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幸せな時間が過ぎるのはとても早くて、奏多との同居から一ヶ月以上の月日が過ぎた。
課長から厳しいことを言われた時には私も落ち込んだ。
悔しさがある反面課長の言っている事はもっともで、言い返すこともできなかった。
相変わらず奏多は優しく接してくれる。
だからと言って、この幸せがずっと続くとは思っていない。
私と奏多では住む世界が違うんだから。
「芽衣、顔色が良くない。どこか悪いのか?」
「大丈夫だよ」
最近痩せてしまった私のことを奏多が心配してくれる。
本当のことを言うと、ここのところずっと食欲がない。
胃がもたれるし体がだるいし、それでも無理して食べようとすると吐き気がする。
精神的なものだとわかってはいても体が辛いことに違いは無い。
奏多に心配をかけたくないからと奏多の前では無理して食べている。
夕食は帰りが遅い奏多と一緒になることが少ないし、朝ご飯は先にすましたからとごまかすことが多くなった。
きっと奏多もそのうちおかしいと気づくだろう。
それまでに何とかしないと。
***
「そういえば今日は総務の飲み会だろう?」
「うん。私はもう部外者なんだけれど、藍さんがおいでって誘ってくれたの」
「ふーん。いいじゃないか、楽しんで来い」
「ごめんね、奏多は仕事で忙しいのに」
私だけ遊んでいるようで申し訳ない。
「気にするな。俺のプロジェクトも大詰めだ。このままでいけば、来週のシンガポール出張で予定通り契約できそうだ」
「それはおめでとう」
奏多が日本に帰ってきて初めて手掛ける大きなプロジェクト。
ちょうどシンガポール時代のコネクションも使えてうまい具合に話が進んでいるらしい。
このプロジェクトは会社の社運がかかった大きなものだし、奏多にとっても初めての表舞台。
絶対に失敗できない大切な仕事。だからこそここのところ毎日遅くまで残業していて、奏多の帰りはいつも日付が変わっている。
「これも芽衣のサポートのおかげだ」
「そんな、私は何も」
「芽衣が英語と中国語が堪能で助かった」
「それは奏多も一緒でしょ」
海外生活が長いくせに。
「日常会話とビジネス英語は違うからな。それに、中国語はさっぱりわからない」
「私は大学で専攻していただけで・・・」
いつまでもずるずるしてはいけないと思いながら行動に移せない原因はこのプロジェクトにある。
奏多にとって大事なプロジェクトを私のせいで遅れさせたくない。そんな思いから、今回の契約までは奏多の側にいようと決めている。
来週には奏多がシンガポールに出向き、そこで契約となるはず。
そうなれば私がいなくなっても奏多の仕事に大きな影響はないと思う。
奏多が出張している一週間の間に、私は消えるつもりでいる。
***
「芽衣ちゃんこっちよ」
指定された創作居酒屋の店に入ると藍さんが店の奥から手を振っていた。
「すみません、遅くなりました」
本当は定時に上がるつもりだったけれど、プロジェクトの契約内容について中国からの注文が入ってその調整に追われてしまった。
何しろ言葉も文化も違う者同士が新しく何かを始めようって言うんだから、小さなトラブルは毎日尽きない。
「プロジェクトの方、忙しそうね」
「ええ」
案内された座敷に入るとすでに乾杯は終わっていて、二十人ほどの人が騒いでいた。
私が挨拶をしようと部屋の一番奥に用意された部長達の席に向かうと、轟課長が声をかけてくれた。
「忙しいのにすまないな」
「いえ、私まで呼んでいただいてありがとうございます」
「何を言っているんだ。今日は早めの忘年会だからな。今年頑張ってくれたメンバーを労う会なんだ。だから、君もいて当然なんだよ」
「・・・ありがとうございます」
ほんの短い時間しかいなかったのに、そんな風に言ってもらえるのがうれしくて、ウルッとしてしまった。
「ほら、芽衣ちゃん何飲む?」
「えっと、ウーロン茶で」
「ええー」
藍さんの驚いた顔。
「ちょっと胃の調子が悪くて」
「もー、働きすぎじゃないの」
「そんなことないですよ」
私が働きすぎなら、奏多はもう過労死していないといけない。
私の働きなんて微々たるものなんだから。
この体調不良はきっとストレスだと思う。
でも、このまま続くようなら週明けにでも病院へ行ってみよう。
悪い病気だったら怖いものね。
***
「それで、副社長とは順調なの?」
「え?」
お酒を一滴も飲んでいない私に、すでに三杯目のジョッキを開けた藍さんが聞いてきた。
「毎日副社長と一緒に通勤しているでしょ。噂になっているわ」
「あぁ、すみません」
「別に謝ることはないわ。恋愛は自由だから」
「そう、ですね」
同居初日だけは電車で通勤できたけれど、それ以降は毎日奏多と一緒に車での通勤となってしまった。
逆らえば田代秘書課長を通じて文句を言われそうで、私には逆らえない。
「で、元カレの方は大丈夫なの?」
「ええ、まあ」
現在は小康状態。
相変わらずメールは来るし、時々電話もかかってくる。
その後も何度か携帯の番号を変えてみたけれど結果は同じ。
だから、私も諦めて無視を貫いている。
蓮斗の方も、いきなり私の前に現れるようなことはなくなっている。
きっと、奏多の素性が分かって相手が悪いと思っているんだろう。
「平石のおばさまがね、芽衣ちゃんのことを気にしてるみたい」
「え?」
いきなり意外な名前が出てきて、私はポカンと口を開けた。
「父が『小倉さんってどんな子だ?』って聞いてきたから、問いただしたらおばさまが気にしているって言うのよ」
おばさまって、平石社長の奥様。奏多のお母様。
そうか、藍さんのお父さんってお母様と親しいんだった。
「藍さんは、なんて答えたんですか?」
「『語学が堪能で仕事もできるし、かわいくてとってもいい子よ。奏多副社長にはもったいないわ』って言っておいたわ」
「もー、藍さんったら」
フフフと、2人して声を上げた笑った。
やはり、奏多のご両親にも私のことがバレてしまっている。
このままにはできない。
早く奏多のもとを離れないと。
***
数日後。
「なあ、今日は肉が食べたいなあ」
今昼休みが終わったところなのに、奏多から夕食のリクエスト。
「お肉ですか?」
珍しい。
最近疲れ気味であっさりした和食がいいって言われることが多かったのに。
「明後日には出張だし、パワーをつけないとな」
なるほど。プロジェクトの正念場だものね。
「もしかして、今日は早く帰れそうですか?」
「いや、遅い」
やっぱり。
じゃあ冷めても困らないものか、煮込み料理。
「そうだ、ビーフシチューを作りましょうか?」
それなら保温しながらじっくり煮込めるし、時間がたった方が美味しくなる。
「いいなあ、食べたい」
「じゃあ、作っておきます」
「ありがとう。でも、芽衣は先に寝ていていいからな」
「はい」
そうと決まれば、帰りに材料を買って帰ろう。
お肉は駅前のお肉屋さんで買って、野菜とルーはスーパーでいいか。
あと、パン屋さんで美味しいパンも買っておこう。シチューにはパンだものね
ついでに私の主食になりつつあるゼリーとヨーグルトも買わないと。
相変わらず食事が進まない私はフルーツとゼリーとヨーグルトに頼って生きている。
このままではいけないとわかっているんだけれど・・・
***
定時に会社を出て、買い物をし七時過ぎには帰ってきた。
帰ってきたら買い物を片付けて、今日は着替えもせずに夕食を作り始めた。
下準備をして煮込み始めればあとは保温調理器で煮込むだけ。
それだけやってから着替えて横になろうと頑張った。
最近特に疲れやすい私は一度横になるとなかなか起き上がれない。
それがわかっていて一気に作業を進めようとした。
一時間後。
「うん、いい味」
ルーは市販だけれど、隠し味のワインやスパイスで美味しく仕上がった。
これを煮込めば美味しいビーフシチューになるはず。
「はあー」
夕食を作り終えた安堵感で、私はソファーに倒れ込んだ。
着替える元気はないけれど、目の前には半分に切ったキウイとヨーグルトを並べ夕食の準備はした。
でも、食べる気力がない。というか眠い。
奏多が帰ってくるまであと三時間はある。
それまでに着替えて何かおなかに入れて、お風呂の準備を済ませれば問題ないだろう。
睡魔に襲われた頭の中で、そんなことを考えた。
「三十分だけ眠れば元気になるから」
私は自分に言い聞かせ、ゆっくりと目を閉じた。
***
三十分後に携帯のアラームが鳴るはずだったのに、起こされたのは奏多の声。
「芽衣、しっかりしろ。芽衣」
何度も名前を呼ばれ、体をゆすられ、私はやっと目を開けた。
「ごめん、寝ちゃったみたい」
時刻は午前一時。
三十分で起きるつもりが、すっかり眠ってしまった。
「お前、体調が悪いんじゃないか?」
「そんなことないよ」
平気だよと起き上がろうとして、眩暈がした。
「お、オイッ」
よろけそうになった私を奏多が駆け寄って支えてくれる。
「ごめん、大丈夫だから」
「どこがだよ。真っ青な顔して」
「それは、少し寝不足で」
「じゃあ早く寝ろ」
「うん」
そのつもりだったけれど、寝室までがもたなかった。
「着替えもできないくらい眠かったのか?」
「ぅん」
「熱は?」
「ない」
本当は少し微熱気味。
「夕食は食べたのか?」
「うん」
返事をしながら、チラッとテーブルの上を見てしまった。
「これは?」
「デザート・・」
「夕飯は何を食べた?」
「ビーフシチュー」
「まだ手つかずで鍋にあるぞ」
「じゃなくて、買ってきたパンを」
「開封されずにテーブルの上にあるが?」
「だから、それとは別においしそうなパンがあって・・・」
「芽衣、嘘はやめろ。俺にごみ箱をあさらせたいのか?それとも袋まで食べたって言うつもりか?」
「・・・」
奏多にはわかっているんだ。
ってことは、これ以上言っても無駄。
私は嘘をつくのをやめた。
***
「ほら、少しでも食べろ」
奏多がビーフシチューとパンをテーブルに並べてくれた。
「ありがとう」
とは言ったけれど、とても喉を通りそうにない。
「どうした?」
スプーンを持ったまま動かない私に、奏多の怪訝そうな顔。
「ごめん。冷蔵庫のゼリーを食べたい」
「は?ゼリーが夕食なのか?」
「ぅん」
だって、さっきからビーフシチューの臭いで吐きそうなのに。
「なあ芽衣。はっきり言ってくれ。どこが悪いんだ?」
「どこも・・・」
「じゃあ、今朝から食べたものを全部言って見ろ」
「それは・・・」
朝キウイを半分食べた。
お昼は頑張っておにぎりを一個食べたけれど、結局戻してしまった。
さすがにそれではまずいと。三時に一口サイズのゼリーを二個ほど食べた。
って、言えるわけないじゃない。
「もういい。お前が言わないんなら医者に聞くだけだ。病院へ行くぞ。支度しろ」
「はあ?何をバカなことを。今何時だと思っているのよ」
「大丈夫だ。うちのホームドクターが診てくれる」
「バ、バカなこと言わないでっ」
体力なんて残っていないのに、絶叫してしまった。
***
叫んだ反動で、私はソファーに倒れ込んだ。
「大丈夫か、芽衣」
「うん、平気。お願い今夜はこのまま眠らせて」
眠れば体力は回復するはずだから。
「わかった。じゃあ明日の朝一で病院へ行こう」
「だから、明後日から奏多はシンガポール出張なのよ。明日は明日で予定がぎっしりなのに、どこにそんな時間があるのよ」
「それでも、こんな状態の芽衣をそのままにはできない」
困ったな、このままじゃシンガポールに行かないって言いだしそう。
「ねえ奏多、聞いて。この体調不良はきっとストレスだと思うの」
「ストレス?」
「うん」
「それって、今の仕事や俺との暮らしがストレスだってことか?」
「違う。そうじゃない。奏多と暮らしたいのは私の意志。でも、環境が変わることへの戸惑いはあるのよ。それに、蓮斗からのメールや電話もいまだに続いているし」
「は?何だよそれ。なんで俺に言わない」
「それは・・・」
奏多にこれ以上迷惑をかけたくなかったって言えば、絶対に怒るよね。
「私もこのままにするつもりはないのよ。最近食べれてないのは自覚しているし、治らないようなら週明けにでも病院へ行くつもりだったの」
「本当に?」
「うん」
これは嘘じゃない。
無事奏多をシンガポールに送り出してから、受診するつもりだった。
蓮斗とももう一度話をするつもりだし。
「わかった。今夜はもう寝ろ。話は明日だ」
「うん」
私ももう限界。今にも瞼が落ちそうだもの。
あんなに怒っていたくせに、奏多は優しく私を抱きあげて寝室へと運んでくれた。
***
翌朝目が覚めて、少しだけもめた。
奏多はすぐにでも病院へ連れて行くって言うし、現実的にそんな時間はない。
そのうち、「じゃあ今日の予定をキャンセルする」なんて言い出して喧嘩になりかけた。
ただ、幸いなことに今朝の私はとっても調子がよくて、朝食用のトーストを一枚食べ切ることができた。
きっと奏多に秘密にしていた体調不良をもう隠すことがなくなったことで、気持ちが楽になったんだろうと思う。
「ほら、ちゃんと食べたでしょ。だから今日すぐに病院なんて行かなくていいの。明日奏多が出発した後で必ず行くから」
「何でだよ。今日行けばいいだろ」
昨日残ったビーフシチューを朝から食べながらずっと不満そうだったけれど、今仕事が正念場なのは奏多が一番よくわかっているわけで、最終的には納得してくれた。
さぁ、今日も一日がんばって働こう。
明日の朝一で奏多がシンガポールに立てば、私も身辺整理を始める。
向こうでの契約成立はほぼ間違いないし、現地に慣れている奏多に心配なことはない。
まずはマンションを出て、借りていたアパートは解約しよう。
それから先は・・・
「それで、あいつのことをどうするんだ?」
「あぁ」
あいつて蓮斗よね。
そのこともはっきりしないといけない。
でも、ここを出るのが先。じゃないと奏多にも迷惑がかかってしまう。
「俺が帰ってくるまで何もするなよ」
「うん」
「帰ってきたら俺がちゃんと話をつけるから、お前はあいつに会うんじゃないぞ」
「わかってる」
シンガポールから帰ってきてここに私がいなかったらきっと奏多は怒るんだろうね。
でも、今の私には他に方法がない。