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暗闇の中で、私は必死に空気を求めて喘いでいた。
肺が引き絞られるように痛み、喉がヒュッと鳴る。
視界がチカチカと火花を散らし、意識が遠のいていく。
過去の忌まわしい記憶、あの冷たい目や言葉、逃げ場のない絶望に飲み込まれ、自分が今どこにいるのかさえ分からなくなっていた。
その時──。
「落ち着け、アネット。俺だ、レオナルドだ」
「…っ、……?」
「……息を吐くんだ。ゆっくりでいい」
暗闇を切り裂くような、深く力強い声。
それと同時に、大きな、温かい手が私の背中に触れた。
いつもなら、反射的に怯えて身を竦めてしまうはずのその手の重み
けれど、今の私にとっては、荒れ狂う嵐の海の中で自分を現実へと繋ぎ止めてくれる唯一の錨のように感じられた。
「……っ、ふ、ううっ……っ」
背中をゆっくりと、一定のリズムでさすってくれる大きな手の温もり。
慈しむようなその動きに、張り詰めていた何かが音を立てて崩れ去った。
私は耐えきれなくなって、彼の胸に縋りついた。
言葉を紡ぐことも、上手く息継ぎをすることもできないまま、ただ彼のシャツを指が白くなるほど強く握りしめた。
喉を詰まらせ、しゃくり上げ、子供のように泣き続ける私。
レオナルド様は、私が落ち着くまで何も聞かず、ただ大きな盾のように私を包み込んでいてくれた。
彼の胸板から伝わる規則正しい鼓動が、私の震えを少しずつ鎮めていく。
◆◇◆◇
翌朝───…
私は鉛を飲んだような重い足取りで食堂へ向かった。
昨夜、あんなに取り乱して彼に縋りついてしまった。
没落しかけたとはいえ伯爵家の令嬢として、そして何より彼の妻として、あまりに醜い姿を見せてしまった。
彼の高価な寝着を涙と鼻水で汚してしまったことも、思い出すだけで顔から火が出そうだった。
「……レオナルド様。昨夜は、その、大変…ご迷惑をおかけしてしまって…申し訳ありませんでした」
食卓についたものの、顔を上げることさえできない。
消え入るような声で謝る私に、出勤前のレオナルド様は椅子を引く音をさせて静かに歩み寄ってきた。
また昨夜のように触れられるのかと思い、無意識に肩に力が入る。
けれど、彼は私の少し手前でピタリと立ち止まった。
その気遣いに気づいて、さらに胸が痛む。
「謝る必要はない。……何があったのかも、無理に聞くつもりはない。だが、辛くなったらいつでも俺が胸を貸す。君が望むなら、いつでも頼ってくれ」
静かで、どこまでも穏やかな声。
それだけ言うと、彼は私の頭を軽く撫でようとして……
けれど途中で何かを躊躇うように、僅かに震えて手を止めた。
結局、触れることなくそのまま優しく微笑んで、彼は仕事へと向かっていった。
(……どうして、そんなに優しいんですか…っ)
遠ざかる彼の靴音を聞きながら、私は唇を噛み締めた。
彼の優しさに触れるたび、胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。
彼は不器用ながらも、必死に私に歩み寄ろうとしてくれている。
それなのに、私は。
それから数日後───
トラウマに苛まれながら相談もできずに生活していた廊下で、不意に彼と鉢合わせることがあった。
「アネット、ちょうどよかった。これを──」
レオナルド様が、私の名前を呼びながら懐から何かを取り出そうと手を伸ばした、その瞬間。
「びくっ」と、全身が強張る音がするほど、私は肩を跳ねさせてしまった。
彼の指先が、まだ数センチも離れているというのに。
私の身体は、心とは裏腹に、暴力的なまでの拒絶反応を示してしまった。
「……やはり、怖いか」
レオナルド様の顔から、ふっと表情が消えた。
怒っているのではない。
傷ついたというよりも、何かを諦めたような、痛々しいほどに静かな表情。
差し出されたままの手が、力なく下ろされる。
「違っ……違うんです、レオナルド様! 私はただ──」
言い訳をしようとしても、喉が固まって声が出ない。
違う、貴方が怖いんじゃない。
けれど、かつて男の人たちに囲まれて嘲笑われた時の、あの逃げ場を失った「囲まれる恐怖」が、反射的に私の身体を支配してしまうのだ。
その日以来、私は彼を避けるようになってしまった。
食堂で彼の足音が聞こえれば、心臓が痛くなり、逃げるように自室に戻る。
彼が庭を歩いているのが見えれば、見つかってしまうのが怖くて、慌てて窓のカーテンを閉める。
彼を嫌いなわけじゃない。
むしろ、知れば知るほど、その真っ直ぐな誠実さに惹かれ、大好きになり始めている。
けれど、怯えてしまう醜い自分を彼に見せるのが、何よりも申し訳なくて。
優しすぎる彼を、私のこの「壊れた反応」で何度も何度も傷つけてしまうことが、刃物で自分の心を削り取るよりも辛かった。
(私は、なんて最低な妻なんだろう……)
部屋に閉じこもり、一人で膝を抱えながら、私は出口のない罪悪感の海に深く沈んでいった。