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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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見本帳の頁の左に、刷り見本が一枚、糊で貼りつけてあった。
古い紋。四方を囲む子持ち罫。紙は、生成りの厚手の和紙。
右の余白に、父の几帳面な細字が並んでいた。
「大正七年五月 久遠寺家御用 罫紙二千枚
明治様式 旧紋 旧藩士会記念帖用
刷了表示ナシ 先方ノ御指図ニヨル」
私は、ルーペを、刷り見本の左下に当てた。
太い罫の外側に、小さな三角の欠け。
帯から出した罫紙を、頁の横に並べる。欠けの形が、二つ並んだ。
同じ罫で刷った、同じ紙だった。
*
「旧藩士会の、記念帖を作るという話だった」
父は、頁に目を落としたまま、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「先代の御前が、前の年の春に亡くなられた。その御遺徳を偲んで、旧藩士の寄せ書きを綴じた帖を作る。その料紙にする、と」
「注文に来たのは」
「久遠寺家の使いだと、それだけ名乗った」
父は、首を振った。
「夕方だった。表の明かりを落としかけたところへ、二重回しの男が入ってきてな。帽子を目深にかぶったまま、取らなかった。口のききようは丁寧だった。名前を訊いたら、御家の使いでございます、とだけ」
「顔は」
「見ちゃいない。……久遠寺様の御用と聞いて、こっちは舞い上がっていたんだ。旧藩士の端くれが、御本家の記念の紙を刷らせてもらえる。それだけで、胸がいっぱいでな」
父の声が、少し震えた。
「覚えているのは、手だけだ。話しているあいだじゅう、懐中時計の鎖を、指に巻いたりほどいたりしていた。几帳面そうな、白い指だった」
「紋は、明治の頃の古い形にしてくれと、何度も念を押された。今の紋じゃない、先代が若い頃の形だ、と。見本に、明治の頃の古い書付を一枚、持ってきていた。紋の形だけ写させて、すぐに懐へしまったがな」
「刷了表示を入れるな、というのも」
「ああ。記念の帖に、年月の数字などは野暮だから、と。紙も、真っ白な上物じゃなく、少し焼けたような色の和紙にしてくれと言った。古びた趣が出るように、とな」
父は、乾いた笑いを漏らした。
「おかしな注文だとは、思わなかった。御本家の好みだと思った。代金は、その場で、全部現金で払っていった。納めた先も、屋敷じゃない。日本橋の、どこかの貸し倉庫だった」
私は、帳面の頁から、目を離せなかった。
旧い紋。焼けたような色の紙。刷った年月の、入っていない隅。
二千枚の、真新しい、古い紙。
「お父さん」
自分の声が、遠くで聞こえた。
「これは、明治の書類に見せかけるための紙だわ」
父が、ゆっくりと顔を上げた。私は、続けた。
「明治の日付を書けば、誰も、大正に刷った紙だとは思わない。紋も、紙の色も、明治のものに見える。刷った年月さえ入っていなければ、確かめようがない」
確かめようがない。
ただ一つ、刷った店の見本帳と、私の落とした罫の欠けを除いては。
「記念帖は、出来上がったの」
父は、しばらく黙っていた。
「……出来たという話は、聞かなかった。秋の旧藩士会の集まりで、世話役に訊いてみたんだ。あの記念帖はどうなりましたか、と。世話役は、きょとんとしていた。そんな話は知らん、と」
「それで」
「御本家のなさることだ。こっちから、とやかく言える筋じゃない。……そのまま、忘れていた」
父は、両手で顔をこすった。
旧藩士会の名を借りた注文。届け先は、屋敷ではない貸し倉庫。誰も知らない記念帖。
最初から、記念帖など、どこにもなかったのだ。
*
「……あの火事は」
父が、かすれた声で言った。
「大正九年の、二月だった。夜中に、裏の紙置き場から火が出た」
二月。
小夜子様が亡くなったのは、その年の、一月二十日だった。
「火の気のないところだった。消防の人も、首をかしげていた。紙置き場の次に燃えたのが、帳場の棚だ。受注の控えも、得意先の帳面も、何もかも焼けた」
父は、膝の上の見本帳に、そっと手を置いた。
焦げて丸くなった、表紙の角。
「これだけは、寝床の脇に置いていたから、持って出られた」
私は、息を詰めた。
帳場の棚が、焼けた。受注の控えが、焼けた。
そして、もしこの見本帳まで焼けていたら、この罫紙がどこで刷られたものか、知る者は誰もいなくなっていた。
火事の夜、父が火傷を負ってまで抱えて出たのは、ただの思い出の帳面ではなかったのだ。
「すまん」
父が、頭を垂れた。
「俺が刷った紙だ。俺が、得意になって刷った紙だ。それが、おまえの」
言葉が、続かなかった。
「お父さんのせいじゃない」
私は、父の手を握った。火傷の痕の、ざらざらとした手だった。
「活字は嘘をつかん。嘘をつくのは、組む人間だ。……お父さんが、いつもそう言っていたでしょう」
父は、私の手を握り返した。強く、強く。
*
その夜、父が眠ったあとで、私はもう一度、罫紙を広げた。
今度は、字を見るためだった。
横画が、わずかに右上がり。止めで、筆を一度ぐっと押さえる。払いは短い。
けれど、どの字も、半紙の字より、ほんの少しだけ行儀がよすぎる。払いの先まで、一画一画、きちんと止めてある。
家探しのあった夜、散らかった部屋で、最初にそう感じた。あれは、何だったのか。
私は、石油ランプを畳の上に下ろした。
笠を外し、炎を低くする。紙を、灯から斜めに傾けた。
光が、紙の面を、這うように横切る。
擦り出しのときと同じだ。紙の凹凸は、正面からの光では見えない。横から当てれば、影になって浮かび上がる。
墨の線の、すぐ脇に。
細い、細い溝が走っていた。
ルーペを当てる。墨が、溝を覆いきれていないところがある。「流」の字の、さんずいの最後の点。「冬」の字の、払いの付け根。
そこだけ、墨の縁から、鈍い銀色がかすかに覗いていた。
鉛筆だった。
誰かが、まず鉛筆で、字の形を薄くなぞった。それから、その上に墨を置いた。
本物の字を下に敷いて、写し取ったのだ。だから、行儀がよすぎる。書く人の勢いではなく、なぞる人の慎重さで書かれた字だから。
百合絵様の偽の恋文と、同じ手口だった。あのときも、本物の手紙から字を拾って鉛筆で写し、その上を筆でなぞってあった。溝は、斜めの光の中で、同じように細く光っていた。
同じ手口を、私は半年前に自分で見破っている。それなのに、この紙にだけは、灯を斜めにする勇気が出なかった。
下に敷いた本物は、どこから来たのか。
宇佐美先生は言った。先代の御葬儀のとき、侯爵様の御礼状を何通も拝見した、と。あの人の字は、あの家の内にも外にも、いくらでも残っている。
なぞる気になれば、誰にでもなぞれる。
侯爵様は、書いていない。
宇佐美先生が見たのも、私が帯に隠したのも、侯爵様の字の、抜け殻だった。
あの人は、控え室で言った。私は、書いていない、と。
朝の厨房でも言った。信じなくていい。見て、確かめろ、君の目で、と。
私は、確かめた。
確かめるのに、こんなに遠回りをした。
ルーペが、畳に落ちた。
拾おうとして、手が震えて、拾えなかった。
私は、あの人を疑って嫁いだ。毒を盛る人ではないかと、崖から妻を突き落とした人ではないかと。毎朝、あの人の焼いた卵焼きを食べながら、心のどこかで、それを疑い続けていた。
焦げた卵焼き。四つの握り飯。冷えている、と握られた指。
あの人は、何ひとつ嘘をついていなかった。嘘をついていたのは、私のほうだった。
そして、あの人の名を騙った嘘は、私の家が刷った紙の上に書かれていた。
私が落とした罫の、欠けの内側に。
その紙で、小夜子様の死は病と書き換えられた。千鶴さんは、その欠けに気づいて、崖の下で見つかった。
声を殺そうとした。父が、起きてしまう。
けれど、無理だった。
私は、罫紙を胸に抱えたまま、畳に突っ伏して泣いた。
コメント
1件
ああ…読み終えて、しばらく動けませんでした。 罫の欠けから始まった謎が、ここで一気に繋がった瞬間の、あの胸のつまる感じ。お父様の「活字は嘘をつかん」という言葉が、これほど重く響く終盤になるとは思いませんでした。 特に、灯を斜めに当てて浮かび上がる鉛筆の溝——百合絵様のときと同じ手口だと気づく場面は、ぞっとすると同時に、彼女の後悔がひしひしと伝わってきて泣きました。主人公が「あの人は何ひとつ嘘をついていなかった」と気づくのが、こんなに苦しい真実のかたちで訪れるなんて…。 このエピソード、本当に素晴らしかったです。ありがとうございます。