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第29話、読み終わりました。要が「記録じゃなく、顔と評判で回す保険」を提案して、実際に動き出したところが胸にきましたね。猪にやられた家の夫が「知らない人の名前がある…」と台帳を見て、「来月、おれも出す」と言った場面が特に好きです。遠くの他人を、十キロの範囲で顔と台帳で信用する。狭くていい、壊れないなら——その価値観に、じんわりと温かさが伝わってきました。大畑が最初の一枚を自ら出すところにも、彼なりの誠実さを感じます☺️
二月。隣村の畑が、猪にやられた。
冬の畑に、大したものは植わっていない。でも、その家は、春の種芋を、畑の端の、土の中に埋めて保存していた。猪は、それを、全部、掘り返した。
種芋がなければ、春に、植えられない。植えられなければ、秋に、収穫がない。収穫がなければ、来年の冬、その家は、証を受け取る物を、何も持たない。
一家は、四人だった。夫婦と、子ども二人。
「どうなる」要は、隣村の孫に聞いた。
「どうもならない」孫は言った。「村が、少し、助ける。でも、村にも、余裕はない。あの家は、来年、村の中で、一番、貧しくなる。それだけだ」
「それだけ、か」
「昔から、そうだ。運が悪かった家は、貧しくなる。運が良かった家は、豊かになる。村の掟は、それを、少しだけ、ならす。全部は、ならせない」
要は、峠の小屋の机の上を見た。
東の家の男が置いていった、二十八枚の証。村の蔵に入れる、と書いた。病気の家に配る、と。まだ、配られていなかった。病気の家が、今は、なかったからだ。
二十八枚が、ここにある。猪にやられた家が、あそこにある。
要は、二つを、頭の中で、結んだ。
*
「保険、というものがありました」要は、三つの村の長に言った。
大畑と、隣村の長と、ばあさま。もう、要が三人を集めるのは、珍しいことではなくなっていた。
「大剥離の前。皆が、少しずつ、金を出す。誰かが、事故に遇ったら、集めた金から、払う。事故に遇わなかった人間は、損をする。でも、自分が事故に遇ったとき、助かる。だから、出す」
「知っとる」ばあさまが言った。「わしの亭主の、生命保険が、そうだった。亭主が死んで、金が出た。それで、わしは、飢えなかった」
「諏訪で、保険が下りなかった人に、会いました」要は言った。「記録が、消えてたから。払ってたのに」
「記録が、消える前から、保険は、記録で回ってたからな」
「はい。だから、記録を使わない保険を、作ります」
要は、机に、紙を広げた。
「三つの村の、全員が、証を、一枚ずつ、出す。月に一枚。峠の小屋の、蔵に入れる。三冊の台帳に、誰が出したかを書く。三つの村で、百二十軒。月に百二十枚。半年で、七百二十枚」
「それで」
「誰かの畑が、猪にやられたら、蔵から、種芋を買える分の証を、出す。誰かが、病気で働けなくなったら、米を買える分を。誰かの家が、火事で焼けたら、建て直す分を。失敗を、三つの村で、分ける」
隣村の長が、腕を組んだ。
「誰が、出すと決める」
「三人の立会いと、三つの村の長。六人。六人のうち、四人が、出すと言えば、出す」
「不正は」
「あります」要は、正直に言った。「猪にやられたと嘘をついて、蔵から取ろうとする家が、出る。でも、三つの村の人間は、お互いの畑を知ってる。嘘は、顔でわかる。それに、不正をした家は、評判が消える。評判が消えたら、次に、本当に猪にやられたとき、誰も、助けない」
「……保険が、評判で回る、と」
「はい。記録じゃなく、顔と、評判で」
大畑は、ずっと、黙っていた。
「大畑さん」
「……親父が、死んだとき」大畑は、ゆっくり言った。「村は、何もしてくれなかった。くれたのは、米を、少し。あとは、おれが、一人でやった。田んぼも、村の仕事も。それが、村だと思ってた。運が悪ければ、一人でやる」
「はい」
「お前のは、違う。運が悪い家を、三つの村が、支える。それは、村じゃない。もっと、大きい何かだ」
「組合、と呼んでました。大剥離の前は」
「組合」
「信用組合。信用で、支え合う」
大畑は、紙を見た。長く見た。
「……やってみろ。だが、一つ、条件がある」
「何ですか」
「最初の一枚は、おれが出す。村の長が、出さなければ、村の者は、出さない」
*
最初の月、百二十軒のうち、九十一軒が、証を、一枚出した。
残りの二十九軒は、出さなかった。出す意味が、わからないと言った。要は、何も言わなかった。強制しない。それが、決まりだった。
九十一枚が、峠の小屋の蔵に、入った。三冊の台帳に、九十一の名前。
最初の支払いは、猪にやられた家だった。
六人が、小屋に集まった。四人が、出すと言った。二人は、「まだ、半年経っていない」と言った。でも、四人が出すと言ったので、出した。
種芋を、下流の村から買える分。証、四十枚。
一家の夫が、峠に、受け取りに来た。四十枚の証を、両手で受け取って、長い間、何も言わなかった。
「……誰に、礼を言えばいい」
「九十一軒に」要は言った。「名前は、台帳にあります。見ますか」
夫は、三冊の台帳を、見た。九十一の名前。自分の村の名前。隣の村の名前。下流の村の名前。知っている名前。知らない名前。
「……知らない人の名前が、ある」
「はい。会ったことがない人が、あなたの種芋を、買いました」
夫は、台帳を閉じた。
「来月、おれも、出す」
要は、うなずいた。
三月、百二十軒のうち、百八軒が、出した。
*
夜。要は、ノートの隅に、書いた。
『七、組合』
書きながら、思った。
商店街で、「遠くの他人を、記録だけで信用できる社会」が終わったと思った。その通りだった。終わった。
でも、「遠くの他人」は、まだ、いた。会ったことのない、下流の村の誰かが、隣村の誰かの、種芋を、買った。記録ではなく、三冊の台帳と、六人の顔で。
遠さは、少し、縮んだ。十キロに。
十キロの他人を、顔と台帳で、信用できる社会。
「狭い」要は、つぶやいた。
つむぎが、顔を上げた。
「狭いね」
「狭くていい。壊れないなら」
外は、まだ雪だった。でも、峠の小屋の蔵には、百八枚の証が、眠っていた。誰かの、来年の、運の悪さのために。