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「お届け物です。社長から、お二人へ」
氷室さんは、私が返事をする前に、靴を脱いでいた。
紙包みを両手で持ったまま、廊下に上がる。玄関の明かりの下で、栗色の髪がきれいに揺れた。
「上がらせていただいて、よろしいですよね。社長のお使いですから」
「……どうぞ」
止める理由を、私は持っていなかった。契約の存在は誰にも言わない。それだけが決まりで、誰を家に上げるかは決まっていない。
氷室さんは、廊下を歩きながら左右を見た。開いている扉は台所だけで、あとは閉まっている。
「広いお宅ですね。お部屋、三つ?」
「はい」
「寝室は、どちら?」
来た、と思った。
私は答えずに、台所に入って、引き出しから受領印を出した。総務で使う、小さな朱肉と印。家にも持っている。癖だ。
「お届け物の受領印をお願いします。社長からのお預かり物なら、お返しに控えが要ると思うので」
氷室さんの笑顔が、一度だけ消えた。
「……総務の方ですね、本当に」
「はい」
紙包みを受け取って、開けた。家紋の入った、紺色の袋紗。十二月のパーティーで使うものだと、添えられた紙に書いてあった。私は控えに日付と品名を書いて、印を押して、氷室さんに渡した。
氷室さんは控えを受け取って、受け取ってから、もう一度言った。
「それで、寝室は」
私は、台所を出た。
廊下の奥には行かなかった。玄関に戻った。靴箱の前で止まって、二段目を指した。
黒いパンプス一足と、スニーカーが一足。
「私の段です」
「……靴箱、ですか」
「はい。ここが私の段だと、言われています」
嘘ではない。この家で、私の場所として最初に決められたのは、この二段目だった。
氷室さんは、靴箱の二段目と、私の顔を、順に見た。それから、笑った。きれいな笑顔で。
「分かりました。社長に、ご報告しますね。靴箱の二段目のこと」
「はい」
「寝室が二つあることも」
「どうぞ」
氷室さんは靴を履いて、出ていった。扉が閉まって、私は靴箱の二段目を、しばらく見ていた。
専務が帰ってきたのは、九時過ぎだった。
「氷室さんが来ました」
「見た。駐車場で」
専務は革靴を一段目に置いて、台所の机の上の袋紗を見た。紺色。家紋。
「親父の使いか」
「袋紗を。受領印を押して、控えを渡しました」
「……受領印」
「家にも、持っているので」
専務は、少しのあいだ袋紗を見ていた。それから、言った。
「寝室は」
「見せていません。どちらも」
「何と言った」
「靴箱の二段目を見せました。私の段です、と」
専務が、私を見た。
長かった。何を言われるかと思ったけれど、言われたのは、これだった。
「言われるままに、部屋を一つにしなくてよかった」
「……約束を破るつもりはありません」
「分かっている」
専務は椅子に座って、ネクタイを緩めた。
「氷室さんは、寝室が二つだと報告する。親父は、それで何か言うだろう。だが、お前が俺の部屋に物を置いて見せていたら、俺は別のことで困っていた」
「別のこと、ですか」
「俺が困るのは、お前が無理をすることだ」
言ってから、専務はネクタイを緩める手を止めた。
止めたまま、袋紗を見た。私も袋紗を見た。二人で紺色の布を見ているのは、少しおかしかったけれど、私はそれを言わなかった。
「無理は、していません」
「受領印を家に持っている人間が言うな」
「それは、癖です」
「……そうか」
専務はネクタイを抜いて、椅子の背にかけた。袋紗は、机の端に寄せられた。十二月十二日まで、あと二か月。その日に使う布が、もう家に届いている。
木曜の朝、四階の決裁は十分で戻ってきた。承認の印だけで、付箋はない。
課長が人事から戻ってきて、私の机の前で言った。
「勤怠、何もなかったよ」
「はい」
「むしろ、六年で遅刻ゼロって。人事の人が感心してた。氷室さんには、そのまま渡しておいた」
「ありがとうございます」
課長は、まあまあ、と言わなかった。言わないで、自分の席に戻った。小森さんが、机の下で小さく拳を握るのが見えた。
昼休み、小森さんが給湯室で言った。
「ひよりさん。あの、全然関係ない話なんですけど」
「うん」
「氷室さん、先々週、六階の会議室Fを使ったって聞きましたけど。何に使ったんでしょうね。秘書室の会議なんて、七階でやればいいのに」
私は湯のみを持ったまま、少しだけ止まった。
会議室Fの予約表。十月二日、金曜、午後六時から八時。社長のお名前で、秘書室。
思い出したけれど、口には出さなかった。予約表は、事実を書くだけの紙だ。
「分からない」
「ですよね」
午後三時、課長が内線を取って、顔を上げた。
「水瀬さん。報告会、金曜に繰り上がった。明日だって。常務のご指示らしい。記録係、頼めるね」
「はい」
電話を切った課長が、何か言いかけて、やめた。小森さんが、代わりに言った。
「データ送った翌々日に、繰り上げですか」
三十分後、佐伯さんがフロアに来た。
今日は、人がいた。だから佐伯さんは、笑顔のまま、私の机の横を通りすぎるときに、声を落として言った。
「金曜、総務の記録係はお前だよな」
返事をしなかった。
「余計なことを言うな」
コメント
1件
うわ、この話めっちゃ空気感あるな……。氷室さんの「寝室はどちら?」って聞き方、絶対探り入れてるし、それに対してひよりさんが受領印でかわしたり靴箱の二段目見せたりするのがもう、総務のプロって感じで痺れたわ。専務が「無理をすることだ」って言うところもグッと来た。二人の間にちゃんと関係性が積み上がってるのが伝わってくる。次どうなるんだろう、気になる🔥