応の訓練が続いていた。
水域由来の霊獣は、薄い上衣の前を自分で留め終えると、得意そうに両手を広げた。
「できた」
「うん。前は全部、自分でできるようになったな」
「後ろも、ほんとはできるよ」
彼は長い髪を片側へ寄せ、背を向けた。
背面には細い飾り紐が一本だけ残っている。
「でも、君にやってもらう方が好き」
甘えるような声にも、介助職員の手順は変わらなかった。
「今日はそこが支援項目だから手伝う。次は自分で結べる形も試そう」
「真面目だね」
「仕事だからな」
髪に触れないよう片手でよけ、紐だけを素早く結ぶ。必要が終われば、すぐに一歩離れた。
水域由来の霊獣は振り返り、楽しそうに笑う。
「君のそういうところも、好き」
「はいはい。次は外套な」
少し離れた壁際で、そのやり取りを見ていたハイエナの尾が、床を一度だけ強く打った。
「…………チッ」
コメント
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みぅです🤍🥀 第36話、読み終わりました…… 「他人の恋なら、よく見える」ってタイトルが、もう切ない伏線みたいで。 自分の恋になると、見えなくなるどころか、見たくないものまで見えてしまうんだなって思いました。 ハイエナくんの「そんな顔させねぇけどな」、すごく刺さりました。 本気なのか冗談なのか分からないまま、でも確かに事務職員のことをちゃんと見てるんだなって。 そして最後の「チッ」……あの一音に、全部詰まってる気がしました。 次が気になります……