コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
北川の歓迎会は、彼が転職してきた翌週半ばに管理部全体で行われた。もしも太田が私たちの関係に何かに気づき、北川に絡むようなことがあったらと心配していたが、そういうこともなく、その飲み会は無事に終わった。
総務課の同僚たちから二次会に誘われたが、私は断った。平日である上幹事役だったし、一次会で気を遣いすぎて疲れてしまった。田苗も夫が迎えに来ると言って帰り支度をしている。結局残った男性同士で店を変えることになったらしく、解散の挨拶をした後、北川は彼らに囲まれるようにしてギラギラと明るい繁華街へ消えて行った。
経理課は全員で二次会に流れることになったらしい。
田苗を見送ってから店の前でどうしようかと少し考えていたら、太田が声をかけてきた。少し酔っぱらっているようだ。
「笹本は総務の二次会、行かないの?」
「え?えぇ」
私は短く答え笑顔を見せた。別れを告げなければと思い始めてからはもう、ぎこちない笑顔しか作れなくなっている。
「この後一緒に飲みに行きたかったのに、今日は無理だな」
「仕方ないですよ。経理は体育会系ですしね」
「まぁな」
「おい、太田!行くぞ!」
「はい、今行きますよ!……送っていけないけど、気をつけてまっすぐ帰れよ。家についたらメッセージ入れるの忘れるなよ。心配だから」
「分かってます。ほら、課長が呼んでる。行ってらっしゃい」
「あぁ。明日の夜にでも、どこかで食事しよう」
太田はそう言うと、私の返事を待たずに自分を待つ一団に向かって大股歩きで近づいていった。
彼らの姿が見えなくなってから、私はふうっとため息をつき、携帯で時間を確かめた。このまま帰るにはなんとなく物足りない。太田からはまっすぐ帰れと言われたが、ゆっくりと飲み直してから部屋に帰りたい気分だった。
「リッコ、寄って行こうかな」
リッコは管理部門の皆が消えて行った繁華街の一角にある。しかし、会社の誰かと店で会ってしまうとは考えにくい。
「行ってみよう」
私はリッコに足を向けた。
店に着きドアを開けて入って行くと、池上の明るい声が出迎えてくれた。私を見るなり、おやっという顔をした。
「平日なのに、珍しいんじゃない?」
「今日はこの近くで会社の飲み会があったんです。だから寄ってみました」
池上に答えながらいつものようにカウンター席に向かい、私は足を止めた。
「……清水さん?」
私の声に清水は驚いたような顔を向けた。
「え、碧ちゃん?平日に会うなんて珍しいなぁ。元気にしてるのかなって思ってたところだったんだよ。久しぶりだ、一緒に飲もうぜ」
清水は自分の荷物をよけて、いそいそと私の席を作ってくれる。
私が腰を落ち着かせるのを見て、池上はオーダーを訊く。
「史也のボトルから飲む?それとも、他の作る?」
「それじゃあ……。オレンジフィズってできますか?」
「あぁ、大丈夫だよ。ちょっと待っててね」
「お願いします」
池上に軽く頭を下げてから、私は清水に向き直った。
「清水さんって、平日も来てることがあるんですね。まさか会うとは思わなかったなぁ」
「それを言うなら、碧ちゃんだって珍しいでしょ。会社の飲み会だって?」
「はい。幹事だったからあまりゆっくりできなくて。このまま帰るのもつまらないから、寄ってみたんです」
「碧ちゃんべったりの彼氏は?」
「彼は課の二次会に行っちゃいましたから」
「一人で飲みに来たりして大丈夫なのか?」
「……私だって一人で飲みたい時もあるんです」
「ふぅん?」
清水の眉根が微かに寄せられたと思ったが、それはすぐに元に戻り、彼はにっと笑った。
「ま、いいや。久しぶりに碧ちゃんに会ったんだ。楽しく飲もうぜ。乾杯!」
他愛のない話をしながら清水とグラスを傾けあって、小一時間ほどたった。太田にメッセージを入れておくように言われていたことを思い出す。画面を開くのをためらいながら見た携帯には何の通知もなく、ほっとする。
今のうちにひと言送っておこう――。
そそくさとメッセージを打ち込み、送信した時だ。店のドアが開き、新たな客が入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
テーブル席にいた客に注文の品を置き終えた池上が、大股歩きで出入り口へと向かう。
「お一人ですか?」
ドアの方で、そうだと低い声が答えている。
「カウンター席でもいいですか」
そう訊ねる池上の声がふっと途切れたかと思ったら、続いて驚いたように声のトーンが上がった。
「なんだよ、拓真君じゃないか!久しぶりだなぁ。元気だったか?よく来てくれた」
拓真君――?
耳に入ったその名前にどきりとした。そっと首を回して清水越しに見たそこにいたのは、北川だった。私は慌てて手元に目を落とす。胸がどきどきし始めた。
「碧ちゃん、どうした?酔っぱらっちゃった?」
「だ、大丈夫です」
笑ってごまかし、グラスに口をつけていると、マスターが私たちに声をかけた。
「史也、碧ちゃん、そこの席に一緒でもいいよね?」
「全然構わないですよ。いいよね?」
清水に問われて私は答えに窮した。彼の初出社の日に申し合わせた通り、もともと知人だという素振りを見せないようにと、互いに気を付けて会社では振舞っている。しかし会社以外の、どうやら北川のことを知っている人がいる場で顔を合わせるのはこれが初めてで、その場合どういう態度を取ればいいのかは考えていなかった。
清水が不思議そうに私を見る。
「どうかした?」
「え?なんでもないです。どうぞどうぞ。あの、私はそろそろ帰るので……」
「えっ、なんでだよ。まだいいでしょ」
不満そうな顔の清水に引き留められたが、私はそそくさと荷物をまとめ始める。
「でももう、それなりに飲んだから……」
そんなことを言い合っている間にも、北川はカウンター席に座ってしまう。椅子を一つ分しか空けない隣にだ。
挨拶すべきかどうか迷っていたら、北川の方から声をかけてきた。
「見覚えのある後ろ姿だと思ったら、やっぱり笹本さんでしたね。お疲れ様です」
「お疲れ様です……」
帰るきっかけを失った。挨拶を返しながら、私は荷物を再び椅子の背に戻した。
彼なりの気遣いだろうと分かっていながらも、苗字で呼ばれて少しだけ寂しい気持ちになっていた。池上と清水は私にとっては親しい人たちだ。その二人の前でなら名前で呼び合っても構わないのに、と勝手に拗ねた気分になる。
彼は今、私の隣にいて何を思っているのだろうとその横顔を窺い見たが、感情は読み取れなかった。それにしても、総務の二次会に行ったはずだが、早く終わったのだろうか。
私の表情から何を聞きたいのかを察したらしく、北川は苦笑を見せた。
「今野さんがだいぶ酔ってしまって、それで早々に解散となったんです」
「なるほど……」
今野はお酒が強いはずだったが、珍しいこともあるものだ。
清水は、会話の様子から私たちが知り合いだとすぐに気づいたようだ。早速身を乗り出すようにして北川に話しかけた。
「碧ちゃんとは、会社関係のお知り合いなんですか?」
北川は私をちらりと見てから、清水に笑顔で答えた。
「同僚なんです、同じ課の。私は北川と言います。よろしくお願いします。まだ名刺ができていなくて、お渡しできなくてすみません」
「いえいえ、お気遣いなく。そっか、碧ちゃんの同僚さんなんですね。俺は清水です。碧ちゃんとは飲み友達で、仲良くしてもらってるんですよ。ね、碧ちゃん」
急に相槌を求められて私は焦る。
「そ、そうなんです」
「笹本さんは、このお店には一人でよく来るんですか?」
北川は相変わらず穏やかな声で私に訊ねる。
単なる世間話をしているだけなのに、どきどきしてしまうのはどうしてだろう。
「そうですね。ここは居心地がいいので……」
「ねぇ、池上さん、北川さんとはどういう知り合い?やっぱ、店関係とか?」
池上は北川の前にグラスとナッツの入った小皿を置いた。
「俺が前にいた店に、よく来てくれていたんだ。もう何年も顔を見てなかったから、俺のことなんかもう忘れたのかと思ってたんだけどね。また会えて嬉しいよ」
「ごぶさたしちゃって、本当にすみませんでした」
北川が申し訳なさそうに池上に頭を下げた。
「大学を卒業してからは、こっちを離れてて。だから、池上さんがこのお店を開いたって話も知らなかった。少し前に用があってこっちに戻って来た時に、池上さんが前にいたお店に行ってみたんです。その時になって初めて、ここを開いたことを知った次第で……。長年不義理をしてしまいました」
「いやいや、こうやってまた来てくれたんだ。ありがたいって思ってるよ。――それで、拓真君は今、碧ちゃんと同じ会社で働いているのか」
「同じ課にいて、笹本さんには色々と教えてもらってます。同僚というよりは先輩かな。彼女、とてもしっかりしていて、頼りがいがあるんですよ」
「そうなんだ。なんにしても、これを機にぜひまた来てもらえたら嬉しいよ。今度は碧ちゃんとでも一緒に」
「はい、ぜひまた来ようと思ってます」
北川は笑みを浮かべ、それから私を見た。
「その時は、笹本さん、ぜひ付き合ってください」
昔を思い出させるような彼の笑顔にどきりとしてしまう。
「は、はい……」
清水は私たちのやりとりを黙って眺めていたが、ぼそっとつぶやいた。
「もしかしてさ……」
「何?」
聞き返す私に、清水はくすっと意味ありげな笑みを投げてよこしたきり、何も答えない。
「さてと、そろそろ帰ろうかな」
「それなら私も……」
「もっとゆっくりしていけば?」
池上も清水もそう言ってくれたが、色々な意味で心の準備ができていない今、北川の隣では落ち着かない。
「十分ゆっくりしたから」
「だったら、途中まで一緒のタクシーで帰ろう」
「私は自分でタクシー拾って帰りますから、清水さんこそゆっくりしていってください」
「いや、今夜は俺ももう帰るよ。池上さん、碧ちゃんの分と一緒にお会計よろしく」
清水は財布を取り出し、池上にお金を渡した。
出遅れたと思いつつ、私は清水に本気ではない文句を言う。
「いつも自分で払うって言ってるのに。池上さんも、受け取らないでくれればいいのに……」
「碧ちゃんの飲み代なんて、俺と比べたら微々たるもんなんだからいいんだよ。それじゃあ、北川さん、俺たち先に失礼しますんで。どうぞごゆっくり」
清水は北川に笑いかけてからすっと席を立ち、私を促した。
「行こうか」
「は、はい」
私は慌てて立ち上がり、清水の後を追おうとして足を止めた。清水が私の彼氏だと、北川が変に誤解していないといいけれど、とつい気を回してしまう。北川がそんな誤解をするはずもないのにと内心で苦笑しながら、私は固い笑顔を彼に向けて会釈した。
「北川さん、すみません。お先に失礼します」
「えぇ。また明日会社で……」
顔を上げた瞬間、北川と目が合った。名残惜しいように見えたのは、私の願望か。
彼は目元を優しく緩め柔らかい声で言った。
「気をつけて」
胸の奥がきゅっと疼いて切なくなった。その気持ちを気づかれないように、私は急いで彼に背を向けて、清水の後を追って店を出た。
清水は階段手前の手すりに寄りかかり、私を待っていた。
「本当は、もう少し北川さんといたかったんじゃないの?」
清水は私の顔を見るなりそんなことを口にする。
「何を言い出すのかと思えば……。だって毎日会社で会う人ですよ」
「少なくとも北川さんの方は、碧ちゃんともうちょっと一緒にいたいような顔してたけどなぁ」
「そんなことないと思いますけど」
もしそれが本当なら嬉しいとは思うが否定する。
「そうかなぁ。碧ちゃんと親しげな俺のこと、『なんだこいつは』って思ってたみたいだぜ」
清水はまだそんなことを言っている。
私は肩をすくめた。
「気のせいですよ。それより、早くタクシー拾いましょ」
彼の先に立って大通りに出たところで、空車のタクシーが走ってきたのを発見する。
「お、グッドタイミングだな」
私たちは運よくつかまえたタクシーに無事に乗り込み、それぞれに行き先をドライバーに告げる。
車に揺られながら私は北川の顔を思い浮かべ、彼と池上の会話を思い出していた。だいぶ端折られた内容だったけれど、そこから北川の過去に思いを巡らせる。
私の知らないその数年間、彼はどんな時をどんな人たちと過ごしたのだろう。その間、どんな女性と出会ったのだろう。あんなに素敵な人だ、きっと周りの方が放っておかなかったと思う。彼は私との別れ方をずっと引きずっていたようなことを言っていたけれど、それは誰とも付き合わなかったという意味と同じではないはず。
彼は「前に進みたい」、「区切りをつけたい」と言っていた。その言葉から想像した時、私がそう思ったと同じように、北川もまた、改めて新しい恋に踏み出そうとしているのかもしれない……。
そう思ったら、胸の奥にひりひりとした痛みを感じた。