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Episode.37
山道の奥深く、杉の木々が密集して陽光を遮る場所に、その小屋はひっそりと佇んでいた。
古い丸太を組んだ壁は長年の風雨にさらされ、緑色の苔がびっしりと生え、まるで森の一部になったかのように溶け込んでいる。
屋根は茅葺きに近い形で、ところどころに新しい板が打ち付けられ、誰かが丁寧に手入れをしていた痕跡が残っていた。
煙突からは、細い白い煙がゆらゆらと立ち上り、静かな生活の息吹を感じさせた——
ただし、今はもうその煙は途切れ、冷たい空気だけが残っていた。
ドアは半開きで、風に押されるたびにきい、と小さな悲鳴のような音を立てて揺れている。
三人は自転車を地面に立てかけ、息を殺して近づいた。
足元には落ち葉が厚く積もり、踏むたびにくしゃりと湿った音が響く。
空気は重く、腐葉土と血の鉄臭い匂いが混じり合い、鼻の奥を刺激した。
最初に異変に気づいたのはミラだった。
彼女は無言でドアを押し開け、中を覗き込んだ。
その瞬間、レクトが小さく息を呑む音が聞こえた。
小屋の中は、まるで巨大な獣が暴れ回った後のように荒れ果てていた。
木製のテーブルは真っ二つに割れ、脚が折れて床に転がっている。
椅子は粉々になり、壁には鋭い爪で抉られたような深い傷が何本も走っていた。
傷の縁には、黒く乾いた血がこびりつき、床には点々と赤い染みが続いている。
台所の方では、鍋や皿が散乱し、壁に飛び散った血痕が不気味な模様を描いていた。
奥の寝室へと続く廊下のような狭い通路に、血の跡はより濃く続いていた。
寝室の布団の上に、二人の大人が横たわっていた。
カズハの両親に違いない。
父親らしき男性は喉から胸にかけて深く裂かれ、服は引きちぎられ、血で真っ黒に染まっている。
母親らしき女性は、腕を防御するように上げたまま、顔の半分を失っていた。
二人の表情は、恐怖と苦痛に凍りついたままだった。
レクトは思わず顔を背け、口を手で押さえた。
胃の中が逆流しそうになるのを必死に堪える。
ミラは感情を殺したような目で周囲を見回し、壁の爪痕の高さと深さを確認した。
「……ヒグマだ」
静かな声だったが、確信に満ちていた。
「この傷の間隔と深さ、力の入れ方……間違いない。
山奥で暮らす人なら、誰もが恐れる奴だ」
ヴェルだけが、ゆっくりと膝をつき、震える手で散らかった布団の端をそっと直した。
指先が血に触れ、冷たくべっとりと絡みつく感触に、肩が小さく震えた。
カズハは、家族を守ろうとしたのだろう。
あるいは、ただ逃げようとしただけかもしれない。
巨大な熊の襲撃に耐えきれず、必死に山を下り、
でも力尽きて、あの道路の真ん中で倒れた。
頭を強く打ち、静かに——あまりにも静かに、息を引き取った。
偽りの死を告げられてから、わずか一年と数か月。
けれど、その時間は、カズハにとってかけがえのないものだったはずだ。
小屋の棚に、小さな写真立てが一つだけ、無傷で残っていた。
今年の夏、きっと家族三人で撮ったもの。
カズハは白いワンピースを着て、両親に挟まれ、満面の笑みを浮かべている。
頬は健康的に丸みを帯び、目は生き生きと輝き、
長い金髪は風に揺れて、まるで光の糸のようにきらめいていた。
病気の影は、どこにもなかった。
ただ、幸せそうな、普通の少女の笑顔だけがあった。
ヴェルはその写真を両手で包み込むように抱き、
畳の上に座り込んだ。
膝ががくがくと震え、写真を持つ手も小刻みに揺れる。
「……カズハ……」
声は掠れ、すぐに嗚咽に変わった。
「私……病気のことも、体が弱いことも、何も気にしないのに……!
どうして、言ってくれなかったの……っ
私に、全部話してほしかった……!
一緒に、もっと一緒にいたかった……!
ごめんね……ごめんね、カズハ……!!!」
涙がぽたぽたと写真のガラスに落ち、
カズハの笑顔を滲ませ、歪ませる。
ヴェルは肩を震わせ、声を上げて泣いた。
今まで必死に堪えていた悲しみ、怒り、後悔、すべてが堰を切ったように溢れ出す。
嗚咽は小屋の壁に反響し、森の静寂を震わせた。
ミラは黙ってヴェルの隣に座り、
そっと背中を撫で続けた。
その小さな手は、驚くほど優しく、温かかった。
レクトは立ち尽くしたまま、拳を固く握りしめ、
ただ見守ることしかできなかった。
胸の奥が熱く疼き、涙がにじみそうになるのをぐっと堪える。
日が傾き、森の影が長く伸びる頃、三人はようやく小屋を後にした。
警察への連絡は、家に戻ってから。
今は、もう何もできることはない。
ただ、カズハの短い命が、確かにここで輝いていたという事実だけが、
三人の心に深く刻まれた。
ヴェルの家に戻ると、母はすでに寝室に引き上げていた。
夕食の支度もなく、居間は薄暗く、冷たい空気だけが漂っている。
ヴェルは「少し一人になりたい」と小さく呟き、
自分の部屋に閉じこもった。
ドアが閉まる音が、静かな家に重く響いた。
残されたレクトとミラは、顔を見合わせた。
「……売店でお菓子買いに行かない?」
レクトが立ち上がる。
ミラも無言で頷き、外套を羽織った。
外はもう真っ暗で、霧はすっかり晴れ、満天の星が冷たく瞬いていた。
遠くでフクロウが一度だけ低く鳴き、虫の声が途切れ途切れに聞こえる。
二人は自転車に乗り、近くのコンビニへ向かった。
店内は明るく、暖房の効いた空気が心地よい。
二人は無言でお菓子コーナーを回り、
チョコレート、ポテトチップス、グミ、プリン、アイスクリーム……
ヴェルが好きそうなものを、袋いっぱいに詰め込んだ。
帰り道、街灯の下で自転車を止め、
ミラがぽつりと口を開いた。
「……きっと君も、いい人なんだろうね」
レクトは思わず足を止め、振り返った。
「え?」
ミラは前を向いたまま、静かに続けた。
「ヴェルちゃんが、こんなに大事に想ってる人たちの輪の中に、
君が自然にいるってことは。
それだけで、わかるよ。
ヴェルちゃんは、信じる人を間違えない子だと思うから。」
レクトは言葉を失った。
記憶操作の影響で、多くの人はレクトのことを忘れている。
ミラにとっても、もう、
ただの「ヴェルの友達」でしかない。
禁断の果実のゴタゴタなんて覚えていないのだろう。
それでも、ミラは何かを感じ取ってくれた。
短い付き合いの中で、ヴェルへの想い方や、今日一日の行動から。
二人は再びペダルを漕ぎ始めた。
夜風が冷たく、でもどこか優しく頬を撫でる。
星空の下、三人の絆の糸が、強くなった気がした。
家に戻ると、涙で目が腫れたヴェルが出迎えてくれた。
三人はそれぞれ布団を敷き、静かに夜を過ごした。
カズハの短い命は、終わった。
でも、ヴェルの心には、永遠に残る。
優しい笑顔と、イチジクの甘酸っぱい記憶とともに。
一方、その頃。
パイオニアとレクトの戦いの傷跡がまだ残る荒れた街の一角で、影が音もなく動いていた。
崩れたビルの下から、子どもの小さな泣き声が漏れ聞こえる。
ルナは眉を寄せ、影を細く伸ばして瓦礫の隙間を探った。
影は蛇のようにうねり、重いコンクリートを静かに持ち上げる。
中に閉じ込められていた母子が、無事に救い出された。
「ありがとう! 本当に、ありがとうございます!」
母親が泣きながらルナに抱きつき、
周りに集まった人々が次々と感謝の言葉を投げかける。
「すごい魔法だ!」
「影魔法って、こんなに役に立つんだ!」
「さすがはサンダリオス家……!」
「ルナ様は英雄だよ!」
ルナは少し照れくさそうに、でもどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「いえ、そんな……
どうせ私より、弟の方が立派なんで」
言葉は自然と口から零れた。
家族の視線がいつもレクトに向いていることへの、かすかな反抗のように。
「え? 弟さん?」
周りの人々が首を傾げる。
「サンダリオス家に弟なんか、いたっけ?」
「エリザ様とパイオニア様の子供って長女だけじゃ……?」
ルナはハッとした。
そうだった。
アルフォンス校長が使った記憶の鏡の影響で、
この街の人々もレクトの存在を完全に忘れている。
世界を救った英雄の姿も、フルーツ魔法の奇跡も、すべて。
なら——
ルナの瞳に、暗い影が深く宿った。
(ここなら……
私一人で、みんなの英雄になれる。
影魔法を、みんなが褒めてくれる。
家族みたいに、レクト、レクトって言わずに、
私だけを見てくれる……
私の力を、認めてくれる……?)
風が冷たく吹き抜けた。
街灯の下、ルナの影が長く、ゆらゆらと揺れ、
まるで別の生き物のように不気味に踊った。
誰も気づかない。
サンダリオス家の長女の心が、
少しずつ、静かに、危険な方向へと傾き始めていることに。
夜は深まり、
それぞれの想いが、星の下で複雑に交錯していく。
カズハの命が終わりを告げたように、
新たな影が、ゆっくりと動き始めていた。
次話 1月10日更新!
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