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千夏が駆け寄ってきた瞬間、胸の奥で張りつめていた何かがぷつんと切れた。「あはは……」
力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
真帆が慌てて肩を支えてくれる。
「ちょ、奈月!? 大丈夫?」
「ありがとう……ちょっと気が抜けただけ。」
本当に、ただそれだけだった。
千夏の顔を見た瞬間、ずっと張りつめていた緊張が一気にほどけた。
「やっぱり……千夏も落ちてたんだね。」
言葉にして初めて、胸の奥がじんわり温かくなる。
あの日、魔界に落ちたのは私たちだけじゃなかった。
千夏も同じ場所にいて、同じように必死で生きていた。
三人でなら帰れる。
そんな思いが胸の奥にふわりと灯った瞬間、サバイバルが終わりに向かっていくという実感が静かに湧いてきた。
真帆が涙を拭いながら笑う。
「今までどこにいたのよ。めっちゃ探したんだからね!」
千夏は両手を合わせてぺこりと頭を下げた。
「ごめん! ごめん! 私だって訳わかんなくて……」
「みんなそうだったよ。魔界に落とされた時から。」
真帆が千夏の全身を見て、顔をしかめた。
「それにしても返り血がグロいんだけど……」
「これ? 襲ってくる魔物を……倒してたの。」
「あなた達が来るのが見えたから。危ないのは全部、先に片付けておこうと思って。」
「千夏って……そんなキャラだっけ? 千夏ってさぁ、昔か……」
真帆の声が、そこでふっと途切れた。
言葉が喉の奥で止まったみたいに、続きが出てこない。
その沈黙の理由が、私にははっきりわかった。
千夏との思い出が、霧みたいに薄れていく。
思い出そうとすると、そこだけ穴が空いたみたいに抜け落ちている。
胸の奥がざわついた。
魔界の空気が、記憶を削っている──そんな感覚があった。
「どうしたの? 二人とも……何か変?」
千夏が心配そうに覗き込んでくる。
でもその声は、まるで私たちの反応を確認しているように聞こえた。
真帆がふと千夏の頭上を見上げて、眉をひそめた。
「……ねぇ、奈月。千夏のレベル……見えなくない?」
「え?」
私は千夏の頭上を見た。
そこには、どの魔物にも、人間にも必ず浮かんでいるはずのレベル表示が──なかった。
「おかしくない? 私たちにも、つの丸にもあるのに……千夏だけ、ない。」
真帆の声が震えていた。
その震えが、私の背中にも冷たいものを走らせた。
千夏は一瞬だけ目を細めた。
「レベル? そんなの……気にしてなかったよ。」
軽く笑ったように見えたけれど、その笑みはどこか作り物めいていた。
「武器は持ってないの?」
「武器?」
「ほら、真帆みたいに刀とか。」
真帆が得意げに刀を振って見せる。
「あるいは、この魔物みたいに。」
私はつの丸の方を見た。
千夏もつの丸を見た。
その瞬間、千夏の表情がほんのわずかに揺れた。
「ところで、その魔物だけど……」
千夏は私の質問には答えず、つの丸をじっと見つめた。
「つの丸って言うの。」
「つの丸? 魔物に名前なんかあるの?」
「奈月が名付けたのよ。」
「……そうなんだ。」
千夏の声は平静なのに、どこか落ち着きがなかった。
「千夏も扉を目指してたの?」
「扉? ……ああ、人間界を行き来できる扉のことね?」
「そう! そこから元の世界に戻れる可能性がある。」
「そうかもね。」
「嬉しくないの?」
「嬉しくないわけないじゃん。」
その返事に、どこか温度の抜けた空洞のような響きがあった。
胸の奥がざわりと揺れる。
そもそも、どうして千夏は生き残れたのだろう。
武器も持たず、つの丸のような用心棒もいないのに。
あれだけの返り血を浴びるほど魔物と遭遇していたのなら、普通なら真っ先に死んでいるはずだ。
それに──レベル表示がないなんて、ありえない。
何かがおかしい。
何かが、決定的に。
千夏であって、千夏じゃない。
千夏って……こんな子だった?
私は千夏の輪郭を思い出そうと、記憶を辿った。
でも、そこにいるのは私と真帆だけで──
千夏の姿だけが、ぽっかり抜け落ちていた。
私の中に、ひとつの考えが浮かんだ。
千夏の答え次第では、覚悟しなければならない。
「ねぇ……真帆が中学生の時、バスケで全国大会に行ったでしょ? 二人で応援に行ったよね。覚えてる?」
「は? なに……」
真帆が言いかけたのを、私は手で制した。
千夏は即答した。
「もちろん、覚えてるよ!」
「そう……そうなんだ……」
信じたくないけれど、もう“そういうこと”なのだと胸の奥で何かが冷たく固まった。
私は気付かれないように、ゆっくりと距離をとった。
「あなた……だれ?」
千夏の表情が、はっきり曇った。
「誰って……怖いよ奈月。私は千夏よ。」
「真帆はバスケで全国大会なんか行ってない。私たちも応援になんて行ってない。」
真帆が刀を構えた。
「私、剣道の全国チャンプなの。」
千夏の顔がさらに曇る。
「記憶が……私も……魔界の空気が……」
「私もそうだと思ってた。でも、真帆との思い出は消えてない。思い出せないのは──千夏のことだけ。」
真帆が息を呑む。
「……何が起こってるの?」
「千夏じゃない。あなた……魔物?」
「乗っ取られてる? 魔物に?」
その可能性は、もう否定できなかった。
私は必死に思い出した。
魔物召喚の儀式をしようと言い出したのは誰だった?
魔界に落ちた瞬間、上から誰かが覗き込んでいた気がした。
その顔が──千夏と一致する。
そして、思い出の中に“千夏だけがいない”。
「どういうこと……?」
千夏は静かに笑った。
「……気づいちゃったんだね。」
次の瞬間、千夏の目が真っ赤に光った。
空気が揺らぎ、重力がねじれたように重くのしかかる。
「──っ!」
私と真帆は耐えきれず、その場に倒れ込んだ。
つの丸が低くつぶやく。
「やはり……な。」
まるで、最初から知っていたかのように。
千夏の目がさらに赤くなり、重力も増していく。
「く……つの丸、何とかして!」
つの丸は千夏へと襲い掛かった。
だがその瞬間、地中から伸びる根のようなものがつの丸の体に巻き付き、地面に叩きつけた。
「これ、一つ目と同じじゃん……」
真帆が震える声でつぶやく。
「それより、レベル表示!」
奈月の声に真帆が反応する。
千夏の頭上にはなかったレベル表示が、根のような部分に浮かんでいた。
合計4本の根──いや、腕のようなもの。
「5Mになってる……全部で20M……」
「20M!?」
その数字に絶句した。
「Mってなにさ……」
「知らない方がいい。」
MはKのさらに1000倍。
Kで表せば20000Kになる。
つの丸が阿修羅の姿になったとしても、到底勝てるわけがない。
桁が違いすぎる。
戦いにすらならない。
ただ、真帆は刀を構えたままだった。
「真帆……無理……勝てない……」
圧倒的な力の差を見せつけられ、恐怖さえも湧いてこない。
「これは……千夏なの? ……それとも、魔物に支配されてるの……?」
声が震えているのが自分でもわかった。
それでも、最後の最後まで千夏を信じたい。
あの日、一緒に笑っていた千夏を。
真帆と三人で帰れると思った、あの瞬間の千夏を。
もし、支配されているのなら──
戦うなんて、できない。
「千夏……あなたは……」
千夏の目は、もう完全に赤く染まっていた。
その奥に、私たちの知っている“千夏”がいるのかどうかすらわからない。
根のような腕が、地面を這うようにゆっくりと持ち上がる。
その一本一本に、5Mのレベル表示が淡く光っていた。
千夏の正体は──
一体……。