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楽器屋の前で足を止めた神津はピクリとも動かなかった。
「神津?」
「…………何? 春ちゃん」
「何って、お前がぼぅっとしてて」
神津は首を横に振った。何でもないと言って微笑んだ神津はどこか寂しさが漂っていて俺は少し心配になる。
「ほんと、大丈夫か?」
「うん、心配してくれてありがとう。ちょっと疲れちゃったのかも」
と、神津は頬をかいた。
疲れている風には見えなかったが、神津は感情をそこまで表に出すタイプではなかったし、最も言えば、自分の知られたくない事は徹底的に隠す癖があった。
(恋人なんだから、少しぐらい頼れっての……)
俺は4月に起きた誘拐事件の後、大分神津に頼れるようになってきた。いや、距離が縮まったといった方が正しいか。
もうあの空白の十年についてとやかく考えなくなったし、曖昧な恋人と幼馴染みと相棒の線引きがなくなってきた気がした。晴れて恋人同士になれた気がして、こっちは喜んでいたのに、神津は何も変わらなかった。
あの空白の十年を許したのは俺だけだったから。
俺は未だに神津が海外で何をしていたか十年どうやって過ごしたのか知らないままだ。聞こうとも思ったが、無理に聞くのはいけない気がして、それが正しいことだと避けてきた。だが、もしかしたら聞く方が正しいことではないかと最近思い始めている。
「春ちゃん行こう」
「お、おう……ッ」
神津は早くこの場を立ち去りたいというように俺の腕をグッと掴んだ。想像以上に強い力で力まれて、俺は苦痛に顔を歪める。その事に気がついたのか、神津はパッと手を離しごめんね? とおどおどと謝ってきた。
今日は何だか情緒が不安定だな。と、神津の顔を見ながら俺は思う。
そんな風に互いに見つめ合っていると、楽器屋の店員が俺たちに近付いてきた。
「もしかして、神津恭さんですか?」
と、何処かで聞いたことのあるようなフレーズに、俺はまたかと、店員の方に顔を向ける。勿論、俺の知らない全くの他人だったが、それほどまでに神津が世間に知られているのかと、感心してしまう。
俺の視線に気付いたのか、神津は苦笑いを浮かべて言った。やっぱり、有名だと面倒だよね、と。
確かにそうだなと同意しつつ、神津は有名だからこんな感じで話しかけられるんだよと皮肉を込めていってやれば、少し神津は悲しそうな顔をした、なんでそんな顔をするのかと、神津に手を伸ばしかけたが、店員の前、俺は手を引っ込めた。
「そうですが」
「やっぱり、そうですよね。神津恭さんですよね。もしかして、ピアノを買いに?」
店員は食いつくように神津に話かける。神津は笑顔で答えつつも、少し面倒くさそうに眉を下げていた。
「いいえ、そういうわけでは」
「本当にびっくりしたんですよ。神津さんがいきなりピアノを辞めたこと……音楽業界では衝撃的で。その後、帰国したという話しか聞きませんでしたし、何か辞めようと思った理由でも?」
と、店員は神津の話を聞かずに次々と質問を彼に投げた。
ちょっと熱が入りすぎだろうと、神津のフォローにはいろうとしたが、音楽も何も、そもそも神津の活躍も知らない俺が割って入って何か言える立場ではないと口を閉じるしかなかった。神津は、上手くそれを交わしながら笑顔を絶やさず、対応していた。
「まあ、その色々あって。ずっと会いたい人がいたので」
「恋人ですか?」
またその受け答えと、質問かよと、本人を前にしてよく言えるなと神津を後ろから睨んでやった。
やはり、その質問はよくされるのかと、俺はため息をつく。
「はい。ずっと待たせていたので。きっと恋人より僕の方が、会いたいって気持ちは強かったと思います」
そう神津は言うと、ちらりと俺の方を見た。
神津の言葉に少し不満というか、俺の方がそう思っていたと言い返したくなったがここで言ったら大スクープになるなと、他人のフリをした。
店員は素敵ですね。と本気で言っているのか、お世辞なのか分からないテンプレートな言葉を並べつつ、神津の後ろに隠れるようにして立っていた俺を見ると目を丸くした。
「あの、失礼ですが、貴方は明智春さんですか?」
「え、あぁ、はい、そうですが」
まさか自分の事を知っているとは思わず、俺は少し失礼な返事をし店員に頭を下げた。
何故知っているのかと疑問に思っていると、その疑問はすぐに解消される。
「この間の四月に起きた誘拐事件を解決したっていう、凄腕探偵さんですよね」
「すごう……はい、そうです。あってますよ」
と、俺は今までいわれたことのない言葉に歓喜しつつ、平生を取り繕って答えた。
四ヶ月も前のことなのによく覚えているなと俺は店員の方を見る。まあ、有名とは言え二年前に突如引退した神津の事を覚えているところを見ると記憶力は良いように思える。これまでいろんな客と関わってきただろうに。いや、だからこそ覚えているのかも知れないが。
俺の肯定を聞くなり、店員は嬉しそうに微笑む。
「その、もしよろしければ神津さんピアノ、弾いていきませんか? うちには電子ピアノと小さなグランドピアノしかありませんが、良いものは揃っているので」
そう店員は神津の顔色を伺うようにしていった。最初からそれが目的だったのではないかと、俺は小さくため息をついたが、神津次第だなと神津の方を見る。
「えっと、そういうのはちょっと」
と、神津はやんわり断ろうとしていた。
弾けない理由でもあるのかと、いつも事務所の中で朝晩問わず弾いているのにと神津の方を見た。店員も、そこをなんとか。と言うような目で神津を見ている。
「良いんじゃねえの? 別に」
「春ちゃん……」
「別に減るもんでもないだろ」
そう俺が言えば「僕の音は安くないよ?」と困ったように言う。
けれど、俺の言葉と店員の無言の期待を込めた圧に負けたのか「一曲だけね」と楽器屋のど真ん中に置いてある小さなグランドピアノの方へ歩いて行った。