静かに本を捲る音、飲み物を口にする音、時々感心する声や吐息があったが、基本読書のしやすい落ち着いた空間は、心を波立たせなかった。
作品も少女向けというだけあって、そこまでシビアというか、具体的な残酷描写が削られていたのだ。
想像力をかき立てようという狙いなのかもしれない。
「そういえば、この世界。性的描写や残忍な描写への制限はあるのかしら?」
「書く方にはないのぅ」
「読む方には、一応あるのです。特に良識のある本屋では、置く本を選ぶようですね」
「今、自分たちが読んでいる類いの作品では、心理描写に力が入っており、指南書などでは事細かに、実践的な描写が多く書かれているようです」
では、今ここにある本が良質な作品ばかりなのは、本屋がきちんと管理しているからなのだろう。
「お待たせいたしました! 天使族の忌み子が五冊、リス族三冊、兎人族五冊、人魚族二冊、シルキー五冊。ブラックオウル、ユニコーン、バイコーンがそれぞれ一冊ずつになります。ハッピーエンドでなければ、もしくは主人公でないけれど活躍する作品であれば、まだございますので、ご入り用の際はお申しつけくださいませ」
リーゼルが息を切らしながら個室へ入ってくる。
ワゴンには本が落ちないようにバランスよく積まれていた。
フェリシアの肩を伝ってネイがワゴンの上へと飛び乗る。
「……『漆黒は恋愛がお嫌い』、『忌み子が愛される理由』、『甘いだけのケーキ』、『発情なんてしてないもん!』、『痛いのが好きとか言えない』、『滅私奉公録』はお勧めしないのです」
「随分あるのね? ハッピーエンドなんでしょう、一応」
「きちんとしたハッピーエンドでございます……どういった問題があるのか、お聞かせ願えますか?」
ネイの手によって弾かれた作品は、リーゼルにとってお勧めだったのだろう。
客を見つめる目ではなくなっている。
「読んだら、御主人様が悲しいお気持ちになられる、それだけです」
「ああ、そういった問題でございますか。大変失礼いたしました。いたらずに、申し訳ございません」
「いいえ。私もいきなり、すみませんでした。最後がハッピーエンドでも、そこにいたるまでの大変なあれこれが、御主人様を悲しませてしまう描写になっているのです」
「ネイの判断に従うわ。いろいろと選んでくださったのに、ごめんなさいね? あ! 私が読まないとすると、大丈夫な作品はあるかしら?」
「御主人様が読まないのであれば、全部、借りていいと思います」
買うまでにいたらないのは、私が読まないからかな?
「では、ネイの言った本以外は、購入したいの。在庫は大丈夫かしら?」
「はい。全て五冊以上はございます」
「では、二冊ずつ購入します。借りる本は……一冊ずつでいいかしら?」
「大丈夫じゃろ。仲良く順番に譲り合って読むじゃろうからのぅ」
「貸出期間はどれぐらいかしら?」
「お好みのままにお決めくださいませ。最愛の御方様には、水晶ランクの会員様とさせていただきたくお願い申し上げます」
リーゼルが、一目でわかる料金表! という一枚の紙を渡してくれた。
ギルドカードと同じランクづけのようだ。
木だと一冊しか借りられず、期間も三日までとなっている。
鉛になれば、三冊までで、期間は一週間。
鉄は、五冊までで、期間は一か月。
銅は、十冊までで、期間は三ヶ月。
銀は、何冊でも借りられるが、期間は三ヶ月。
金は、何冊でも借りられて、期間は一年。
ここまで全て前払い。
一冊に付き、一律一ギル。
注意事項として、本を紛失又は破損させた場合は、販売価格に当たる十ギルを支払ってもらうと書かれていた。
水晶は、何冊でも借りられて、期間も無期限。
更に後払いが可能らしい。
例外的な特別待遇だ。
「ランクって、お店側が決めるのかしら」
「はい。たかが本、それも少女向けの読み物と侮る方も少なくありません。よってこちらから制限をかけさせていただいております。当店の規定に納得できない方には、永遠に貸さない売らない方針を、有り難いことに王族より許可をいただきました」
うんうん。
良質な本は守られてしかるべきだよね。
許可したのが王族だと聞き、仕事ができる王族もいたのだなぁ、と少しだけ王族を見直した。
「では、有り難く水晶ランクの会員にならせていただきます。代金は全て前払いでお支払いさせていただきますね。借りた本もたくさんの方に読んでいただきたいから、なるべく早く返却するように努めます」
「! お客様が最愛様のような方ばかりでございましたら、全てのお客様に水晶ランクになっていただきたいのですが……」
「ほほほ。皆が我が主のように、寛容ではあるまい。気苦労が多いことには同情するがのぅ」
彩絲の労いにリーゼルが、くしゃりと顔を歪める。
何か嫌なことでも思い出したのだろうか。
「……現在水晶ランクは最愛様だけでございます。そのことで御迷惑をおかけする場合が絶対にないとは申し上げられないのですが、その点、お許しいただけますでしょうか?」
「もしかして、高位の者から難癖をつけられておるのかぇ?」
「はい。寵姫様と最愛の御方様とは別の、最愛の称号をお持ちの方に……」
寵姫はいいだろう。
既に彼女は寵姫ではないはずだ。
この店にはまだ情報が降りてこないのだろうか。
こちらの本が寵愛を失った者の、唯一の憂さ晴らしにされてしまったのかもしれない。
宝石の購入は許されずとも、本の購入は許される気もする。
「私とは別の称号持ちの方はさて置きまして。寵姫は、寵姫でなくなったと伺っていますよ?」
「御本人様は未だ、寵姫という矜持に縋っておられまして……以前より特別扱いを執拗に申しつけられていたのですが、今は、その……お金を払いたくないので、そのように扱えと再三……連絡がくるのでございます」
「随分と恥ずかしい寵姫なのだな」
「物語の中にしか、いてほしくない、寵姫です」
「ふぅむ。主よ、バロー殿にこの店の現状を伝えても、いいのではないかのぅ」
未だ落ち着かない王宮で身を尽くすリゼットに、あまりお願いするのもどうかと思うのだが。
ちょうどお茶会もあることだし、窮状を教えるくらいは許されるかもしれない。
近く正妃になるだろう公爵令嬢も、この店を気に入っていそうだし。
「数日後のお茶会に、王の乳母殿をお迎えする予定なの。そのときに、元寵姫の愚行を伝えておきますね」
「あ! ありがとうございます!」
「本好きとしては、良い本屋さんを大切にしないと駄目だと思いますから……それでは、会計をお願いできるかしら?」
「はい! お買い上げいただく本は一冊十ギル、貸し出しの本は一冊一ギルになりますので……お買い上げが二十二冊、貸し出しは六冊になりますので、二百二十六ギル頂戴いたします」
買うとなると高級ドレス一枚と本一冊が同じ値段になる。
貸本屋が一般的なのを、身を以て実感できる値段設定だ。
私は銅貨二枚、鉄貨二枚、鉛貨六枚を支払う。
「たくさんの素敵な本に出会えて、本好きとして嬉しい限りだわ。また私や当家の者が伺うと思いますけれど、そのときはよろしくお願いいたしますね」
「一同心よりお待ち申し上げております……そういえば、御方様。これからまだ貸本屋を巡られますか?」
「ええ。あと一軒。『冒険は語るな。漢なら篤と挑め!』に行く予定なの」
「……現在あの店は経営方針で揉めております。当店同様誇りを持って営業している店ではございますが……その点お心に止めておいていただければと思います」
「ありがとう。行ってみて問題があるようなら、また別の機会にするわね」
「はい。お聞き届けいただきまして、ありがとうございました」
屋敷から出る度に、何かしらの問題に遭遇するが、今回程度であればいいのになぁ、とこっそり思う。
それはフラグですよ、麻莉彩。
喬人さんの囁きこそがフラグではないかしら?
聞こえてきた夫の声には、思わず反射的な突っ込みを入れてしまった。
本屋街と表現されているだろう通りを、馬車で移動する。
外からは、どんな高貴な方が乗っているのかなぁ? と推測する声が多く届いた。
「経営方針について揉めているという話だったけれど……」
「うむ。主が先ほど懸念しておった、性描写が多い作品の取り扱いについて、じゃのぅ」
「とある高貴な身分であられるが、頭の中身が下品な嫡男様とやらが、性描写が多い作品を取り扱うべきだと、豪語した……と聞き及んでおります」
「嫡男様は十歳ですが、既に、愛妾が十人以上おられる、とか……」
「それは貴族社会において、普通のことなのかしら?」
思わずこめかみを揉んでしまった。
私の感覚では非常識だが、あり得ない話でもないと思えたからだ。
「真っ当な貴族ならあり得ぬのぅ。あくまでも高位貴族の義務は、優秀な子を多く残すこと、じゃからな。無能などいても、ただの金食い虫に過ぎぬ」
「……つまりは、親も同類なのね」
「うむ。王家が落ち着けば、粛清対象の筆頭に上げられよう。平民は疎か貴族にすら被害が出ておるようじゃからのぅ」
しみじみと寵姫の罪深さを考えさせられる。
彼女はどんな最期を迎えるのだろう。
魅了の自覚がない以上、反省もできないともあれば、極刑の可能性もありそうだ。
死は解放でもあるので、個人的には何かしらの労働刑を推奨したい。
『到着いたしましたが、主様。どうにも不穏な気配が漂ってございます』
馬車が止まるもホークアイが、如何にも問題が起こっていそうな忠告をくれた。
「では、手前が見てまいりましょう」
休日の騎士服……といった装いのフェリシアが、馬車からひらりと飛び降りて、店の中へと入っていく。
「フェリシア一人で大丈夫かしら?」
「店の者だけならば問題ないのじゃが……」
「鼻が曲がりそうな香水が、店の中に、充満しています。趣味の悪い、地位だけは高い屑が、訪れているのかと」
「! それならフェリシアが危ないわ。行きましょう!」
「主っ!」
彩絲の止める手からすり抜けて、滑るように馬車から降りた。
肩にネイが飛び乗ってくる。
反対側の肩には小さな蜘蛛が乗ってきた。
彩絲は蜘蛛形態を取ったようだ。
何か考えがあるのだろう。
ホークアイの頭を一撫でしてから店内へと足を踏み入れる。
門番はいなかった。
入り口は森系ダンジョンの洞窟といった印象。
踏み入れた店内も、そんな雰囲気で統一されていた。
ただダンジョン洞窟にありがちな、じっとりとした湿気は感じられない。
本に最適な湿度が保たれている。
洞窟特有の黴臭さも、森林の濃厚な緑の香りも感じられない。
ただ手入れがきちんと行き届いた古本と、新刊独特の香りが漂っていた。
何人かいた店員は呆けたように私を見つめている。
下卑た色はない。
ただ、綺麗なものを見た、そんな憧れめいた瞳ばかりの中を、私は進んでいく。
男性ばかりだったが、店員の質は悪くなさそうだ。
「ふむ。俺様の妾に加えてやろう! さぁ、跪け!」
聞こえてきた傲慢な声に眉を顰める。
私の怒りを感じたのか、彩絲が子蜘蛛たちを素早く放ったようだ。
いざとなったら即座に拘束する心積もりなのだろう。
「フェリシア」
「御主人様! お下がりくださいませ!」
フェリシアは得物を出そうとしている。
彼女にしか使えない、美しき漆黒のハルバードは、愚か者を容易く断罪するだろう。
ただ私は、フェリシアの手による美しい断罪は、愚者に相応しくないと思うのだ。
「御主人様だと? む? むむむむ! ふむ。貴様も美しいな! 俺様の妾に……」
こーん!
小気味よい音とともに、愚者が昏倒する。
無礼な言葉に反応したのはネイ。
可愛らしいサイズのソードブレイカーで、殺さぬよう手加減を加えて愚者を床に寝かしつけてしまった。
もしかするとソードブレイカーが持つ、睡眠効果が発動したのかもしれない。
愚者を見下ろすネイの鼻息はなかなかに荒かったので、手加減の可能性が高そうだ。
「うむ。よい動きじゃったぞ」
一瞬で人型に変化した彩絲が、ネイの頭を撫でる。
ネイは可愛らしく頬を染めた。
彩絲が蜘蛛型でいたのは、どうやら愚者対策だったようだ。
彩絲のような美女がいれば、愚者の暴走は更に酷くなってしまっただろう。
「最愛の御方様! 数々の御無礼、伏してお詫び申し上げます!」
普段はきちんと手入れがなされているだろう髪の毛や服装が乱れているのは、愚者を必死に止めようとした結果に違いない。
その証拠にフェリシアが渾身の謝罪をする男性を見つめる目は優しかった。
夫からの制止もない。
「顔を上げてください。貴方を許します」
一番悪いのは愚者だと重々承知の上で、謝罪はきちんと受け取っておく。
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