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北川の歓迎会は、彼が転職してきた翌週半ばに管理部全体のものとして行われた。
もしも太田が私たちの関係に気づき、北川に絡むようなことがあったらどうしようかと心配だったが、そういうこともなく、飲み会は無事に終わった。
総務課の同僚たちから二次会に誘われたが、私は断った。平日である上幹事役だったし、一次会で気を遣いすぎて疲れてしまった。田苗は夫が迎えに来ると言って、帰り支度をしている。結局、男性同士で二次会に行くことにしたらしく、北川を真ん中にして彼らは明るい繁華街へと消えて行った。
田苗を見送って、さて帰ろうかと思っているところに、太田が声をかけてきた。少し酔っぱらっているようだ。
「笹本は総務の二次会、行かないの?」
「え?えぇ」
私はぎこちなく笑う。別れを告げようと思い始めてからは、以前のようには笑えなくなっている。
「この後一緒に飲みに行きたかったのに、今日は無理だな」
「仕方ないですよ。経理も二次会ですよね?」
「あぁ」
「おい、太田!二次会行くぞ!」
「はい、今行きますよ!……送っていけないけど、気をつけてまっすぐ帰れよ。家についたらメッセージ入れるの、忘れるなよ。心配だから」
「分かってます。ほら、課長が呼んでる。行ってらっしゃい」
「あぁ。明日の夜にでも、どこかで食事しよう」
太田は私の返事を待たずに、自分を待つ一団に向かって大股歩きで向かって行った。
彼らの姿が見えなくなってから私はため息をつき、スマホの時計で時刻を確かめた。帰るつもりでいたが、やはり、このまま帰るにはなんとなく物足りない。軽くゆっくり飲み直してから部屋に帰りたい気分になった。それならば、と私はリッコに足を向ける。
店に着いて中に入って行くと、池上の明るい声が飛んできた。私を見るなり、おやっと目を見開く。
「平日なのに、珍しいんじゃない?」
「今日はこの近くで会社の飲み会があったんです。それで寄ってみました」
池上に答えながらいつものようにカウンター席を目指し、その手前で足を止めた。
「あれ?清水さん?」
私の声に清水は驚いたように振り向いた。
「碧ちゃん?平日に会うなんて珍しいよなぁ。元気だった?一緒に飲もうぜ」
清水は自分の荷物をよいしょと移動して、いそいそと場所を空ける。
腰を落ち着かせた私に、池上がオーダーを訊ねる。
「史也のボトルから飲む?それとも、何か他に作ろうか?」
「それじゃあ、オレンジフィズって大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。ちょっと待っててね」
「はい」
池上に答えてから、清水に向き直る。
「清水さんって、平日も来てることがあるんですね。まさか会うとは思わなかった」
「それを言うなら、碧ちゃんだって珍しいよね。会社の飲み会だったって?」
「はい。幹事だったから、あんまりゆっくりできなくて。帰るつもりだったんですけど、やっぱりこのまま帰るのもつまらないなって思って、来てみたんです」
「碧ちゃんべったりの彼氏は?」
「彼は課の二次会に行きました」
「一人で飲みに来たりして大丈夫なのか?」
「私だって、一人で飲みたい時もあるんです」
清水の眉根が微かに寄せられた。しかしそれはすぐに元に戻る。彼はにっと笑った。
「ま、いいや。久しぶりに碧ちゃんに会ったんだ。楽しく飲もうぜ。乾杯!」
他愛のない話をしながら清水とグラスを傾けあって、小一時間ほどが過ぎた。
太田からメッセージを入れておくように言われていたことを思い出す。恐る恐る見た携帯の画面には、何の通知もなく、ほっとする。
今のうちにひと言送っておこうと、そそくさとメッセージを打ち込み、送信する。その時、店のドアが開いた。新たな客だ。
「いらっしゃいませ!」
少し離れた場所にいた池上が大股歩きでその客の方へと向かう。
「お一人ですか?」
低い声が「そうだ」と答える。
「カウンター席でもいいですか?……あれ?」
池上の声が途切れたかと思ったら、驚いたような声が続いた。
「あれっ?もしかして、拓真君?久しぶりだなぁ。元気だったか?よく来てくれたね」
耳に飛び込んできた名前にどきりとする。そっと首を回して清水越しに見たそこに、北川がいた。私は慌てて手元に目を落とす。胸がどきどきし始めた。
「碧ちゃん、どうした?酔っぱらっちゃった?」
「だ、大丈夫です」
笑ってごまかし、グラスに口をつけた。
池上が私たちに声をかけてよこす。
「史也、碧ちゃん、そこの席に一緒でもいいよね?」
「全然構わないですよ。いいよね?」
問われて返事に詰まる。
清水が不思議そうに私を見た。
「どうかした?」
「え?いえ、なんでもないです。どうぞ、どうぞ。あのぉ、私はそろそろ帰るので……」
「えっ、なんで?まだいいでしょ」
清水は不満な顔で私を引き留めた。
しかし私はそそくさと荷物をまとめ始める。
「でももう、それなりに飲んだから……」
その間に北川は私の隣に座ってしまった。
挨拶すべきかどうか迷っていると、彼の方から先に声をかけてきた。
「お疲れ様です」
「お、お疲れ様です……」
帰るきっかけを失ってしまった。私はやむを得ず挨拶を返しながら、一度持った荷物を椅子の背に置き、再び腰を下ろす。
「見覚えのある後ろ姿だと思ったら、やっぱり笹本さんでしたね」
「はぁ……」
彼なりの気遣いだろうと分かっていながらも、苗字で呼ばれて少しだけ寂しい気持ちになる。池上と清水は私にとって親しい人たちだ。その二人の前でなら名前で呼び合っても構わないのに、と勝手に拗ねた気分になった。
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