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(……行こう今夜)
ドアの前に立った藤澤は、掌の中で金属の重みを確かめる。
「知人の鍵」を複製したいと合鍵屋に頼んだのは先週。偶然大森がサロンのロッカーにぶら下げていたキーホルダーをたまたま落とした瞬間に拾って写真に収めてあったから。
(これで、合ってるはず)
夜10時を過ぎた住宅街。窓の灯りは落ちている。
表札の名前、ドアの色、ポストの位置すべて確認済み
(大丈夫。誰にも見られてない…これは“必要なこと”)
藤澤は鍵を差し込みゆっくりと回す。
カチリ、と音がしてドアノブが動いた。
(開いた!)
全身の血が逆流するような感覚。
震える手でそっと扉を押すと、驚くほどあっさりと部屋の扉が開いた。
部屋の中は大森の香りで満ちていた。
洗剤、柑橘系の柔軟剤、そして整髪料の香り。サロンで嗅ぎ慣れた匂いがより濃く――生活に溶け込んで漂っている。
玄関脇のスニーカー、リビングのソファ、洗いかけの食器、ドライヤーがかけられたままのバスルーム。
全てが、「大森元貴」で構成された空間。
(好き)
息が漏れるように呟いた。
(全部、ぜんぶ、大好き)
藤澤は丁寧に部屋を歩く。
家具の配置を記憶し、スケッチブックにメモを取る。冷蔵庫の中の食材の配置。歯ブラシの種類。洗濯カゴの中身――
(全部、僕が管理してあげられる)
(もう誰にも触らせない)
寝室のドアを開けた瞬間、思わず息を呑んだ。
ベッドの上に、自分が普段着ているものと同じブランドのルームウェアが置かれていた。
(……え?)
タグ付きの新品。サイズも自分と同じLで色は好きな淡いグレー。
(これ……まさか)
まさか、とは思った。
でもそうであってほしかった。
隣には白い歯ブラシが2本。
1本は使用済み。もう1本は未使用で封が開けられていない。
歯磨き粉のキャップの横に見慣れた小さなマグカップが2つ。1つは使われている。もう1つは使った形跡がない。まるで使われるのを待っているみたいに。
(え……)
喉の奥がひゅっと詰まる。
指先がかすかに震え始めた。
(なんで…なんで僕が使ってるルームウェアもマグカップもあるの)
(大森さんが、大森さんが意図的に用意したとしてもどうしてサイズまで知ってるの?)
(僕、言ったことないのに)
(このブランドも、着てる姿も、見せたことないのに――)
(…………)
頭の中でカチリと何かが外れた。
「見られている」という感覚がゆっくりと、じわじわと背骨を這い上がってきた。
部屋の空気が急に変わった気がした。窓の隙間から入る風が冷たい。壁の時計の針が大きな音をたてて動いているように感じる。リビングの奥、廊下の影。
何かが見ている気がした。
「…………っ」
藤澤はベッドから離れた。後ずさるようにしてリビングへ。視線がソファの背に置かれたクッションの陰で止まった。
そこに、自分の写真があった
遠くから撮られた駅での横顔。図書館で笑っている姿。買い物袋を持っている後ろ姿。傘を差しながら道を歩く自分。
そのどれもが見覚えのないアングルだった。
(撮られてた……)
(全部…全部、見られてた……)
ぶわっと吐き気がこみ上げた。けれど吐く暇もなかった。
足音が、した。
カチャ、と玄関のドアが開いた音が耳に突き刺さる。
(帰ってくるまずい、見つかる)
(だめだ、逃げなきゃ)
藤澤は息を殺して玄関先に身を寄せた。
玄関のすりガラス越しに足音がこちらへと近づいてくるのがわかる。
廊下をゆっくりと踏みしめるような重たい靴音
――大森のものだ。
(今、出なきゃ……)
音を立てぬよう震える手でサンダルをつかみ、そっと足を滑り込ませる。
ガチャン、と鳴らさないように慎重に扉のロックを外す。
そして静かに――扉を開いた。
ひやりとした空気が頬を撫でた瞬間視線の先、目の前に大森がいた
(……!)
驚いたように目を見開いて、でもすぐにふわりと笑った。
「あれ、帰っちゃうの?」
その優しい声が、いつもとまったく同じトーンだったのが余計に怖かった。
「…………っ」
何も言えなかった。
言った瞬間何かが壊れそうだった。
「涼架くん。僕、ずっと待ってたのに」
藤澤は足元が崩れるような恐怖を感じながらそのまま走り出した。
振り返らず、エレベーターには乗らず、階段を全力で駆け下りた。
風が冷たい。
喉が焼けるように痛い。
(だめだ……)
(知らなかった。あんなの、“知らなかった”)
(僕がストーカーされてたんじゃない。僕が大森さんを支配していたんじゃない。本当は、大森さんが僕を…)
_____________
その夜部屋の明かりはつけられなかった。布団の中で震えながら藤澤は思った。
(どうして……)
(僕、何も知らなかった。大森さんは……最初からずっと、知ってたのに)
(“僕が大森さんを好きなこと”さえも――)
逃げた。本当に走って逃げたのはあの夜が初めてだった。
鍵をかけた。カーテンを閉めた。スマホの通知も切った。電気をすべて消して、布団にくるまって震えていた。
(……バレてた)
(全部大森さんに僕がストーカーしてたことも、部屋に侵入したことも)
(大森さんのこと全部知ってたつもりだった…それなのになんで)
(……おかしい)
(優しすぎる、怖い)
(“許されてた”んじゃない。
最初から僕の方が飼われてた)
翌朝。
スマホの通知が158件。全部大森からだった。
「昨日は驚かせちゃったかな?」
「来てくれて嬉しかったよ」
「眠れてる? ご飯は?」
「またちゃんと話したいな」
(やめて……)
指が震えた。でもブロックはできなかった。
(ブロックしたらきっと……もっと怖くなる)
(僕の家だってもう知られてる。図書館も全部)
返信はしなかった。
けれど通知が止むことはなかった。
仕事を休んだ。
でも家にいても怖くて眠れなかった。
数日経っても大森からの連絡は止まなかった。
優しい言葉ばかりで埋め尽くされているのに
全部脅迫みたいに見える
郵便受けの中には白い封筒。中には写真が入っていた。
自分の部屋のベランダから撮られた写真。
自分がカーテンを閉めるところ。
本棚の前で立ち尽くす後ろ姿。
(……いつ?)
(いつ、こんな)
そこにメモが添えられていた。
「心配だから少しだけ見てました」
「涼架くんが僕のこと好きなみたいに、僕だって涼架くんのこと、ずっと見てるよ」
(やめて……やめて……やめて……!)
メモを破った。今まで盗撮した大森の写真を燃やそうとした。
でも、手が震えてうまくできなかった。
_____________
翌朝、図書館のロッカーを開けると中に小さな紙袋が入っていた。
中身はLサイズで淡いグレーのルームウェア。
(同じ……)
(大森さんの部屋にあったやつと全く同じ)
タグには小さな付箋が貼られていた。
「洗い替えもあった方がいいかなって思って」
背筋が凍った。
(来てる。ここにも、来てる)
喉が、かすれた。まるで世界のすべてが
「もう逃げるな」って言ってるみたいだった。
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その日の夜。
帰宅して鍵を開けると部屋の中に人の気配があった。
玄関に、見慣れない靴が一足。
リビングの扉が、開いていた。そしてキッチンの明かりの下で、エプロン姿の大森が静かに振り返った。
「おかえり、涼架くん」
優しい声だった。笑っていた。
「ちゃんとご飯、食べないとだめだよ」
テーブルの上には温かい味噌汁と、卵焼きと、炊きたてのごはん。
湯気が立っていた。
藤澤の足が玄関で止まる。目の前が歪んで、喉の奥が焼ける。
「……なんで、いるの」
「だって、来てほしいって言ってたでしょ?」
「言ってない……!」
「“心で”言ってたよ。僕、ちゃんと聞いてた」
「ねえ、僕のこと怖い?」
藤澤の足元が崩れる。頭が混乱して言葉が出てこない。
「怖い?」と訊かれたときなぜか藤澤は首を振っていた。
怖かった。
でもそれ以上に理解してしまった。
(逃げても無駄なんだ)
(僕はもう……)
藤澤は泣きながらご飯を食べた。泣いても大森は怒らなかった。
ただそばにいて、髪を撫でて、優しく笑った。
「これで、やっと一緒にいられるね」
その声に逆らうことなんて出来なかった
_____________
次回最終話です。