急いで靴を履き替えた大野たちが校庭につくと、使いたかったはずの第二校舎とサッカーゴールに囲まれた運動場の一角は既に上級生のグループの手に渡っていた。
「ちっ…‥遅かったか。」
こちらを一瞥してニヤリと笑う上級生を強く睨み返しながら、悔しそうに折原 大輝は呟いた。
「あいつらの方が土間が近いからって占領しやがって……!」
「なあ、今からどうする?バレーボールでもするか?」
大野の提案に皆は苦々しい表情を浮かべる。
当然だ……なぜならこのところ、体育の着替えの間を狙った僅かなタイミングを除けばずっと場所を取られ続けているせいで、他の遊びには皆飽き飽きしているのだ。
「バレーボールか……まあそれぐらいしかないよなぁ。あぁ、やろうぜ。バレーボール。」
折原の発言に、皆が頷いた。
大野たちは渋々ながらも適切な距離をとりながら円形に広がると、準備ができたことを確認する軽い合図の後に、最初にボールを持っていた一人が声とともに高くパスを上げる。
“うちの学校さ、ボール蹴るの禁止なんだよ”
転校してすぐの休み時間に、その事実は大野にも伝えられた。
“え、なんでだ!?あんなサッカーゴールまであるのに禁止なんて……!”
“さあな、ずっと前に怪我した奴でもいたんだろ。おかげで今や、あれを使えるのはサッカー部の特権だよ。”
運動場の真ん中にそびえ立つ立派なサッカーゴールを忌々しげに見つめる折原には、大野も同感だった。
体育の授業で使いがちな移動式の小型のゴールとはわけが違う。
もしもあの広大なコートを使って皆でサッカーができたならさぞ盛り上がることだろうに……。
“部活かー。折原は入るのか?サッカー部”
“いや。俺は塾で忙しいからさ。大野は入るのか?”
“俺はいいかな。先輩との上下関係とか、なんかおっかないし”
誘われて行った体験入部で真っ先に目に入ったのは、現五年生を見る六年生の居心地の悪い視線の数々だった。
……あんなのに入ったらろくなサッカーをできないにきまっている。
自由なサッカーを愛する大野にとって、あれを見てなお入部しようとする奴の気が知れなかった。
“酷いな。山川とかサッカー部入るって言ってるのに”
大野の話を聞いた折原は口ではそう言いつつも、どこか思いある節はあるように苦笑いを浮かべた。
「あ、やっと来た!」
「遅いぞ、要!」
「ごめん……皆どこにいるのかわかんなくて……。」
遠くから走ってくる人影を見つけた一人が叫ぶと、パスを中断した皆は口々に不満を並べはじめる。
肩で息をした要が大野たちに合流したのはまもなくのことだった。
大野は要が入る場所をあけながら、いつまでも彼を責めるクラスメイトたちをなだめた。
まあまあ、休み時間はまだ半分以上残っているのだしいいじゃないか……その言葉を聞いた彼らは不本意ながらも大人しく引き下がった。
「ありがとう、けんいちくん。」
「別に。でも要だってもっと早く来れてたら、 あいつらに場所を取られなかったかもしれないんだぜ。」
交渉にしろ抗議にしろ、数が多い方がずっと有利だ。
そうだそうだ、と続く声に「ごめん……」と要が俯く。
大野が驚いた「けんいちくん」呼びも、後日彼が普段から誰に対しても下の名前に「くん」や「さん」をつけて呼ぶことを知ると、そういうものなのかとしだいに疑問に思うこともなくなっていたのだった。
それより続けようぜ、と折原が口を開くと、要を加えた輪の中心でボールは再び高く上がる。
こうして再開したバレーボールは皆さすがに慣れているだけがあって、なかなかパスが途切れることはなかった。
「あ、チャイムだ。持って帰るのは最後にボール持ってる奴に決まりな!」
パスを投げた折原の大声に「やめろよ」と行き場を失ったボールが大野たちの間を点々と行き交う。
「要、遅れた罰として責任待って片付けろよな!」
「そんな……!嫌だよ、毎回ずっと僕ばっかり!」
「でも今日はお前が悪いじゃん」
「こんな奴おいて早く行こうぜ」
「行こう行こう」
「じゃあよろしく、要!」
「よろしく!要も急がないと、今度は授業に遅れるぜ?」
笑いながら乱暴にボールを投げ渡された要は 一縷の望みをかけてけんいちの方を見るも、彼の姿は既にそこにはなかった。
俯いて手元のボールを見つめる要の目に一層深い影がさすも、それに気づく人は誰もいない。
一方でほとんど先頭に近い位置で走る大野は、折原が最初に声を上げた時点で後片づけ争いからは隙をみていち早く抜け出していたのだった。
後を追うべく仕方なく走り出した要は、転校生というイレギュラーをもってしても変わらない悪しき風習を嘆きつつ、しかしそれも結局のところ受け入れるしかないことに気づき始めていた。
こんな自分でも仲間に入れてくれることに恩義を感じていないわけではないが、今年もまた長い一年になることだろう……。
それは要にとって静かな絶望に等しかった。
「え、東京のお土産?」
別の日の昼休み、意外そうに聞き返した折原に「あぁ」と大野は頷いた。
「清水にいる友達にお土産を送りたくてさ。東京と言えばこれーーみたいなやつ、何かないか?」
できれば美味しくて日持ちするやつで頼む、と手を合わせる大野に「強欲だなぁ」と折原は呆れ気味に笑う。
「気持ちはわかるけど俺も東京のお土産のことはほとんど知らないんだよな。普段食べることないし。だからわかんないけどデパートとかで店員さんに聞くのがいいんじゃないか?」
「そうか……。」
私たちが考えるよりお友達の方が詳しいんじゃない?と母さんに言われて聞いてみたが、どうやら振り出しに戻ってしまったようだ。
こうなっては仕方がない…… 本来の予定通り、今度デパートにでも母さんと選びに行くとしよう。
「わかった。ありがとな、折原。」
「力になれなくて悪いな……そうだ、大野」
その場を去ろうとした大野を呼び止めた折原は「お前のいた清水って何があるんだ?」と続けた。
「馬鹿にしたいわけじゃないんだ。ただ前から少し気になってて……浜松なら俺もなんとなく知ってるんだけどさ。」
ウナギとか、楽器とか……と挙げる折原に「よく知ってるな……!」と大野は驚いて声をあげた。
一緒に過ごしていてわかったのは、折原は口は悪いが根は真面目で、運動と同じくらい勉強も得意な奴だということだった。
運動の方はわからないが、なんでもできると思っていた彼が実は努力を積み重ねるタイプの人間であることを知った時、大野は驚きと尊敬で胸がいっぱいになったのをよく覚えている。
自分だったら住んでもいない県のことなんてどこの都市であろうとわかるはずがないのに、すごい違いだ。
「清水か……俺の住んでいたところだと巴川って大きい川があって、あとは公園とか商店街とかーー神社もあるな。」
「そうなんだ。なんか楽しそうでいい所だな。」
「まあな。本当に、楽しいところだったよ。」
楽しいところ“だった”……かつては現状を嘆くためだけだった悲愴な言葉は、大野が思っていたよりも爽やかな響きだった。
少しの沈黙の後、ハッと気がついた大野を折原が責めることはなかった。
その後、いろいろと悩みながらもデパートで勧められて買ったクッキーの詰め合わせは、大野が書いた暑中見舞いの葉書と共に清水にある杉山の家へと届けられた。
「ケンちゃん、届いてるわよ!杉山くんからの手紙!」
夏休みも始まったある日、公園で友達と走り回ったけんいちが家に帰るとダイニングテーブルの前に立つ母親が大きな声で呼び止めた。
はい、と手渡された葉書を受け取ると、久しぶりに見る懐かしい筆跡が遠く離れた彼の近況をささやかながら伝えていた。
「クッキーありがとうだって……へぇー、杉山は二組になったんだ!運動会は応援団やったんだって!……ケンタもサッカー部に入って頑張ってるってさ!」
「二人ともすごいわねぇ」
母親の方を見たけんいちがテーブルの上のダンボールに気がついて尋ねると、中身は一緒に届いたお茶の缶だという。
「なんだか清水に帰ってきたみたいだな……!」
「お父さんも帰ってきたら一緒にいれましょうね。」
手紙の最後ではせっかくの機会だが今年は会いに行けそうにないことを杉山は嘆いていたが、大野にはその気持ちだけで十分嬉しかった。
たとえ会えなくても、向こうで元気に過ごしているのならそれでいいのだ。
ただ今はいつか来る日を待ち遠しくしていようじゃないか……葉書をしまおうとして引き出しを開いた大野は春に届いた手紙が目に入ると懐かしさに目を細めたのだった。
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