何か重いものを引きずっているようかのように体が前に進まない。黒ずんだ重い液体のような淀みが心の中に広がっていき、しおれた花のよう首が垂れ、暗く俯いてしまう。先ほどからずっとこの調子だ。壮大な疲労感に細いため息が口元から零れる。
家の前までたどり着けたはいいものの、そこから先は全く進めない。
─…「今イザナくんと同棲してるなら今すぐ出ていきな。本当にやばいよ。」
真剣な口調でそう言った友達の声が幻聴のように淡い響きに変わって耳に蘇ってくる。
自身の身体の至る所に咲き誇っている青紫色の痣をぼんやりと見つめ、震える手つきでなぞる。
腕のこれも、足のこれも、肩のこれも。
体中に浮かび上がったこの青紫色は、全てイザナからの“愛”だと思って受け入れてきたモノ。
もしもこれがあの子の言う通り“愛”なんかじゃないのなら、なんなのだろうか。
そんな暗い考えに浸かっていると、不意にザァーと砂嵐の様な音が鼓膜に触れ、絹糸のような雫が頬を濡らした。冷たいその感触にゆっくりと空を見上げると、頭上に圧し掛かって来るような低く厚い雲があたしの今の心情を表すかのようにポツポツと刻まれたように細かな雨を降らしていた。湿っぽい雨の匂いが嗅覚をくすぐる。
─…流石にこんな中でずっと外に出ていれば風邪をひいてしまうな。
そう気持ちを無理やり固めて息を大きく吸うと、鍵穴に鞄から取り出した鍵を差し込んで手首をひねらすように回す。
ガチャリという気持ちのいい澄んだ音と鍵が開いたような濃い手ごたえを確認すると、そのままゆっくりと扉を開いていく。不自然な緊張で体が金縛りのようにピリピリと痺れる。
『ただい、ま。』
体中のあらゆる神経を張り巡らせながら、そう掠れた声を落とす。
『…あれ?』
いつもすぐに「おかえり」と帰ってくるはずの低く甘い声が、今日はいつまで経っても聞こえてこない。ただただ暗闇に包まれた静寂が雨音を響かせているだけだった。
『イザナ?』
恐る恐る探るような足取りで廊下を進んでいき、リビングへと顔を出す。
カーテンの閉められた部屋は、まだ夕方だというのに深夜の不気味さを思い出させた。
『…いないの?』
真っ暗な部屋の中、自身の額に 汗が帯のように広がる。
荒れた寂しさが鋭い爪を立ててあたしの胸を引っかいた。
一人はいやだ
一番怖くて嫌い。
物音一つ響かない静かで暗い、一人の空間に冷汗に似た嫌な汗が滝のように身体をするりと流れて、胸の内に溜まった不安の色を段々と濃くしていく。
胃を固く締めつけるような不安の念に嫌な考えがぐるぐると頭の中を回っていって肺に空気がなくなったかのように息苦しくなる。意識が波の引くように遠のいて行きそうになる。
どうしよう。
捨てられちゃった?
あたしが言うこと聞かなかったから?
でも今日はちゃんと5時前には帰ってきたのに。
嫌いにならないで。
イザナどこ?
いやだあたしのこと捨てないで。
一生一緒に居るって言ったじゃん。
大好きなのに。
頭の上にクエスチョンマークが飛び交い、眉間にはザワザワとした薄暗い影が漂う。
そんな数えきれないほどの浮かび上がった不安に心が一本の糸のように痩せていったあたしの視界の端で、何かがもぞりと動いた気がした。
『イザナ?』
慌てて気配の下方へと駆け寄り、大好きな彼の名前を弱弱しく呼ぶ。
暗闇にようやく慣れてきた視界には大好きな人が苦しそうに眉間を寄せて眠る姿が映った。唸るような低い声を上げて存在を示してくる彼の姿に泣き出しそうなほどの強い安堵感が留めなく流れてきて、つい足の筋肉を失ったかのようにゆっくりとへたり込む。
「…ン」
突然、それまで固く閉じていた褐色の瞼が開き、虚ろ気に淀んだ紫色の瞳がぼんやりとあたしを捉えた。白く色づけられた長い睫毛が彼の瞬きに合わせて軽く揺れる。
「…○○?」
眠気の抜けないくぐもった声が耳に触れる。
『ただいま、イザナ』
いつもより少し弱弱しくて無防備なイザナの姿に思わず庇護欲をそそられ、口元に柔らかい笑みが浮かび上がる。
低気圧に弱い彼のことだから今までずっと眠っていたのだろうか。少し跳ねた白髪と今にも閉じてしまいそうなほどぼんやりとしている瞼にそう思う。
「頭痛ェ…」
そう掠れた声を落とすイザナは、案の定気圧のも重さにやられたのか眉を深く顰めながらグルグルと狭いソファの上で何度も寝返りを繰り返していた。そのたびに彼の耳に飾られている花札のピアスが慌しく揺れる。
『薬いる?』
ぬうっと心の中に芽生えてきた強い庇護欲に動かされるまましゃがんでいた体制から立ち上がり、いつも気圧によく利く薬が常備されている救急箱へと手を伸ばした瞬間。ぐいっと服の裾を何者かに掴まれ、体が止まる。
「いらねぇからこっち来い。」
そのまま掴まれていた袖を引っ張られ、体制が崩れたあたしはイザナの腕の中に器用に入り込んでしまった。途端、毛布の中に籠っていたイザナの暖かい体温が自身の皮膚に触れ、体の奥深くまで染み込んでいく。
その瞬間、さっきまで自身の心の中で渦巻いていた戸惑いや不安の感情たちが全部嘘だったかのようにパッと消えていき、幸福感と少しの優越感が胸を埋めた。
ギュッとあたしを抱きしめたまま眠るイザナのこの寝顔も。
あたしの身体を包み込んでいるイザナの体温の暖かさも。
全部あたしにだけ見せてくれる表情で、してくれることだと考えたら表現できないほどの強く重い愛しさを覚えた。心臓が胸の中でドキドキと嬉しそうに跳ねまわっている。
ほら、これはちゃんとした“愛”じゃないか。
暴力だって毎日されているわけじゃないし、暴言だって毎日言われているわけじゃない。
あたしが約束を破ってしまった日だけで、それ以外は優しくしてくれる。
『イザナ大好き』
「オレは愛してる」
こんな幸せな状況に居て壊れるなんて、そんなことあるわけがない。
そんなどっぷりと沈んでいきそうなほど濃い恍惚感に陶酔し、溺れる。
あたしたちは間違っていない。
間違っているのは、みんなだ。
続きます→♡1000
コメント
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ん わ あ あ あ 依 存 し 合 っ て る っ て 言 う の か な ⁉️ 歪 ん だ 愛 と い う か ド ロ ド ロ の 恋 愛 系 が 大 好 物 な の で う れ ち い で す 🥺 💖
途中依存心が書かれてるとこ めちゃ好きです🥹💗💗 イザナくん低気圧嫌だもんネ🫠 夢主ちゃんもイザナくんのことわかってるの流石って思う🫶🏻