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春、啓蟄(けいちつ)を過ぎた令和三年の三月は、例年に比べても早い花々の饗宴を、繰り返される非常事態の大きな声を聞きながら迎えていた。
気温は朝夕の冷え込みを除けば、連日四月並み、五月上旬並みの最高気温記録を叩き出し続け、なぁこれって地軸でもずれてんじゃね? と言った、市井(しせい)の予測も騒がしい事甚だしかった。
とは言え、空にはまだまだ不慣れな鶯(うぐいす)の若鳥(雄)が不器用にケキョケキョ囀り(さえずり)、草原(大茶園)のそこかしこから、未来の歌姫、雲雀(ひばり)の雛達の控えめな歌声が聞く者の耳を楽しませてもいたのだ。
つまり、この時点では、世界はいまだ決定的な破綻を迎えては居なかったのである、ギリでね。
そんな麗(うら)らかな春の吉日、コユキは色|艶《あで》やかな振袖を身に纏(まと)い、県庁所在地の由緒あるご飯屋さんで、そこそこイケてる男性を前に緊張の面持ちを浮かべているのであった。
コユキとは、本編の主役、齢(よわい)四十になった肥満体に無職のコドオバ、所謂(いわゆる)ニートってやつである。
おっと、又もや、自己紹介が遅れてしまったが、私は『観察者』。
本編の主人公、茶糖(サトウ)コユキと幸福(コウフク)善悪(ヨシオ)の孫であり、この物語を皆さんと一緒にワクワクやドキドキを共有する存在である。
起きる出来事を皆さんと共に観察し、時に経験を共有するのが私、『観察者』である。
さて? コユキは一体何をしているのであろうか?
まずは会話を聞く事に集中し、この状況の確認に徹するとしようかな、えっと、どれどれ……
「では、コユキさんはインドア派なんですね! 良かったぁ! 僕もそうなんですよっ!」
カッコ――――ン!
鹿威し(ししおどし)の軽やかな音色が彼の質問を一旦区切り、その間にコユキは口中に含んだ会席料理、今回は薄味の上品な焚き合わせを飲み込む事に成功したのであった。
先程話が一段楽した所で、会食が始まってから初めてマスクを外し、漸く(ようやく)食べ物にありつけたというのに、またもや話し掛けられてしまっては再度マスク装着しなければならない。
慌てて特大マスクを装備しながらコユキは思った。
――――ほう、美味いな…… 善悪ほどのパンチは無いが、いや、然し(しかし)…… 確かな伝統に裏打ちされた確固たる自信、そんな味わいを感じさせる逸品、それを、それだけを伝えようと言う気概、を感じる味ね、やるわね♪ しかし…… 又お預けか……
「どうですかコユキさん? 今度一緒にコンサートとか行きませんか?」
誰だっけコイツ? あ、ああ、そうか、お見合い相手のそこそこ可愛いナガチカ劣化版だったわね、そんな失礼な評価を下す、イベリコ豚劣化版の我が祖母コユキであった。
「コンサートか? む、まぁ行っても良いけどねー、ってかパフォーマーの方が家に来てくれれば楽なんだけど、やっぱダメよね?」
一応聞いてみるコユキ、立派だ。
「あははは、本当にコユキさんは愉快な人だなぁ~! 僕益々気に入っちゃったよ!」
お前が気に入ったかどうかは関係無い! 何上から物申してんだよ!
これがコユキの偽らざる本心であった。
そんな事より!
コユキは慌しくマスクを外し、素早くズワイガニの握りを口に放り込んで独特の甘みと風味を楽しんでいたのだが……
「コユキさんは――――」
またもや話し掛けられてしまい、再びバタバタとマスクを装着し始めるコユキに、対面の男性は本日何度目かの説明を重ねた。
「いや、コユキさん、今日は貸し切りにしていますし、こうやってアクリルパーテーションもあるんで、そんなに心配しなくても大丈夫ですってば」
言いながら可愛らしい笑顔でコンコンとコユキとの中間に置かれたクリアボードを指の背で小突いた。
コユキはその言葉に一切構わず、マスクを確り(しっかり)と装着完了させてから男性に対して言葉を返した。
「んでも、テレビで言ってたわよ! 勝手に判断しないで一人一人の取り組みがこれからの運命を決めるって! マスク会食推奨してんのよ、知らないの?」
「いいえ、そこは父も僕も医師ですから良く分かってますよ、あはは、真面目なんですねコユキさんは! ねえ父さん、そう思いませんか?」
会話の相手が自分から反れた瞬間、コユキはマスクを引き千切る勢いで外し、猛スピードで目の前の料理を飲み込んでいった。
もう味とか風味とか台無しで有ったが、これ以上の焦らしプレイに耐えられるほど太っちょコユキはクレバーではなかったのだ。