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おまる
出張から戻った夜
結局、あの非常階段で彼に「上書き」するように強く抱きしめられた感覚が
服越しでも肌に残っている気がして、私は落ち着かなかった。
「……先輩、お風呂沸きましたよ。今日はバスソルト、入れておきました」
「あ、ありがとう……。至れり尽くせりね」
高瀬くんのマンションでの生活も、もう数週間が経とうとしていた。
朝は彼の淹れるコーヒーの香りで目覚め、夜は彼の作る温かい夕食を囲む。
私のクローゼットの一部には、彼の服と私の服が当然のように並んで掛かっている。
(……怖い。この生活が、当たり前になっていくのが)
湯船に浸かりながら、私は自分の指先を見つめた。
かつて一人でいた時は、家はただの「身を守るためのシェルター」だった。
でも今は、高瀬くんが笑っているこの場所が、私の「帰る場所」になってしまっている。
お風呂上がりにリビングへ戻ると、高瀬くんがソファでノートパソコンを開いて仕事をしていた。
メガネをかけた真剣な横顔に、また胸がチリッとする。
「……高瀬くん」
「ん? 先輩、どうしました?」
彼は顔を上げ、メガネをずらして私を見た。
その無防備な仕草に、私は思わず彼の隣に座り
吸い寄せられるようにその肩に頭を預けてしまった。
「…私、あなたに依存しすぎてる気がするわ。このままここにいるわけにもいかなくて、戻るときは来るのに、想像すると不安になる」
素直すぎる言葉。
高瀬くんは一瞬だけタイピングを止めると
パソコンを閉じ、空いた腕で私の腰をぐいっと引き寄せた。
「戻る必要なんて、ないじゃないですか」
「な、なに言って……」
「俺がいないとダメだって、もっと自覚してください。…俺だって、先輩がいない朝なんて、もう想像しただけで寂しいですよ」
彼は私の髪に顔を埋め、深く呼吸をした。シトラスの香りが、私を包み込む。
心地よくて、温かくて、離れたくない。
でも、依存すればするほど、失った時の恐怖が膨れ上がっていく。
私は少しだけ笑って、彼のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「鉄の女」だった頃の私は、もうどこにもいない。
私はただの、恋に臆病で
でも目の前の温もりに抗えない一人の女として
彼という甘い沼に、一歩、また一歩と深く沈んでいっていた。
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