ベッドの上で苦しみ抜いた10日間だった。
ようやく熱がさがり、勇太はかろうじて起き上がった。
這うようにリビングルームを通り、バスルームへと向かった。
鏡の前に立つと体は骨が浮かびあがるほど痩せていた。顔は目玉がこぼれ落ちそうほどげっそりとしていた。
以前の柔らかい印象はなくなり、これまで耐え抜いた苦痛の日々が鋭い目つきに反映されていた。
何か食べなければならなかった。
しかし別荘にもう食糧は残っていない。
勇太は簡単な変装をし、車に乗り込んだ。
別荘から町へと連なる山道は、今の勇太にとってあまりにも危険だった。
意識が朦朧としていて、体は小刻みに震えていた。それでも食べものを得るためには、ここを通らないわけにはいかなかった。
狭い道が連続して続き、何度か車をぶつかりそうになったが、どうにか山道を降り小さなスーパーを訪れた。
車を停めて店内に入ると、店主は勇太に視線を送ることなくテレビを見ていた。
報道番組だった。
『吾妻グループ』という文字が、画面の右上に見えた。
静岡県のとある断崖絶壁にて、吾妻グループ副会長である吾妻勇太の遺体が発見されたというニュースだった。
……まずい。
あの日、月を求めて空を走った勇太。
母体である勇太の死体が世間に露呈してしまったのだ。
店主がテレビから目を離し、勇太のほうを向いた。
はっきりと目が合ったのだが、店主は勇太を一瞥してはまたテレビへと視線を戻した。
それもそのはず。誰も彼を吾妻グループの総裁・吾妻勇太だと思うはずはない。
痩せた顔、伸びた髭と髪、ぎょろりと飛び出た目玉。
包帯が頬と耳を中心に、顔を覆い隠している。
そして何よりも、吾妻勇太の死がニュースで流れているのだから。
勇太は安堵のため息をついて、適当な食糧品を購入した。
店を出て車に乗り込んでは、運転席でパンを一口かじった。
久しぶりの食事だ。急いで飲み込んではいけない。水を含み、パンを口内でペースト状になるまで溶かしてからゆっくりと飲み込む。それを3回ほど繰り返してから、エンジンをつけて再び別荘への道を戻っていく。
生気を取り戻すには相当な時間が必要だった。それでもパンを飲み込むと、少しだが食欲というものがよみがえってきた。
食べ物を求めることは、生きようとする意志の表れであった。
それは勇太自身にとって喜ばしい事実だった。
――俺は過去を乗り越え、回復へと進みはじめている。
ある程度進んでから車を停め、パンを喉に通してからまた車を発車させた。
別荘に戻ると、再び現実が目の前に広がった。
倒れたテーブルと粉々になったシャンデリアと酒瓶。そして拳銃。
リビングルームは地獄絵図のように、惨状を記録したままだ。
悪夢から抜け出すには、この部屋を原状回復させなければならなかった。そのためにはまず体力を取り戻す必要があった。
勇太はキッチンでお湯を沸かし、戦場のようなリビングルームで粥を摂った。
腹が満たされると服を脱ぎ、10日ぶりに風呂に入った。まだ死臭が漂うバスルームで体を洗い、風呂を終えるとベッドに横になって眠りについた。
そうしてさらに3日を過ごすと、体が活力を取り戻しはじめた。
体の回復は、属性の回復でもあった。
勇太の頭を徐々に占領していくのは、忠誠心からくる責任感だった。
会社は今頃どうなっているだろうか。
久しぶりにパソコンの電源を入れ、積もり積もった業務の確認をはじめた。
あまりに多くの情報が一気に押し寄せ、頭痛を引き起こした。
鎮痛剤を飲んで少し休んでから、失われた時間を取り戻すためにまたデスクに座った。
大量に溜まった未読メールを読めど、パソコンから知れる情報はたかが知れている。
会社は生き物であり、直接その空気感をたしかめなければ、正確な状況を把握できるはずはない。
はやく会社に戻らなければ……。
このままでは弟の勇信によって、副会長職が剥奪されてしまうだろう。
「まだ弟に吾妻グループをやるわけにはいかない。トップは俺でなければならないんだ。俺でなければ。数多くの勇太の中で、最後に残ったのがこの俺。多くの屍の上に立つ、もっとも優秀な吾妻勇太が、この俺なんだ」
業務を確認し、残った時間はリビングの掃除に費やした。
同時に火葬車をどう廃棄すべきかを調査した。
また暇を見つけてはバスルームに薬剤をまいて、こびりついた死臭を少しずつ消した。
すべての活動が、体力を回復させるためのちょうどいい運動にもなった。
これまでいつも誰かが身の回りの世話をしてきた。
しかし勇太が増えてからは、何もかもを自分でまかなってきた。
ここには誰にも見られてはならないものが大量にある。
勇太はただ黙々とやるべきことを処理した。頭の中で常に吾妻グループのことを考えながら。
グループへの忠誠心が、思考の基盤となっていた。
もともとの勇太とは、違った考え方で物事を組み立てているのを自覚している。その上で自分なりにグループをどう発展させるかを絶えず考えた。
「今までの方針は間違っていた。俺はあまりにも寛大であり、また公平だった。それはグループの未来を守るに当たって、危険な芽を育てる行為に等しかったのだ」
吾妻グループが目覚ましい発展を果たせなかった理由……。
時価総額、国内10位圏内でずっと留まり続けた理由。
寛大と公平が足かせとなっていた。
公平さは怠惰を招くだけだ。
公平や平等を掲げた国家制度がどのような歴史を歩んできたか、全人類が知るところだ。
人間は安定するほどに努力をしなくなる。
そして公平は、努力を根こそぎ奪いとる。
目の前で凄惨な死を見た。
多くの勇太を殺して最後に残された俺だからこそ、弱肉強食の論理が残った。
そう……。
懸命に生きる者たちを救おう。
努力する者たちが輝ける環境を整えなければならない。
生きたいなら、死ぬほど努力しろ。
努力した者には、未来を与えよう。
それがこれからの、吾妻グループの歩み。
弱肉強食……。
情熱主義……。
パッショニズム。
ふふふふふ。
勇太は生まれ変わったような気分だった。
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