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目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入った。途端、彼女の脳裏で、昨夜のあれこれが蘇る。
――可愛いんだね、夏妃。夏妃の感じてる顔、ぼく、大好きだよ……。
――ああ、こんなになって。すっごく立ってるの、分かる……?
――夏妃のここ、美味しい。生理が終わったら、夏妃の蜜をいっぱい吸い上げてあげるから、楽しみにしてて……?
――いっぱい、夏妃の声、聞かせて……? おれのなかをきみでいっぱいにして……?
――泣いちゃうくらいに、感じちゃってんだね……夏妃。ああ、愛している……。
(――あああ!)
なんということだ。シャワーも浴びないで、薄く汗をかいたからだでそれこそ全身、パンティ部分を除けばほぼほぼ、舐められた。そんなにされるのは、初めての経験だった。思いだすだけで毛穴から痴態が噴き出そう。広坂といったら、彼女に触れる都度、甘い、あまぁい言葉を囁いてくれて、彼女は何度も何度も、高い波に攫われながら、彼の指の舌の織り成す甘やかなリズムに、酔いしれていた。あれを愛の行為と言わなければなんと呼ぶ。
(もう、どんな顔すればいいの……恥ずかしいよぅ)
ひゃーっ、と顔を覆ってしまう。あんなに何度も女を至らしめておいて、広坂は余裕を崩さなかった。並の男ではない。通常、彼女が生理中であれば、彼女を愛撫するどころか、フェラチオだけさせて終わる男も多いだろうに。――なのに、広坂は、彼女を気持ちよく導く道を選んだ。並の男ではない。
――とにかく、喉が渇いた……そうだトイレに行こう。
なにげなくベッドを出たときに彼女は「ひょえっ!」と叫んだ。隣で眠っていた広坂がその声で目を覚ます。「ん……おはよ。どしたの?」
青い縁の眼鏡を外した姿がなんだか幼くて可愛らしい。ところが、そのスイートさに目を細めている、……場合ではなくて。
「広坂課長。ごめんなさい」
「ん。どったの?」頭のいい広坂でも寝起きは回転不足らしい。寝ぼけた反応が、可愛らしい。イケメンの寝起きといったら――眼福。いや目を細めている場合ではなく、
「汚しちゃいました。ごめんなさい」そうだった。もう一回トイレに行ったときに夜用に替えておこうと思ったのに、あのあといろいろエロエロあったので失念したのだ。高級そうな、ふっかふかの広坂のベッドの一部が、経血に染まっている。「ごめんなさい。責任取って、洗いますので……」
「いやそんな気にしないで。ベッドなんか、寝れれば別にいんだし」
「いやいやいや!」けろっと答える広坂にかえって彼女が慌てた。「広坂課長、これ明らかに高級ベッドでしょう! なんかこんなふっかふかのベッド、わたし寝たことありませんもん! こんな素晴らしいベッドを駄目にしちゃって……ごめんなさい」
上体を起こし、ぽりぽりと頭を掻く広坂は、「やー全然? 因みにこれ、敷きパッド敷いてるし、替えのベッドカバーもあるから、全然心配しなくていいよ? 十年も使ってると流石にガタが来るから、こないだ買い替えたんだ」
「お値段、どのくらいです……?」と彼女。「なんかこのベッド、寝るだけですごい疲れ取れました。わたし時々、首痛めるんですけど、こちらは、痛めるどころか背中に吸い付くようで、信じらんないくらい、寝心地、よかったです……全身の疲れがすごい勢いで取れました……」
さらりと広坂は答える。「シーツが一万、一式が五十万」
「ご、十万……!」目玉が飛び出るとはこのことか。ということは、なにやらやたら軽くてそのくせ吸い付きのいいこの掛け布団も高級掛け布団だということか。広坂曰く、エジプト超長綿で肌触りがいいから選んだらしく。確かに。念のため、彼女は掛け布団に染みがついていないかを確認する。こちらは無事だった。警察犬のようにくんくん深刻に探す有り様に広坂が笑った。「やー、ほんと、気にしすぎ。どーせ布なんか汚れるもんだって」
「……で。でも……」彼女はショックで声を詰まらす。「部屋に、入っただけで、分かりました……。広坂課長が、この空間を大切にされているのを……家具もベッドも、素敵なものばっかりで……それを、わたしなんかが汚してしまって、本当に、申し訳ないんです……」
「それより、きみの服も染みがついてんじゃない?」二人は、帰宅してすぐにベッドにもつれこんだので、昨日の姿のままだ。「洗ったほうがいいんだろうけど、……でも夏妃。ごめん」
言って広坂は彼女の首の後ろに手を回し、
「――きみが食べたい」
課長ぉぉぉぉ。
という彼女の言葉は、やがて彼の唇に飲み込まれてしまった。
甘やかな初夜の翌日に、生理の染み抜きをするだなんて。恥ずかしさを伴うものだが、気を利かせた広坂が、「せっかくだからバスマットも洗ってやろう。うし」などと張り切って洗濯物をし始める。彼の気配を感じながら背中合わせでごしごしごし、……女としての証をそぎ落としていく。着替えはないので、ぶかぶかの彼のTシャツとパンツを借りる。彼に包まれているようでなんだか、……ほっとする。
「広坂課長」
「なぁに? 夏妃」
彼の声が好きだと彼女は思う。いつの間にこんなに……好きになったのだろう。彼の声を聞くだけで、こころが、震える。日常はありふれた奇跡なのだ。ふるえるほどの感動を覚えながらも彼女は、
「ええと……落ち着いたら、話をしましょう……」
「勿論だよ」ぽん、とやさしく広坂が彼女の肩に触れ、「ああそうだ。朝なに食べる? パンでよければぼくが買ってくるけど」
「えそんな」彼女は洗う手を止め、「そんなの駄目です。わたしが行かないと。居候させて貰ってる立場なんですから」
「――だからこその契約結婚だ」広坂は振り返る。鏡に映る彼と目を合わせる彼女に、「『悪い』とか『させて頂いている』という罪悪を抜きに、ビジネスとして……いや、まあ、合理的な考え方で、きみと向き合っていきたいと、そう思っている……。
とにかく今日はぼくが行ってくるよ。きみひとりだと、鍵のこととか近所の地理とか、分からないだろう? それに、スカートが、乾いてからじゃないと。あとでアイロンをかければスカートは乾くよ」
「――あ」
盲点だった。今度は、広坂が鏡越しに彼女の顔を見つめて、笑った。ぽんぽんと、父親のようにやさしく彼女の頭を撫で、「あとはぼくに任せてゆっくりお茶でも飲んでなさい。お嬢ちゃん」
無人の、されど広坂のぬくもりの感じられる室内にて、彼女は広坂の淹れたハーブティーを飲みながら考える。カモミールの穏やかな香りに癒されながらも、契約結婚という、彼の残した言葉のインパクトを味わっていた。
愛していると、広坂は、言った。でも――契約? それは何故? 本当に愛しているのなら、時間をかけてゆっくりと……互いを理解していくべきものじゃないの? それとも、広坂課長は本当はわたしのことを――愛していないの?
そもそも、どうしてこんなファミリータイプのマンションにひとりで住んでいるの? 独身なのに? 十一年も前に? 購入後に婚活でも始めたとか? 或いは、課長は、わたしが好きだと言った。別れるのを見越して、買っておいたとか……? まさかまさか。
……分からない。考えれば考えるほど、底なしの、深い沼へと嵌まっていく。大事なことは相手の目を見て本人に直接確かめなければ分からないというのに、いまの彼女は、予想と想像を武器に、不安に負かされてしまいそうだ。
確かなのは、いまの彼女のなかからはいつの間にか、山崎が出て行ったということだ。もし、広坂が助けてくれなければ――愛を打ち明けてくれなければ。あれほど丹念なる愛撫を施してくれなければ。今頃自分は、あの狭いアパートで孤独に苛まれ、悲しい苦しい涙の夜を、過ごしていただろう……。そのことに対して、広坂には感謝しかない。勿論、感謝という分度器で愛情を測ってはいけないと、分かっているけれど。
考えているうちに、広坂が帰宅した。玄関から物音が走り、たたた、と彼女は廊下を走る。……と、フローリングがつるっつるで、彼女は足を滑らせた――ところを。
「……セーフ」広坂に抱き留められた。間近に微笑みかけられ彼女は、動揺した。どうしよう。こんな美しいひとに、わたし、足の指の股まで舐められて……!
「……会社だと冷静なのに、プラベだとあなたなんか、テンパリストなのね?」彼女を抱き締めたまま広坂はくすりと笑う。「……ま。そーゆー隙のあるところも、可愛くてたまんないんだけど……」
「じゃあ、どうして『契約』なんですか?」
不安混じりの低い声に、広坂は彼女の肩を抱き、「あっちで、話そう。……ね」
ふっかふかの食パンに喉が鳴る。あぁあ! 美味ぃーっ! ……そして広坂が淹れてくれたコーヒー。ブラックの苦みが冴えわたっており、頭がすっきりする。キター、と織田裕二なら叫んでいる場面だ。
もしゃ、もしゃ、もしゃ、……と咀嚼しているうちに、たまらず笑みがこぼれる。ああ、幸せ……ベッドも食パンもふっかふかで、わたし、幸せだなあ……。
「……いま、頭んなか、食べ物のことでいっぱいでしょう……?」
はっ。
と我に返る。そうだ、そうだった……これからのことを真剣に話そうとしていたのに。美味いものを与えられるとついすこーん、と悩みが抜けてしまうこの性格。どうにかならないものか。
明らかにしょげる彼女を、広坂がフォローした。「気にしないで。そういうね、感受性の豊かなところは、あなたの財産だと、ぼくは思うよ……。いいじゃん、女の子は、うまいもん食ってくんくんいい匂い嗅いで幸せな顔してれば。ぼくねえ、あなたの、……あなたの飲み食いする姿はあんまし見たことがなかったんだけど、気持ちがいいねえ。ぼくはすごく、……満たされている」
目を合わせてにっこり笑う。今度は、イケメンスマイルの破壊力に悩殺させられる。朝っぱらからまったく、忙しい。すると広坂は真剣な面持ちで、
「なんで、……契約結婚、かというと。
そもそも、ぼく自身、結婚制度には懐疑的なんだよね。その後の一生を決める問題だというのに、お試し期間がないというのもね。
同棲すればいいって話もあるけれど、同棲生活は所詮、おままごとに過ぎない。本性を出さない男って多いでしょう? 『結婚してみたら全然違った』……普段は真面目で大人しいのに、酒癖が酷かった。金遣いが荒かった。ごみの捨て方を知らず愕然とした。やさしかった彼が結婚した途端に暴君と化した。……よくある話だよ。悲しいことにね。
だったらいっそ――結婚してみてから考えるのも手ではないかと、ぼくは、思ったんだ。
ぼくは、きみのことを、愛している。この想いは、本物だ。
けれどその一方で、一緒に夫として生活していくうちに、職場では同棲生活だけでは見えなかった、ぼくという人間そのものを見て――判断して欲しいと、そう思っている。
結婚生活の難点は、いざ結婚してみて相手が理想と違っていたとなったときに、やり直しが利かないという点だ。ならば、例えば、入籍の一年後にジャッジを下すのはどうだろう。戸籍に傷を負うというリスクはあるが、そもそもそんなものは、本当に愛する人間と結婚した場合においても同じだ。であれば一度試してみるのも手ではないか。夫婦別姓については、ぼくは抵抗はない。きみさえよければそれでもいい。
……こういう大事な話をする前に、きみのことをああしたのはなんというかもう、男の欲望だ。大好きな女の子だからぼくは愛した。それも含めて、ぼくという人間を見て、審判を下して欲しい。
夏妃。きみは、ぼくの話を聞いて、どう思う……? まだ、過ごした時間が短いというのに判断を下せというのも、無茶かもしれないけれど、……ちょっと辛い話もするね。
山崎とは、毎日顔を合わせる。あいつが退職でもしない限りはね。
そして、山崎に捨てられた女という汚名も頂戴することだろう。そんな物の見方をする人間もいるんだよ。残念ながらね。
ぼく自身は、それが許せなかった。オフィスで思い切った行動に出て、きみには迷惑をかけたかもしれない。が、とにかくぼくは、一旦、きみという人間に着せられるであろう、汚名を、払拭したかった。ぼくという人間との交際をオープンにする――そのことによって。
ぼくはこれでも、自分という人間に向けられる目線には敏感だ。アラフォー独身という属性はネックであれど、それ以外においては、周囲からそこそこの評価を得られているのではないかと自負している」
そこそこどころか、会社の男性のなかでも広坂は上位に君臨する人物だ。確かに、四十歳前後の独身男性というのは、大概、よっぽど選り好みをしてきたのか、よっぽど女遊びが好きだったかのいずれかであるが、広坂からはそのような匂いが微塵も感じられない。昨今、アラフィフの男性が世間を席巻しているように思われるが――テレビドラマを見る限りでは――広坂からは、彼らと同じ匂いを感じるのだ。これは彼女の錯覚ではないと思う。事実、女子のあいだでは、広坂は大人気だ。広坂さんってなんかいいよね。クールなのに笑った顔が可愛い……相手が派遣社員であっても社長であっても、平等に、敬意とシンパシーをもって応じる彼の姿勢は誰彼構わず評判だ。取引先や、上司からの信頼も厚い。
聡い広坂であればそのことは分かっているのだろう。黙って彼女は広坂の弁に聞き入る。同意を見て取ったらしい広坂が、
「一旦、『あの山崎に捨てられた可哀想な女』というフィルムをきみから引きはがし、『出来る広坂と結ばれた女』……という称号を、与えたかった。一時的なものであっても。
勿論、これはきみの自由だ。きみが他に好きなひとが出来たら、改めて聞かせて貰えばいいと思う。だが、……それなりに、ぼくはきみのことを、分かっているつもりだ。ぼくが提案しなければおそらくきみは、あと三ヶ月は、誰とも付き合わないことを選んだであろう。そうすると、きみは、汚名を着せられたまま日々を過ごすことになる。失恋の痛みに苛まれながら。被害者という偏見に蝕まれながら。せめて、そのあいだだけでも……きみに、本当に好きなひとが出来るまでのあいだ、ぼくは、きみを守りたかった」
「……七月七日を指定したのは」
「ああ」と広坂は眼鏡に手をやる。「約一ヶ月後の日付だね。もし、この話を進めるとしたら、双方の両親に顔合わせをしなければならない。日付的にぎりぎりだと思ったんだけどね。でも、あんまり先だと、気持ちが変わってしまうかもしれないし、早いほどいいかと思ったんだ。第一、七夕というほうが――ロマンティックだろう?」
彼女は、広坂を見つめた。深い海の底のような瞳がそこにはあった。その根底に流るるものがなんなのかを、彼女は、凝視した。――本当の、あなたが知りたい。それは女としての本能に由来する、抗えない希求であった。
「そうですね」滑らかに言葉が流れた。まるで決められた台詞のように。「わたし、……広坂課長の、提案に、同意します。
わたし、あなたと、七月七日に――契約結婚をします」
彼女の発言を皮切りに、二人の新しい生活が始まった。
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