コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
母に言われたことを思い出し、トイレに行った際に、洗面台の鏡に映る自分をまじまじと見てみた。驚いた。
これが、俺? 今まで、どうして気がつかなかったのか。
言われてみれば、ひどく痩せていて、顔色も悪い。これでは見た人に、どこか具合が悪いのかと思われても仕方がないだろう。
そう言えば、松園たちも、最近は目が合っても、不愉快そうに目をそらすだけで、何も言って来なかった。さすがに、半病人のような伸に、手を出す気にはなれなかったということか。
今のは、いったい、どういうことだ。頭が混乱している。わけがわからないのに、体が震え、涙がぽろぽろとこぼれる。
数分後、ドアの外で声がした。
「行彦、入るわね」
静かにドアが開き、母が入って来た。
「さっきはごめんなさいね。驚かせちゃって。あの人は、もう帰ったわ」
そう言う母の顔は、ひどく青ざめている。
「お母さん。あの人……」
震える声で言うと、母は、そばまで来て、ベッドに腰かける行彦の横に座り、そっと背中に手を添えた。
「安心して。家にあった現金を全部渡して、もう二度と来ないように言ったから。
もしも来たとしても、芙紗子さんが追い返してくれるから大丈夫よ」
母が優しく背中をさすってくれるけれど、僕が聞きたいのは、そんなことじゃない。
「あの人、僕に、自分のことを、お母さんって……」
「嘘よ!」
母が悲鳴のように叫んだ。
「でたらめよ。あの人、どうかしているの。あんなでたらめ信じないで。
そんな馬鹿なことがあるわけないじゃない。行彦は、私がお腹を痛めて産んだ子よ!」
「あ……」
いつも優しくて美しい母が、目を血走らせ、大きな声で言いつのる。
「あの人、お母さんの大学のときの後輩なのよ。大学を辞めてから一度も会ったことがなかったのに、今になって、こんなところまでお金の無心に来て、あんな嫌がらせを言うなんて!」
「お母さん……」
行彦は嗚咽する。今まで信じて疑わなかったものが、突然ひび割れ、崩れ落ちるのを感じた。
「嫌だ。お母さんこそ、嘘をつかないで。本当のことを教えて!」
泣き崩れる行彦を、母が強く抱きしめる。
「行彦……私の大切な行彦……」
母も泣いている。
母は、いや、今までずっと母だと思っていた人は、すべてを話してくれた。
自分は、母と、亡き父の愛の結晶などではなかった。母の交際相手が、浮気相手との間に作った子供だったのだ。
いや、浮気というよりは、心変わりをしたといったほうが正確かもしれない。みな独身だったのだから、それ自体は、そこまで罪深いことではなかったのかもしれない。
だが、母の恋人だった男は事故で亡くなり、生物学上の母親は、僕を捨てた。
僕をずっと大切に育ててくれた今の母を恨む気持ちなどない。本当の母親でなかったことはショックだけれど、母の孤独も、自分への愛が本物なのもよくわかる。そして、本当のことを隠したかった気持ちも。
わかるけれど、あの、どこか卑しげで狂気を漂わせた女が自分の生みの親だったなんて! 言われてみれば、あの白い肌や貧相な体つきは、まさに自分に受け継がれているではないか。
僕は、美しく上品な母とは少しも似ていない。そのことに、どうして今まで疑問を待たなかったのか。
僕は醜い。外見も、体の中に流れている血も。
私は間違っていたのだろうか。
真実を知った行彦は、ひどく動揺し、学校に行けなくなったばかりの頃に戻ってしまったようだ。最近は、部屋からは出られないものの、穏やかに毎日を過ごし、笑顔も見せてくれていたのに。
今は、終日ベッドにうずくまって涙を流し、食事もろくに受けつけない。頻繁に見る悪夢に悩まされてもいるようだ。
やはり、行彦を引き取るべきではなかったのか。自分を捨てた男の子供を育てるなど、独りよがりな感傷でしかなかったのか。
いや、志保に育てられていたら、果たして行彦は、幸せだっただろうか。そんなはずはない。
あんな女に育てられていたら、繊細な行彦は、今より、もっとひどい状態になっていたのではないか。それは、約束もなしに突然やって来た、志保の常軌を逸した行動を見ればわかる。
では、自分の本当の子だと偽って育てたことが間違いだったのだろうか。あるいは、志保の両親によって、よそに養子に出されていたら、行彦には、もっと別の……。
だが、私は行彦を、どうしても自分の子として育てたかった。あの頃はまだ、照彦を忘れられずにいたから。
行彦は、自分と照彦が愛し合った証なのだと思い込みたかった。私は、真実から目を背けて、幸せな幻想を見続けていたかったのだ。
そう。すべては私のエゴだ。私のエゴで、行彦の人生を台無しにしてしまった!
精密検査をしたが、体のどこにも異常は見つからなかった。だが、一向に体調は回復せず、むしろ当初より悪化していると言ってもいい。
食事が喉を通らず、体がだるくて、長く起きていられないのだが、原因がわからず、医師も首をひねっている。しばらく入院を続け、点滴などの治療をしながら様子を見ることになった。
もうずっと洋館に行くことが出来ずにいる。行彦に会いたいし、彼がどうしているのか心配でならないが、今の状態では、どうすることも出来ない。
伸はただ、心の中で呼びかける。行彦、ごめん。必ず会いに行くから、どうか待っていてほしい。どうか、一人で泣いたりしないでほしい……。