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「どうやらもう長くはないようだ」
病院に併設する喫茶店で、瑞奈のお父さんが俺に告げた。
さあっと血が引き、意識がとびかける。椅子に座ったままふらついたようで、お父さんが心配そうにテーブルから手を浮かせていた。
「だ、いじょうぶ、です」
コーヒーカップの取っ手を掴むと、指先が震え、かちかちとカップがソーサーにあたった。遅れて、熱い、と感じた。指にホットコーヒーを零していた。
「ところで、大学の授業は大丈夫? あと、天皇杯出場をかけたサッカーの決勝戦、そろそろだよね? あ、別に帰ってくれって催促しているんじゃないよ。むしろ晴翔君にいてもらって安心しているし、助かっている。だけど、申し訳なくも思っている。きみの学生生活もあるから、ちょっと心配になってね」
瑞奈が入院してからずっと、彼女の家に泊めさせてもらっている。九月から大学の後期授業が始まっているが、前期の授業を真面目に受講していたため、これくらいの日数を欠席したところで単位に影響はでないだろう。
「うちは娘二人だから、息子が出来たみたいで、本当に嬉しいよ。果たせなかった天皇杯出場の夢を、瑞奈と晴翔君の二人が追いかけてくれてもいるし」
お父さんがサッカーをやっていたことは瑞奈からうすうす聞いていたが、天皇杯を目指していたことは知らなかった。
「瑞奈が天皇杯出場にこだわっているのは、お父さんの夢でもあったからなんですか」
「親子二代にかけてのね」
遠い目をしたお父さんが、コーヒーカップを口にやった。
「大学の時も社会人になってからも、目標は天皇杯だった。だけど、壁が厚くてね。気付くともうこんな歳だ。中年世代向けのチームに現在も入っているが、もう天皇杯うんぬんのレベルではなくなっている。瑞奈はそんな親心をよく分かっているようだ」
瑞奈のお父さんが視線をテーブルに落とした。コーヒーカップを再度口につけるも、唇を湿らす程度で、すぐにカップをソーサーに戻した。
「お父さん」
テーブルに置かれたコーヒーカップをソーサーごと脇へどけた。緊張していた。でも、声を震わせたくない。
「瑞奈と、結婚させてください」
周囲の喧噪が止む、そう感じられる時間が僅かにあった。カップとソーサーが当たる音、話し声、何もかもが消えた。
唯一、お父さんの身じろぎ、息づかいだけに俺は感覚を集中させた。
お父さんがゆっくりと口を開きかけ、閉じ、また開いた。
「ありがとう。でも、駄目だ」
「え」
正直、耳を疑った。俺はお父さんから信頼されていないのだろうか。口を閉じることができなかった。きいいん、と超音波みたいな耳鳴りがしだした。
慌てた様子でお父さんが表情を緩めた。下がった目尻の近くに、瑞奈みたいな泣きぼくろがあることに、今気付いた。
「本当にありがとう。そこまで瑞奈を思ってくれて、ありがとう。いや、すまない」
お父さんが深々と頭を下げる。テーブルに額がつきかけていた。
「え、お父さん、そんな」こんな時、どう対応すればいいのだろうか。あ。「どうか、頭を上げてください。お父さん」
お父さんは姿勢を変えてくれなかった。どうしよう、そう思った時、ずずずっと鼻を啜る音を聞いた。
顔を俯かせたままズボンのポケットからハンカチを取り出したお父さんは、頭頂、肩、背を小刻みに震わせながら目もとと鼻を拭った。少し時間を置き、
「見苦しいところをお見せした。すまん」
と、顔をあげたお父さんは、柔和ながらも真摯な顔つきを俺に向けてくれた。
「瑞奈はきみと出会えて幸せだ。親としても、晴翔君を選んだ瑞奈が誇らしい」
お父さんの態度が、これがお世辞ではないことを伝えてきた。
「でも、晴翔君――」
お父さんが言いづらそうに、一度言葉を区切った。
「瑞奈との結婚は、きみにはもったいない。自分の娘を卑下して言っているんじゃない。もしも瑞奈が……病気でなければ、断るどころか喜んで、娘をもらってくれてありがとう、と申し上げる。だが、瑞奈には、もう……未来がない。だが、きみには、晴翔君にはこの先がある。死ぬ瑞奈に囚われさせる訳にはいかない。最近は声が出せなくなってもいる。晴翔君には黙っててということだったが、瑞奈は文字盤を使った会話を試み始めている。視線入力パソコンには抵抗があるようだ。それでもいずれは、そういうコミュニケーションになる」
「いいんです。それでもいいんです」
椅子から腰を浮かしていた。声が大きくなっていた。周囲の客が怪訝そうな目でこちらを見ているかもしれないが、今は構っていられない。
「瑞奈と結婚させてください。俺、瑞奈以外には考えられません」
お父さんが口を噤む。奥歯を噛みしめているのが分かるほどだ。瞼もぎゅっと閉じていた。苦しそうに思案してくれていた。首をゆっくりと動かし、頷く。また頷く。ぴたりとその動きが、止まった。
ダムを決壊させたように、突如としてお父さんが滂沱した。
身体を震わせながら、唸るような涙声で「晴翔君――」と俺の名前を呼んだのち、
「駄目だ……申し訳ないっ」
ショルダーバッグにプラチナの結婚指輪が入っていることを告げることができなかった。