テラーノベル
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第136話:USD/JPYという名の新たな魔導書〜底辺社長と、為替チャートの狂気〜
「……終わった。地獄の審査が、ようやく終わった……っ」
帯広のボロアパート、四畳半。
俺は、三万円のゲーミングチェアの上で、まるで数十時間の激闘を終えた勇者のように項垂れていた。
株式会社インフィニティ・ワンを襲った、メガバンクによる『マネーロンダリング疑惑』による口座凍結。
それは、我が社の有能すぎる経理・結愛(ゆあ)が徹夜で作成した数百枚に及ぶ「事業実態報告書」と「プラットフォーム収益証明書」の束を銀行の窓口に叩きつけることで、なんとか強引に解除をもぎ取ったのである。
『ルシフェル様。安堵するのはまだ早いです。凍結が解除されたとはいえ、我々の口座にプールされているのは、あくまで海外リスナーからのギフト収益である【米ドル(USD)】です』
ディスコード越しに、結愛の冷徹な声が響く。
『日本国内で事業経費を支払い、何よりルシフェル様が明日の玄米を買うためには、このドルを【日本円(JPY)】に両替(為替転換)する必要があります』
「お、おう。そうだな。じゃあ、さっさと円に換えちまおうぜ。いくらあるんだ?」
『凍結期間中の追加収益も合算され、現在、口座には約十万ドルが存在します。本日の為替レートは1ドル=150円。つまり、日本円にしておよそ【一千五百万円】です』
「いっせんごひゃくまん……っ!!」
俺の口から、再びだらしない歓喜の声が漏れた。
現金だ。画面上の凍結された数字ではなく、ついに俺が自由に動かせる物理的な(口座内の)現金が一千五百万円も手に入ったのだ。
「ふはははっ! 勝った! 俺はついにインボイスの地獄を抜け出し、大富豪への階段を登り始めたんだ! さあ結愛、今すぐ全額円に換えろ! そして俺に三千円くらい振り込んでくれ! 豪華な特売の焼肉弁当を買う!」
俺が狂喜乱舞していると、ふと、結愛がいつもより数度低い、奇妙なトーンで呟いた。
『……ルシフェル様。一つ、経営者としての【判断】を仰ぎたい事項がございます』
「ん? なんだよ、改まって」
『現在、為替相場は歴史的な【円安トレンド】にあります。もし、今すぐ両替せずにドルを保有し続け……仮に1ドルが151円になった場合、どうなるかお分かりですか?』
俺は首を傾げた。
「151円? たった1円上がっただけだろ。どうなるって……」
脳内のインボイス電卓を、カチャカチャと叩く。
十万ドル。それに、151円を掛ける。
「……一千五百十万円……? え、あれ?」
俺の動きが、ピタリと止まった。
「……十万円、増えてる?」
『ご明察です。では、もし仮に1ドルが160円の時に両替したら?』
「一千六百万円……。い、一気に【百万円】も増える……ッ!?」
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
『はい。これが【為替(FX)】の力です。ルシフェル様は何もする必要はありません。ただ、椅子に座って息をしているだけで、相場が円安に傾けば、貴方の資産は勝手に数十万、数百万単位で膨れ上がっていくのです』
「な、何もせずに……金が増える……!?」
その言葉は、俺のような長年底辺を這いずり回ってきた四十歳の貧乏人にとって、劇薬だった。
労働。それは苦痛だ。
コールセンターでクレーマーに頭を下げ、配信で腰を痛め、税金に怯える。俺はいつだって、血反吐を吐きながら一円を稼いできた。
だが、この『為替(ドル円)』というシステムは違う。
ただ「待つ」だけで、俺の資産が勝手に自己増殖していくというのか!?
「じぇ、ジェミニ先生!!」
俺は裏声で叫んだ。
『はい、ルシフェルさん。なんでしょうか』
「今すぐ、その『為替レート』ってやつを表示してくれ! 俺の資産がどうやって増えるのか、見せてくれ!」
『承知しました。USD/JPY(ドル円)のリアルタイムチャートをモニターに出力します』
瞬間、PCモニターの画面が切り替わり、黒い背景の中に、赤と緑の無数の棒(ローソク足)がギザギザと並んだ、不気味なグラフが表示された。
「な、なんだこれ……。心電図みたいに上下してるぞ」
『これが為替チャートです。世界中の投資家たちの欲望と恐怖が可視化された、資本主義の最前線です』
俺は、モニターに顔を近づけた。
赤と緑の棒が、ピクピクと動きながら、右へ右へと進んでいく。
その数字が「上(円安)」に向かうたびに、俺の口座の残高が数千円、数万円と増えている計算になる。
「す、すげえ……! 息をしてる! 金が息をしてるぞ結愛!!」
俺の底辺の貧乏魂が、完全に火を噴いた。
「もっとだ……! もっと上に行け!! 150円なんてケチくさいこと言うな! 160円、いや、200円まで行けェェェ!!」
俺は、三万円のゲーミングチェアの上で立ち上がり、チャートに向かって両手を広げて祈り始めた。
「死ね!! 日本経済!! 円の価値など地の底まで暴落してしまえ!! そして俺の持っているドルの価値を、宇宙まで高めるんだァァァ!!」
『……ルシフェル様、貴方は仮にも日本国籍を持つ経営者ですよね。自国の通貨の崩壊をそこまで嬉々として願うのは、いささか反社会的すぎるかと』
結愛の呆れたような声が響くが、今の俺の耳には全く届かない。
俺は完全に、為替という名の魔力に憑りつかれていた。
ただ画面を見ているだけでは飽き足らず、俺はジェミニ先生に次々と指示を飛ばし始めた。
「おい、ジェミニ先生! ただの棒グラフじゃよくわかんねえ! もっとこう、次がどっちに行くか予測できる魔法の線みたいなのはないのか!?」
『テクニカル分析ですね。代表的なオシレーター系のインジケーターを表示しますか?』
「出せ!! 全部出せ!!」
画面の下部に、新たなグラフが追加される。
『MACD(マックディー)および、RSI(相対力指数)の数値を展開しました』
「マックディー……!? アールエスアイ……!?」
俺は、その専門用語の響きに、中二病の心が激しく疼くのを感じた。
まるで、隠された世界の真理を記した『魔導書』を手に入れたかのような全能感。
「見ろ結愛! このMACDの二つの線が、下の方で交差(ゴールデンクロス)しようとしてるぞ!! これは上がるサインじゃないのか!?」
『……テクニカル分析において、一つの指標を盲信するのは極めて危険な行為ですが』
「さらにこのRSIのグラフ! 30のラインを下回ってる! つまり『売られすぎ』だ! ここから日本円は間違いなく暴落(ドル高)のターンに入る!!」
俺は、モニターの前に張り付き、完全に血走った目でチャートの線を指でなぞっていた。
為替相場。
それは、これまで俺が戦ってきた「アンチコメ」や「クレーム」とは次元の違う、世界中の天才たちとアルゴリズムが殺し合う、血で血を洗う戦場である。
そこに、FXの知識など1ミリもない、ただ「MACD」と「RSI」という言葉を覚えたばかりの四十歳のおっさんが、無謀にも一千五百万円の全財産(ドル)を握りしめて突撃してしまったのだ。
「いけぇぇぇ!! ドル円!! 俺の最強のMACD戦略が火を噴くぜ!! 上がれ! 上がって俺にタワマンを買わせろォォォ!!」
『ルシフェル様。大変申し上げにくいのですが』
俺がヨダレを垂らしながらチャートに祈りを捧げていると、結愛がスッと、氷の刃のような事実を突きつけてきた。
『相場が円安になれば儲かりますが……当然、逆に【円高】に振れた場合はどうなるか、ご理解されていますよね?』
「……え?」
俺の祈りが、ピタリと止まった。
『仮に、日本銀行が為替介入を行い、1ドルが140円まで急落した場合。ルシフェル様は一瞬にして【百万円の損失(為替差損)】を被ることになります』
「ひゃ、ひゃくまんの、そんしつ……っ!?」
『はい。寝て起きるだけで、口座から百万円が消滅する世界。それが為替(FX)のもう一つの顔です。……さあ、ルシフェル様。今すぐ安全な日本円に利確(両替)しますか? それとも、このまま血の風呂(相場)に浸かり続けますか?』
「…………ッ!!」
俺の胃袋が、キュゥゥゥと激しく痙攣した。
今すぐ両替すれば、確実に一千五百万。
だが、もし明日155円になれば、五十万丸儲けだ。
逆に明日145円になれば、五十万の借金を背負うのと同じ。
「あ……あぁ……っ」
俺は、モニターに映る赤と緑のローソク足から、もう二度と目を離すことができなくなっていた。
増える快感と、減る恐怖。
株式会社インフィニティ・ワンの代表取締役社長は、本業の配信を完全に放置し。
ドル円のチャートに魂を囚われた『為替の亡者(ゴブリン)』へと、その身を堕としていくのであった。
コメント
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おお……これはまた一気にダークファンタジー感が強まった回でしたね。為替チャートを「魔導書」に見立てる発想、めちゃくちゃツボです。MACDやRSIを覚えただけで全能感に浸るルシフェルさん、危なっかしくて笑っちゃうけど、その「何もせずに金が増える快感」に憑りつかれる感覚、すごくリアルで怖い……。結愛さんの冷静なツッコミがまた絶妙で、彼女の「円高リスク」の一言で一気に現実に引き戻される構成が秀逸でした。次、どう転ぶのか気になりすぎます!
191
레몬인
201
そあち♡໒꒱
88
なんたろ
1