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輝馬に遅れて晴子が風呂からちょうど上がったタイミングで達彦が帰ってきた。


「輝馬。いたのか」

彼はそう言うと、まるでゴミでも見るような視線を送り、そのまま寝室へと入っていってしまった。


(――あれが父親かよ……)

輝馬が目を細めると、


「お腹すいてない?もし何か食べたかったら、お父さんのご飯を温めるついでに何か作るけど?」

パジャマの胸元を明らかに大きく開けた母が、ノーブラの乳首を浮き上がらせながらこちらを見上げる。


(――そしてこれが母親……)

輝馬はこみ上げてきた絶望と吐き気をこらえつつ、自分と凌空の部屋のドアノブを掴んだ。


「大丈夫。疲れたからもう寝るよ」


「あら、そう?」


晴子がまだ何か言いたそうだったが、輝馬は後ろ手にドアを閉めた。




(……限っ界だ!)

濡れた頭を抱える。


しかし弁護士に相談に行き、会社に復帰するまで、

オンラインカジノに払った金をとりもどすまで、

そして首藤灯莉を突き放すまで、

母には逆らえない。


もし全てが終わったら――。



(こんな家族捨てて、峰岸とどこか遠くへ消えてやる……!)


輝馬はかつて自分が使い、そして今は凌空が使っている勉強机を睨んだ。



明け方にこっそり帰ってきた凌空がベッドにもぐりこむのを見てから、やっと眠ることができた。

数時間後に凌空に起こされたときには、父はどこに出掛けたのかすでにいなかった。

リビングで晴子の作った朝食を済ませたところで、インターホンが鳴った。



「紫音さんと同じ専門学校の者です。今日は紫音さんの忘れ物をお持ちしたのと……」

髪の毛を紫色に染めた青年は、確かに紫音が昨日持ってでたバッグを片手に現れた。

「実は紫音さんに、器物破損による損害賠償請求を考えておりまして」

やけに綺麗な顔をした青年は応対に出た輝馬には目もくれず、後ろに立っていた晴子をまっすぐに睨んでそう言い放った。


◇◇◇◇


俄かには信じられない話だった。

地味な紫音にあんなハイカラな彼氏がいたことにも驚いたが、おとなしい彼女がモテる彼氏に嫉妬して、大事なものを壊すほどの激しい感情を持ち合わせていたなんて。

(女なんてわかんないもんだな……)

輝馬は苛立たし気にキッチンで包丁を研いでいる母と、自室のドアを開け放ったまま、ワクワクしながら青年から預かったファイルを開こうとしている弟を交互に見て、ため息をついた。

「ただいま……」

それから数時間たち、昨日とは別人のように憔悴しきった紫音が帰ってきた。


「おかえり。連絡くらいよこせよ。心配するだろ」

そうは言ったものの、自分のスマートフォンはスーツのスラックスに入れたままチェックしていなかったことを思い出した。

「……ごめん」

感極まったのか目尻に涙を浮かべながら、作り話の入った紫音の言い訳を聞く限り、彼氏と濃厚な夜を過ごし、彼の周りの女子に嫉妬して物を壊すほどの激情にかられた妹は、兄に連絡しようなどとは思わなかったらしい。

その事実にほっとしながら、どこか説明口調のいわけを聞き流し、頭をなでる。

「紫音」

そのとき、隠れていたわけでもないのだが、紫音からはちょうど死角になっていたキッチンから晴子が現れた。


「……ママ」


紫音の空気が変わる。

2人が睨み合う中、輝馬はわずかに身を引き、息を飲んだ。


◆◆◆◆


結局、凌空が開いた動画を見た晴子が、全面的に青年を信じる形で紫音を否定し、彼女はそれに傷ついて家を出ていった。


凍りついた空気を察した凌空は、なにやら約束を忘れていただとか言いながら、慌てて家を出ていった。


輝馬は部屋着からスーツに着替え、ダイニングテーブルに座った。


本当は母に付き添ってもらって一度マンションに帰りたい。そして必要なものを取って、またこの実家に帰ってきたい。

しかし今はさすがに言い出せない。


晴子はキッチンに入り、何かを切ったり茹でたりしているが、何をしているのかはわからない。

今、彼女は何を想っているのだろうか。


思えば物心ついてから、こんな光景を何度も見たことがある気がする。


小学生の紫音が押し入れにこもり、

中学生の紫音がマンション前のブランコに座り、

高校生の紫音が友達の家に逃げていくのを、

輝馬はこの席からいつも眺めていた。


主に輝馬に、たまに凌空に、愛情を注いできた晴子が、紫音に対して優しい眼差しを向けているのを見たことがない気がする。

それは年頃の女子特有の難しさや、同姓だからかと思っていたが、先ほどのやり取りを見ると、どうやらこの確執はそんな単純なことではなさそうだ。


紫音が可哀そうだ。


喉奥までこみ上げてきた言葉を何とか飲み下すと、輝馬は壁時計を見上げた。


「紫音、帰ってこないね」

話しかけてみる。するとキッチンからは、


「放っておけばいいのよ」

意外とすっきりした晴子の声が返ってきた。


そこでスラックスに入れていたスマートフォンの通知が鳴った。

紫音からだった。

「しばらくお友達の家に泊まるから心配しないで、だって」

そのまま伝えると晴子は大きなため息をつきながらやっとキッチンから出てきた。


「家族と彼氏にさんざん迷惑をかけておいて、今度はお友達にも迷惑かけるなんて!」

そう言いながら晴子はテーブルを介した向かい側に座った。

「まあまあ。でもさ。ちゃんと紫音の話も聞いてあげないと、あの雨宮って先輩だけの話を信じるのは、紫音が可哀そうだよ」

できるだけ前置きを長くして、本当に伝えたい言葉を最後に手短にまとめた。

それでも晴子の目は輝馬をギラッと睨んだ。


「信じるも何も!動画で残ってるんだから事実でしょ?」

剝き出しの敵意を向けてくる。まずい。

「そうだとしても、だよ。そこはほら、血を分け合った親子なんだから」

苦笑いをして言う。

「母さんがそんな感じだから、紫音があんな拗ねたような発言をするんじゃないかな」

そう言うと、母はこちらを睨んだまま言った。

「……違うわ。あの子はわかってたのよ」

言っている意味が分からない。

輝馬が顔を傾げると、晴子は立ち上がり、輝馬の頬を手で触れた。


「私の子じゃないって」



ーー何を言っている?


輝馬は母親を見つめた。


紫音は母の子だ。

それは5歳の時に紫音が生まれた情景を見ている輝馬が一番知っている事実だ。


入院していた産婦人科に、祖母に手を引かれて見に行った。

お腹の大きかった母が、ぺちゃんこになった腹に真っ赤な赤ん坊である紫音を抱いて微笑んでいた。


それなのに、この女は何を言ってるんだ?


彼女の顔が近づく。


唇が迫る。



「……んっ……!?」


晴子は輝馬の顔を両手でつかむと、唇を押し付け、熱い舌を挿入してきた。


「んんッ……!!」


挿入された舌は、まるで別の生き物のように口内を這いまわり、容易に輝馬の丸めた舌を探し当てた。


蛇のように絡まり、根っこから抜かれそうになる。


「んぐっ……!」


痛みと恐怖を覚えて彼女の肩を掴む。


「!?」


まるで骨と皮のようなその細さにぞっとして思わず手を離すと、彼女は今度は上顎を嘗め上げてきた。


「……!!」


ゾクゾクと全身に鳥肌が立つ。

膝が震え、指先が氷に浸したように冷たくなる。


「輝馬ぁ……」


掠れた低い声が口内から響いてくる。


「愛してる……」



――知ってるよ!


心の中で叫んだ。


そんなの、嫌というほど知ってる。


その意味が、ただの息子に対してのものじゃないことを。


幼いころから、


いや、もしかしたら生まれてからずっと、


男として愛されてきたのだということを。



「嬉しい……!」


抵抗しない輝馬に、自分の愛が肯定されたのだと勘違いをしたのか、真っ赤な唇からそんな的外れな言葉を漏らした。



口紅の匂い。


峰岸や今まで抱いてきた女の子たちの唇とは違う、クレヨンのような古い油の匂いだ。


それと混ざる中年女性の唾液の匂い。


濃すぎるコロンの匂い。


ヘアムースのきつい匂い。



臭い。


気持ち悪い。


臭い……。臭い……。


臭い、臭い、臭い、臭い……!!



「……気持ち悪いんだよ!!クソばばあ!!!」



気が付くと輝馬は、晴子を突き飛ばしていた。


バランスを崩した彼女は、2つのダイニングチェアの間に滑り落ち、ダイニングテーブルの陰で見えなくなった後、


ゴキュッ。


人間から聞こえてはいけない音がした。



「…………!!」


輝馬は慌ててテーブルの上のスマートフォンと、ソファ脇にあったカバンを持つと、リビングを駆け出した。


廊下を抜け、玄関のドアを蹴破るように開け放った。


◇◇◇◇


躓きそうになりながらマンションの廊下を走った。


四肢がもげそうなほど必死に走る体とは裏腹に、うんざりするほど冷静な頭が静かに問う。



お前は、


どこに逃げる。


誰にすがる。



誰がお前なんかを、


助けてくれるのだ。



「市川君……?」



足を止めて視線を上げる。



そこに立っていたのは、



峰岸優実だった。


◆◆◆◆


「はい、ミルクチョコレート」

彼女はカップに入れたココアを輝馬の前に置くと、小さな炬燵テーブルを介して向かい側に座った。

「ごめん……」

「どうして謝るの?」

彼女は頬杖を突きながら、首を傾げた。

「峰岸に何の理由も話さないまま、部屋に上がり込んで」


彼女は、血相を変えた輝馬に何も聞かなかった。

ただ、輝馬が逃げてきた背後から誰も追ってこないと確認すると、静かにエレベーターに誘導し、ボタンを押した。

そして20㎝以上背の高い輝馬の手を、まるで子供を連れ帰るように引っ張り駅まで連れていくと、電車ではなくタクシーに輝馬を乗せ、自分のアパートまで連れ帰ってきたのだった。


「どうぞ。早く飲まないとチョコレートが沈殿しちゃうから」

「いただきます」

輝馬はカップを両手で持つと、ゆっくり一口飲み込んだ。

ココアなんて飲んだのは何年ぶりだろう。

そのまま視線を上げ、峰岸の部屋を見回す。


古いアパートだ。

今どき珍しい砂壁。

縁のあっていない畳。

貼られた障子は黄ばんでいて、

冷蔵庫が低く唸る。


峰岸のイメージとはそぐわない部屋の様子に、輝馬は口にためたココアをゴクンと音を立てて飲み干した。


「……ボロいでしょ」

彼女は眉毛をハの字に下げて苦笑した。


「でも、なかなか部屋にまでお金かけられなくて……」

彼女は頬杖を突きながら、先ほど輝馬がしたように部屋を見回した。


「……なんか、金に困ってるの?」

自分のことを棚に上げて、輝馬は余裕そうな顔をしながら、またココアを一口飲んだ。


「困ってるっていうか、使っちゃったから」

峰岸は小さく頷きながら、頬杖を外した。


「どうしても欲しいものがあって」


若い女の子というのはそういう生き物かもしれない。

そう言いながら何かにうっとりと思いをはせている彼女を愛おしく思う。


「へえ」


輝馬はまたココアを飲んだ。


「でもやっと手に入れられたから、お金を使ったこと、後悔はしてないの」


彼女が小さく頷くのにつられて、輝馬はもう一口飲んだ。


「車とか?」


そう聞きながらもう一口。


「ぶぶー」


彼女の尖らせた唇が可愛くて、さらに一口。


「ちょっといいアクセサリー?それともブランドもののバッグかな」


「ぶぶー。どれも外れ」


笑った彼女に微笑みながらもう一口。


「……教えてあげよっか?」


彼女が口に手を添えながら近づいてきたときには、カップの中のココアはなくなっていた。


「ずっと大好きだった……」


「?」


「市川君……」



その言葉を聞いた瞬間、グワンと炬燵が天井に回った。


古い畳が反転してひっくり返る。



「うふふふ!うふふふふふふ!!」


重力を失った輝馬は、



どこかで聞いたことのある笑い声を聞きながら


そのまま炬燵に突っ伏した。

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