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「なぜここに立っている」
高阪は可能なかぎり穏やかな声で尋ねた。
害獣を環境省に届ける際に使う声であり、彼の社会性をすべて動員した声だった。
少女たちは答えなかった。
ひとりは7、8歳ほどに見え、もうひとりはそれよりもずっと幼い。
見た目からして姉妹に違いなかった。
どこにでもいるような普通の服を着た子どもだった。しかし高阪は、なぜか姉妹の顔が気に入らなかった。
「ここは野生動物が現れる。危ないから急いで家に帰れ」
「……はい。わかりました」
姉が即答した。とても小さな声で。
「わかってんなら、さっさと行け」
その一言を残し、高阪は車へと戻った。運転席に乗り込みエンジンをかけ、アクセルを踏もうとした。
その瞬間、高阪の全身が痛みに震えた。
呼吸が浅くなり、体のあらゆる部分が苦痛を訴えていた。痛みの中心は、主に鼻と指と脚だった。
過去にひどく傷ついた骨や肉が苦しんでいた。
高坂は窓を開け、少女たちの姿を確認した。
ふたりは何事もなかったように、その場から動かないでいる。
「おまえら、父親の名前は何だ」
高阪は運転席の窓から顔を出して言った。
記憶の深い場所がチクチクと痛む。
いい思い出などあるはずもない。すべての記憶には痛みが存在した。
その中でも、つらく苦しい記憶の領域がある。箱が開くように記憶が蘇ると、高阪は怒り狂った。
「貴様らの父親の名前を言え!」
高阪はトラックから降りて少女たちに近づいていく。
姉妹は高阪の怒号に驚き、その場で震えた。
「父親の名前を言え」
高阪は再び尋ねた。
すると突然、ふたりの顔からすっと表情が消えた。
恐怖、警戒、その他すべての感情が消えたように思えた。まるで石でできた面でもかぶるように。
その表情が高阪の深い過去をえぐった。
高坂は恐怖と対峙する際に、自分なりの対処法をもっていた。
外部から強い圧力がかかると、心はクルミほどに小さくて固くなる。そして体の奥深くへ潜っては隠れる。
内蔵のどこかに隠れた心は、その瞬間から外部の圧力とは無縁になる。
苦しくない。傷つかない。孤独ではない。
なぜなら、クルミだから。
姉妹の表情は、高阪が過去に学んだ自己防衛手段と完全に一致していた。
――こいつら、クルミ……。
「おまえらごときが、俺と同じ痛みを味わってるとでも言いてぇのか!」
高阪は激怒した。
しかし同時に姉妹の心の中にある何かに気づいた。
優越感。
ふたりの少女は、今俺よりも優位な場所にいると思っている。
過去の俺がやってきたのと同じように、このふたりは世界での立場を反転させる優越主義を隠しもっている。
――私たちはあなたより苦しんでいる。だから私のほうが優れている。
「ふざけるな!」
高阪は叫んだ。
心を完全武装させた姉妹に対する怒りだった。
それでも少女たちの表情は変わらない。
まるで目の前にいる男の怒りが、地面に落ちる水滴のように他愛もないものだと言わんばかりに。
高阪は我を忘れた。
理性の糸が切れ、彼はイノシシに似た獣と化した。
いつしか夜が近づいていた。
正気を取り戻した高坂は、運転席に座ったままひとりの男を見ていた。
男はひどく酔っていた。
商店の前に置かれたプラスチック製の椅子に座り、ほうけた顔でタバコをくゆらせている。
高阪は曲がった鼻に触れた。もとには戻らないほど鼻には角度がついている。
「奴の娘どもか」
材木工場の一角で寝泊まりした日々。
折れた鼻からの出血が止まらなかったあの夜。
男の放った言葉が今も脳裏に焼きついている。
――悪魔の血も赤いんだな?
高阪は表情を変えず、大笑いする先輩社員3名の声を聞いていた。
心はクルミとなり、内蔵のどこかに隠れていた。
その後、3人は別々の道を歩んだ。
ひとりは断崖絶壁から落下し、海の生贄となった。
もうひとりは10年前。
森の中でイノシシの罠に足をとらわれ、数日間もだえ苦しんだ末に餓死した。
残るひとりの男が目の前にいる。
酔ったまま椅子に座り、気持ちよさそうに半分ほど居眠りをしている。
その光景は、高阪にとっては平和の象徴そのもののようだった。
耐え難いほど不快な思いが胸を締めつけた。
ほとんど無意識のまま、助手席に置いてある猟銃を手にとった。
車を降り、男の眉間に銃を当てて引き金を引くつもりだった。
「奴を殺せば、俺の復讐も終わる」
高坂は車のドアを開けて男に駆け寄ろうとした。
しかし地面に片足をつけたとき、車体が揺れた。
「そうだった」
失いかけていた理性が戻り、高坂は猟銃を助手席に置いた。
そのまま荷台へと向かい、かぶせてあるブルーシートをめくった。
イノシシを縛るためのロープに、ふたりの少女がくくりつけられている。全身を固定され、ガムテープで口を塞がれた姉妹は、鼻で呼吸をしている。
「うぐぐぐぐ……」
高坂を見て姉妹は錯乱した。
ふたりの目は必死に何かを訴えかけている。
助けてください――。
その目は、過去に自らの手で葬ったシェパードたちの目に似ていた。
「……言ったはずだ。おまえらよりも俺のほうがはるかに苦しんだってな」
優越感を取り戻した高阪はそのままブルーシートをかぶせ、再び運転席に乗り込んでトラックを発進させた。
姉妹は結局、父親が近くにいることを知らないままその場を去った。
男はプラスチック椅子に座ったままだ。
トラックが走り去ると、泥酔した男は、まるで弾丸に撃たれたようにその場に倒れた。
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