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「会えて良かった……」
北川のしみじみとした声が胸に染み入る。
見上げたそこにある眼差しは温かい。その視線を受け止めて、嬉しさと懐かしさと後悔と、様々な思いが押し寄せて来る。
北川は私の顔を覗き込む。
「二人で会う時間を作ってもらえないか?あの時は作れなかった、互いに向き合う時間がほしい。今まで引きずってきた気持ちに区切りをつけたいんだ」
私は目を泳がせた。
北川の顔が歪む。
「あぁ、そうだよね。二人だけで会うのは恋人に悪いよね。どうしてそう思うのかっていう顔をしているね。だって、そういう相手がいないわけがないって思うくらい、君は相変わらず今も綺麗だから。俺の勝手を押しつけるようなことばかり言ってしまって、すまなかった。今言ったことは忘れてほしい。そしてこれからは、同僚の一人としてよろしく頼むよ。……戻ろうか」
北川は強張った笑みを浮かべてくるりと背を向け、ドアに手を伸ばした。
そんな彼を、私は咄嗟に止める。
「待って」
北川はのろのろと手を降ろし、振り返らないまま平坦な口調で言う。
「どうして引き留めるの?」
私は北川に近づく。
「私の話、怒らないで聞いてくれるんだよね?」
北川がゆっくりと振り返った。
「怒っていないし、責めたりもしない。さっき言った通りだよ」
「それなら今度、拓真君の都合のいい時に誘ってください」
私は手元に持っていたメモに自分の連絡先を走り書きして、彼に渡す。
「私の番号は、もう消してるだろうから……」
北川はメモを受け取るのを躊躇している。
「彼氏は大丈夫なの?」
「大丈夫よ、たぶん……」
言葉尻がしぼんだ。太田にバレたらと思うと恐い。しかし今はそれ以上に、北川と話をしたい。そうすることで、私自身も彼との日々をいい思い出に変えたいと思う。
「無理させてない?」
「無理じゃないわ」
私は首を横に振った。
「ありがとう。嬉しいよ」
彼はメモを大切そうに受け取る。
「変わっていないんだね」
「まさか残っているの?私の番号」
彼は決まり悪そうに言う。
「気持ち悪い男だと思っただろうね。君と連絡が途絶えた時、心機一転と思って番号を変えたんだ。でも結局、何度も見て、何度もかけた君の番号は忘れられなくてね。もうかけることもかかってくることもないと思いながらまた登録して、今に至ってる」
彼はメモを胸ポケットにそっと仕舞い込み、微笑む。
「改めて連絡するよ」
言いながら北川は私の手に触れようとした。
その手から逃げるように、私は急いで一歩分ほど後ろに下がり、彼から距離を取る。
「今いるこの辺りはたぶん死角だけど、部屋の角二か所に監視カメラがあるの。最初に伝えるのを忘れていたわ。ごめんなさい」
「えっ」
彼は伸ばしかけていた手を急いで戻し、苦々しい顔をする。
「もっと早く教えてよ」
「ごめんなさい」
彼の慌てる様子がおかしくて、つい笑い声がもれた。しかし彼の不満げな表情に気がついて、すぐにそれを飲み込む。改めて表情を取り繕い、私はドアに手をかける。
「戻りましょう」
北川を促して足を踏み出してすぐに、立ち止まる。大事なことを言い忘れていた。
「お願いがあるの。会社では必ず名字で呼んでほしい。もちろん私も名字で呼びます。それから、職場では私たちが知り合いだと分かるような素振りは、絶対に見せないで」
「碧ちゃんがそうしてほしいんなら、もちろんそうするけど……。何か理由があるの?」
「それは……」
北川の登場は、女性たちをざわつかせた。そんな彼と私が同じ課になったことを、きっと太田は快く思っていない。だからこそ、間違っても太田には、北川が元カレであることを知られてはいけないと思う。
北川はしばらく考え込むような顔をしていたが、納得したように頷く。
「分かったよ」
彼は悪戯っぽい顔をして続ける。
「だけど、二人きりの時には昔のように呼ぶよ」
私は苦笑する。
「二人きりになる時なんてないわ。さ、今度こそ戻らなきゃ。斉藤さんの仕事、区切りがつく頃だろうから」
廊下に出てオフィスに向かう。歩きながら、私はちらりと隣を歩く北川に目をやった。
滑らかな顎のラインにどきりとする。同時に、葬ったはずの甘酸っぱい想いがこみ上げてくる。
そして気づいてしまった。私はまだこの人が好きらしい。二人で話す時間を作ってほしいと言われた時、戸惑いながらも実は嬉しいと思ってしまった。
けれど、このことは自分の胸だけに納めておこうと思う。彼の言葉の端々に私への想いが紛れ込んでいると感じたとしても、である。北川が引きずっていたのは私との別れ方であり、私への気持ちではないのだと、自分に強く言い聞かせる。
そして北川への気持ちも、太田には絶対に悟られてはいけない。太田には近いうちに別れを告げるつもりでいるが、だからこそ、太田と私の問題に北川を巻き込みたくはない。
「笹本さん?」
北川が不思議そうに私を呼ぶ。考え事に気を取られてしまったせいで、いつの間にか彼と離れてしまっていたようだ。私は気を取り直して、歩調を速めた。