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第188話「結界の亀裂」
【異世界・転移した学園/体育館内・朝】
レアの箱に走った亀裂は、細かった。
指でなぞれば消えてしまいそうな、光の歪み。
だが、そこにいる全員が分かった。
これは、ただの揺れではない。
ダミエの外箱が、初めて傷を見せた。
サキは、転がりかけた光具を押さえたまま息を呑む。
「……今の」
ダミエが低く言った。
「見るな。作業に戻れ」
「でも」
「戻れ」
強い声だった。
だが、いつもの冷静さとは違う。
焦りを押し殺している声だった。
レアは箱の中で、亀裂のあたりをじっと見ている。
「きれい」
サキが顔を上げた。
「きれいじゃない」
「うん」
レアは小さく頷く。
「でも、外の光が少し見えた」
ダミエの指が動く。
外箱の光が、きゅっと締まった。
亀裂は一瞬だけ細くなる。
だが、完全には消えない。
イヤーカフからノノの声が飛ぶ。
『ダミエ、締めすぎないで!』
『今の締め方だと、負荷が全部そっちに戻ってる!』
「分かっている」
『分かってるなら、外側の受け皿に逃がして!』
『箱を閉じるんじゃなくて、揺れを逃がす!』
サキはすぐに動いた。
「右の光具、もう少し外へ出すね」
先生の一人と一緒に光具をずらす。
床の白い光が、箱に直接向かうのではなく、外側で円を描いた。
その円が揺れを受け止め、外へ逃がす。
亀裂の線が、ほんの少しだけ薄くなる。
『そう、それでいい』
ノノの声が入る。
『外側の受け皿、機能してる』
『でもまだ弱い。校庭からの衝撃が続くと持たない』
外では、また重い音が響いた。
ドン。
ドン。
ドン。
一撃ごとに、体育館全体が震える。
生徒たちは中央に集められ、先生たちが必死に落ち着かせている。
「大丈夫、中央にいて!」
「窓を見ないで!」
「手を離さないで!」
その声の下で、レアは静かに言った。
「外も、中も、揺れてる」
サキは振り返る。
「今は黙ってて」
「黙ってても、亀裂は消えないよ」
「それでも黙ってて」
サキの声は、思ったより強く出た。
レアは少しだけ目を丸くし、それから薄く笑う。
「サキ、怒るんだ」
「怒るよ」
サキは光具を押さえたまま言った。
「怖いから。みんなを守りたいから。あなたにも、今変なことしてほしくないから」
レアはしばらく黙った。
その目は、亀裂ではなくサキを見ていた。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
校庭では、土がえぐれ、黒い霧が地面を這っていた。
ハレルは主鍵を握りしめ、ジャバの拳を受け止める。
リオはその横で、副鍵の光を細く伸ばし、体育館へ向かう影獣の進路を削っていた。
影獣は倒してもすぐ形を戻す。
完全な生き物ではない。
黒い影の塊が、獣の形を借りているだけだ。
脚を切れば影が伸びて繋がり、腕を落とせば背中から別の腕が生える。
リオが息を切らしながら言う。
「きりがないな」
ハレルも荒い息で答える。
「本体を止めるしかない」
二人の視線がジャバへ向く。
ジャバは、楽しそうに首を鳴らしていた。
「おいおい、俺ばっか見るなよ」
「守るもんが多いんだろ?」
ジャバが指を鳴らす。
猪型が体育館へ。
狼型が校舎側へ。
猿型が屋根へ。
三方向同時。
ハレルは主鍵の光を広げそうになった。
だが、歯を食いしばって止める。
広げるな。
全部を覆うな。
一点を決めろ。
半界反転のあと、ノノ、セラ、リオ、ダミエ、
遠隔のアデルから受けた助言が頭の中で重なる。
ハレルは、まず猪型を見た。
体育館へ届く直前。
その足元だけ。
「一点固定――〈固定界〉!」
白い光が、地面に小さく立つ。
猪型の前脚がそこにぶつかり、進路がずれた。
真正面から体育館へぶつかるはずだった影獣は、横へ滑って校庭の土を削る。
だが、猿型が屋根へ跳んだ。
リオが叫ぶ。
「上は俺がやる!」
副鍵の光が細く伸びる。
大きな刃ではない。
猿型の腕、その肘だけを狙う細い光。
「〈光刃・第三級〉!」
腕が切れ、猿型が体勢を崩す。
そこへ狼型が校舎側から回り込む。
ハレルが一瞬遅れる。
ジャバが笑った。
「遅い!」
狼型が校舎の窓へ向かう。
その瞬間、校舎側から別の光が走った。
王都から送られた術師たちの結界だ。
狼型の爪が結界を裂く。
だが、速度は落ちた。
ハレルがすぐに固定界を打ち込む。
「一点固定――〈固定界〉!」
白い杭のような光が、狼型の肩を受け止める。
リオが横から踏み込み、光刃で首元を切る。
黒い影が散った。
それでも、狼型はまだ消えない。
リオが舌打ちする。
「しぶとい」
ジャバは笑う。
「そいつらはな、残った場所の影を食って濃くなってんだよ」
「駅も、学園も、まだ半端だろ?」
「半端な場所は、影が居座りやすいんだ」
ハレルは睨む。
「だから戻す」
「戻せるといいな」
ジャバの目が、黒く濃くなる。
「その前に、中の箱が割れなきゃな」
その言葉に、ハレルの表情が変わった。
ジャバはそれを見て、にやりと笑う。
「やっぱり、気にしてるか」
次の瞬間、校庭の亀裂がもう一歩、体育館側へ伸びた。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館内・朝】
体育館の床に、黒い線が走った。
床が割れたわけではない。
校庭側から伸びてきた黒い影の圧が、ひびのように床を這っている。
生徒たちが悲鳴を上げる。
「何あれ!」
「こっち来る!」
先生たちが必死に声を張る。
「中央から動かない!」
「名前を呼び合って!」
サキも叫んだ。
「みんな、名前を呼んで!」
「友だちの名前! 先生の名前! 自分の名前でもいい!」
「役割じゃなくて、名前!」
生徒たちは泣きながらも声を出す。
「高橋先生!」
「ミナ!」
「ユウタ!」
「サキさん!」
サキの名前も混じった。
サキは一瞬驚いたが、すぐに頷く。
「うん、ここにいる!」
名前の声が重なると、黒い線の進みがわずかに鈍った。
ダミエが歯を食いしばる。
「名前で弱まるなら、続けろ」
ノノの声が入る。
『体育館内の役割ノイズ、抑制確認』
『名前確認が効いてる』
『でも、レア外箱の亀裂は拡大傾向!』
サキがレアの箱を見る。
さっきの細い亀裂が、少しだけ伸びている。
レアは、そこへ指を近づけていた。
「レア、触らないで!」
レアは指を止めた。
「触ってないよ」
「触ろうとしてた」
「見てただけ」
「嘘」
レアはサキを見る。
「サキは、私が外に出たら困る?」
「困る」
サキは即答した。
「怖いから?」
「怖い」
サキはまた即答した。
「でも、それだけじゃない」
レアの目が少しだけ動く。
「じゃあ、何」
サキは息を吸った。
外では、また衝撃。
体育館が揺れる。
生徒たちが名前を呼び合う。
ダミエが箱を支える。
その中で、サキはレアを見た。
「あなたが今出たら、たぶん自分で選んだつもりでも、ジャバやパイソンに利用される」
「それが嫌だから」
レアは黙った。
サキは続ける。
「前に、自分の言葉か分からない時が怖かったって言ったでしょ」
「今出たら、またそうなるかもしれない」
レアの笑みが、少しだけ消える。
「……覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
レアは亀裂へ視線を戻す。
「でも、箱の中にいるだけでも、私は誰かの役割のままだよ」
その言葉に、サキはすぐには答えられなかった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺南側/臨時移動導線・朝】
木崎たちは、最後の数人を臨時医療スペースへ入れようとしていた。
背後では、錆びた街灯が倒れ、仮設ゲートが崩れ、標識が赤茶けた粉を落としている。
ラストは一度見えたきり、また姿を消していた。
だが、錆は近い。
日下部の声がイヤホンから入る。
『木崎さん、出口側の金属反応、さらに増加』
『医療スペースの裏側にも回り込んでいます』
「裏から潰す気か」
『はい』
『ですが、錆の進み方に偏りがあります』
「偏り?」
『固定された金属には速い』
『移動している光には遅い』
『手持ち灯の三点交差内では、錆の到達が遅れています』
木崎はすぐに周囲を見る。
警官が三人、手持ち灯を持っている。
その光の三角形の中を、人々が通っている。
「つまり、光を動かし続ければ、錆は追いつきにくい」
『そうです』
『ただし、止まった瞬間に追いつかれます』
「休ませる気がないな」
そこへ城ヶ峰の声が入る。
『残り何人だ』
「六人」
木崎は答えた。
「あと六人で医療スペースに入る」
『入れたら導線を破棄しろ』
『樹脂マットも置いていくな』
「了解」
最後の六人が進む。
名前確認。
手持ち灯。
樹脂マット。
背後で、道路脇の標識が倒れた。
ガシャンッ!
金属音に、最後尾の少年が振り返る。
「見ない!」
木崎が叫ぶ。
少年は母親に引かれ、医療スペースへ駆け込む。
最後の一人が入った瞬間、木崎は叫んだ。
「灯りを引け!」
「マット回収は諦めろ! 全員下がれ!」
警官たちが手持ち灯を持ったまま後退する。
樹脂マットの一部を残して、導線が崩される。
次の瞬間、錆がマットの周囲の金属片を伝い、さっきまで人が歩いていた場所へ広がった。
遅れていたら、足元を取られていた。
木崎は息を吐く。
「……抜けた」
だが、安堵する間はなかった。
遠くの錆びた街灯の向こうに、ラストが立っていた。
さっきより近い。
警官の制服。
黒と赤錆色の髪。
深い隈。
ラストは、ぼそりと呟く。
「……逃げた」
「でも、道は覚えた」
木崎は低く返した。
「こっちも覚えたぞ」
ラストの目が、わずかに動く。
木崎はカメラを向ける。
「お前が何を追うのか」
「何に遅れるのか」
「少しずつ見えてきた」
ラストは何も言わない。
ただ、足元の錆が少しだけ濃くなった。
城ヶ峰の声が入る。
『木崎、離脱しろ』
『今はまだ戦う時じゃない』
木崎はラストを見たまま答える。
「了解」
今はまだ。
その言葉を、木崎は胸の中で繰り返した。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノの端末には、二つの危機が並んでいた。
現実側では、ラストの錆。
学園側では、ジャバの襲撃。
ノノは画面を切り替えながら言う。
「ラストは、動く光に弱い。固定された金属に速い。
手持ち灯の交差は有効」
別の画面を見る。
「ジャバは、直接壊すより揺らしてくる。
ダミエに負荷を集める。レアの箱に亀裂が出た」
セラが静かに言う。
「この二つは、別々に見えて同じです」
「同じ?」
「はい」
セラは答えた。
「どちらも“支え”を狙っています」
「現実側では、人が逃げる導線」
「学園側では、レアを閉じる結界」
「支えるものを壊せば、中の人は動かざるを得なくなる」
ノノは唇を噛んだ。
「パイソンの考えそうなことだね」
ノノは全体回線を開く。
『全班、聞いて』
『敵は支えを狙ってる』
『現実側は導線、学園側はレア外箱』
『支えを強くするだけじゃなく、揺れを逃がして』
『一点で抱え込まないで』
ハレルの荒い声が返る。
『分かった!』
サキの声も入る。
『こっちは名前確認を続けてる!』
『でも、レアの亀裂が少し伸びてる!』
ノノは目を閉じ、すぐに開く。
『サキ』
『レアと話して』
『逃げるなって命令するより、今出ると利用されるって伝えて』
『レアは、たぶんそこを気にしてる』
少し間があった。
『……分かった』
ノノは画面の亀裂反応を見つめた。
まだ割れないで。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/校庭・朝】
ハレルとリオは、少しずつ追い込まれていた。
ジャバは強い。
それだけではない。
戦い方が荒いようで、狙いは雑ではなかった。
影獣を体育館へ向かわせる。
ハレルに主鍵を使わせる。
リオに副鍵を使わせる。
ダミエに結界を締めさせる。
サキたちに中の生徒を守らせる。
全部が、少しずつ疲労を増やしていく。
ジャバは笑う。
「いいねえ」
「お前ら、守るの上手いじゃねえか」
「なら、もっと守らせてやるよ!」
黒い亀裂から、小型の影獣が数体出てくる。
犬ほどの大きさ。
だが、動きは速い。
校庭を低く走り、体育館の入口へ向かう。
リオが叫ぶ。
「小さいのが来る!」
ハレルは主鍵を握る。
全部は止められない。
なら、入口前の一点。
「一点固定――〈固定界〉!」
白い境界が入口前に立つ。
小型の影獣がそこへぶつかり、弾かれる。
だが、別の二体が左右へ回る。
リオが副鍵を走らせる。
「〈光縛・第二級〉!」
光の紐が一体を絡め取る。
もう一体は、校舎側へ抜ける。
ハレルが追おうとする。
その前に、ジャバが立ち塞がった。
「だから、よそ見すんなって」
ジャバの拳が来る。
ハレルは固定界で受ける。だが、衝撃が重い。
足が滑る。主鍵の光が軋む。
「っ……!」
ジャバが顔を近づける。
「なあ、主鍵持ち」
「全部守るって、疲れるだろ」
ハレルは睨み返す。
「疲れても、守る」
「そうかよ」
ジャバは笑う。
「じゃあ、疲れ切るまでやろうぜ」
その瞬間、体育館の中から、サキの声が聞こえた。
ハレルの心臓が跳ねる。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館内・朝】
レアの箱の亀裂が、さらに少し伸びていた。
ダミエは片膝をつきかけている。
サキが駆け寄る。
「ダミエ!」
「近づくな」
「でも!」
「近づくな。箱が揺れる」
ダミエはそう言いながらも、立っているのがやっとに見えた。
レアは、亀裂の向こうの光を見ている。
サキはノノの言葉を思い出した。
逃げるなと命令するより、今出ると利用されると伝えて。
サキはレアの前に立つ。
「レア」
レアが視線を上げる。
「なに」
「今、外に出ないで」
レアは少しだけ笑う。
「命令?」
「違う」
サキは首を振った。
「お願い」
レアの表情が、わずかに変わる。
サキは続ける。
「今出たら、あなたは自分で選んだつもりでも、
ジャバやパイソンの作った流れに乗せられる」
「あなたが一番嫌がってた、“自分の言葉か分からない”状態に戻るかもしれない」
レアは黙っていた。
外では、また衝撃。
体育館の光具が揺れる。
生徒たちの名前を呼ぶ声が重なる。
サキは声を震わせながらも、続けた。
「箱の中が正しいとは言わない」
「ずっと閉じ込めていいとも思ってない」
「でも、今出るのは違う」
「今の外は、あなたの自由じゃなくて、敵の都合で開いてる」
レアの黒い片目が、少しだけ細くなる。
「敵の都合……」
「うん」
サキは頷いた。
「だから、今は出ないで」
レアは亀裂を見た。
そこから、外の光が少しだけ漏れている。
校庭の黒い気配。
ジャバの圧。
主鍵の光。
生徒たちの名前。
全部が混ざって、亀裂の向こうにある。
レアは、指を伸ばさなかった。
「……サキは、変だね」
「よく言われる」
「誰に?」
「あなたに」
レアは少しだけ笑った。
その瞬間、亀裂の広がりがほんの少し止まった。
ノノの声が入る。
『亀裂の拡大、一時停止』
『サキ、そのまま話して』
『レアの反応が落ち着いてる』
サキは息を吐いた。
だが、そのすぐ後だった。
体育館の外から、これまでで一番大きな衝撃が来た。
床が跳ねる。
光具が一つ倒れる。
結界杭が軋む。
ダミエが咄嗟に手を伸ばす。
「まずい――」
外箱の亀裂が、再び光った。
細い線が、ほんの少しだけ開く。
レアの顔に、外の光が差した。
◆ ◆ ◆
学園の校庭では、ハレルとリオがジャバと影獣を食い止めていた。
体育館の中では、ダミエの結界が限界に近づき、レアの箱の亀裂がわずかに開いた。
現実側では、木崎たちが戻った人々を逃がし切り、ラストの錆の癖を掴み始めている。
どちらの世界でも、支えは長く持たない。
逃げ道。
結界。
主鍵。
副鍵。
名前の声。
それぞれの支えが、ぎりぎりのところで世界を繋ぎ止めていた。
そして、レアの箱に入った亀裂は、もう完全には消えていなかった。
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