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朝、教室の席に着くと、違和感が一つあった。
……
西園寺がいない。
いつも早めに来て、窓辺でぼんやりしているあの姿が、今日はなかった。
私は教室の空気に耳を澄ませる。
ざわざわとした声。誰かが言った。
「え? 西園寺って……今日、来てた?」
誰も知らない。誰も気づいていない。
西園寺が“いなかった”ことすら、誰の意識にも上がってこない。
(……あれ?)
胸の奥が、不気味にざらついた。
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昼休み。校舎裏。
スマホに届いた1通のメッセージ。
《きみ、ずっと“自分が観察してる側”だと思ってたよね》
差出人は表示されていない。
履歴にも残っていない。
(なにこれ……どうやって送ってきたの?)
返信もできない。画面は、すぐにブラックアウトした。
(気持ち悪い……)
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放課後。帰り支度をしていると、椎名先生が教室に入ってきた。
「片倉さん、ちょっといいかな?」
私は心臓の奥が小さく跳ねるのを感じた。
先生は、誰もいなくなった教室で、静かに問いかけてきた。
「君って……どうしてそんなに“何も言わなくても伝わる”んだろうね。
まるでクラスの空気が、君の機嫌で動いてるように見えることがある」
私は目を伏せた。
「そんなつもりはありません」
「うん。だろうね。でも――昔にもいたんだ、そういう子。
何も言わず、何もしないのに、周りが勝手に空気を読んで動く子。
でもね、空気って、不思議なもので……
一度変わり始めたら、誰にも止められないんだよ」
(……この人、どこまで見てるの?)
「気をつけなさい、片倉さん。
空気を読ませるってことは、同時に、自分が空気に飲まれる準備をしてるってことなんだ」
それだけ言って、椎名は去っていった。
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(何それ……)
教室にひとり残された私は、椎名の背中を見送って、ゆっくりとため息を吐く。
(あんた、こないだまで崩壊寸前だったじゃない)
(誰かに疑われただけで、視線を怖がって、
正義がねじれていく寸前だったくせに――何その“先生面”)
言葉にしないけれど、胸の奥に鈍い苛立ちが芽生えていた。
(……気持ち悪い)
正義にすがる大人の顔が、今は妙に滑稽に見えた。
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その後すぐ、西園寺が現れた。
教室のドアを軽くノックし、何事もなかったように微笑んだ。
「結惟ちゃん。ちょっとだけ、話そうか」
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屋上。風が強かった。
フェンス越しに遠くを見ながら、西園寺はぽつりと言った。
「感情を殺すって、すごいことだと思う」
「……急に何の話?」
「僕ね、ずっと思ってた。
“人はどうして感情に振り回されるのか”って。
それを切り捨てられる人って、もう人間じゃないのかもなって」
私は無言だった。
でも、なぜか足が少し震えていた。
西園寺は笑った。
「でもさ……感情って、殺したふりをしても、
ずっとそこにあるんだよ。
押し込めて、無視して、他人のせいにして……
でも、最後には、必ず“自分”に戻ってくる」
(うるさい。あんたに、何がわかる)
「君は、それが始まってる。気づいてないだけ」
「“誰にも支配されない存在”になったはずなのに――今、一番空気に支配されてるのは君だよ」
私は言った。
「……それが、言いたいこと?」
「違うよ」
西園寺は、こちらを振り返らずに言った。
「“君が地に堕ちる瞬間”、僕が見届けるってことさ」
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(なに、今の……)
階段を降りながら、背中に汗が張りついていた。
怒りか、恐怖か、羞恥か。
わからない。けれど、確かに何かが“芽生えた”。
(私……今、初めて“感情”に触れた?)
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夜。
夢の中で、私は誰にも呼ばれず、誰にも見られず、
ただ一人、真っ白な教室に立ち尽くしていた。
《空気は、きみを選ばなかった》
その文字だけが、黒板に浮かんでいた。