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みら

19,807
207
36
温泉旅行の日。
阿部の部屋には。
朝から九人が集まっていた。
正確には。
阿部の部屋の、トイレの前に。
「……ほんとにここ?」
佐久間が言う。
「俺も信じたくない」
阿部は腕を組んだ。
「天使がここに作ったって」
「なんでトイレなん?」
康二が笑う。
「俺が聞きたいよ」
渡辺は露骨に嫌そうな顔で、トイレの扉を見る。
「無理なんだけど」
「何が?」
深澤が聞く。
「旅行の始まりがトイレなの嫌じゃない?」
「まあ、普通ではないよね」
宮舘が静かに頷く。
ラウールは。
扉の前にしゃがんで眺めている。
「見た目普通だね」
「普通のトイレだからね」
「開けたら旅館なんでしょ?」
「多分」
「多分?」
岩本が阿部を見る。
「天使情報だから」
「ああ」
それだけで。
全員がなんとなく納得した。
目黒は阿部の隣に立っている。
「開けてみる?」
「うん」
阿部は。
少しだけ緊張しながらドアノブに手をかけた。
普通なら。
この向こうにはトイレがある。
昨日までは。
普通に使っていた。
「……行くよ」
「うん!」
佐久間だけが妙に楽しそうだった。
阿部が扉を開ける。
「……」
九人全員が。
黙った。
そこに。
トイレはなかった。
広い玄関。
木の香りがする廊下。
少し奥には。
大きな窓。
その向こうに山が見える。
和服姿の従業員まで立っていた。
「いらっしゃいませ」
丁寧に頭を下げられる。
佐久間が。
ゆっくり阿部を見る。
「……旅館だ」
「旅館だね」
「ほんとに繋がってる!」
「俺もびっくりしてる」
康二はすぐカメラを構えた。
「待って! これ撮りたい!」
「トイレから出てくるところ?」
「おもろいやん!」
「嫌だよ!」
渡辺が即答する。
「絶対残さないで」
「しょっぴー、記念やで」
「いらない記念」
最初に阿部が向こうへ入る。
一歩。
境界を越える。
振り返ると。
自分の部屋のトイレ前に。
八人が並んでいた。
「すご」
ラウールも続く。
「ほんとに別の場所だ」
佐久間。
康二。
宮舘。
渡辺。
深澤。
岩本。
一人ずつ。
旅館側へ入ってくる。
最後に。
目黒が残った。
目黒は。
自分たちが通ってきた扉を見る。
「これ」
「何?」
阿部が聞く。
「閉めても大丈夫?」
全員。
止まった。
「……」
阿部も扉を見る。
昨日。
天使は言っていた。
一回しか使えない。
「待って」
「うん」
「一回しか使えないって」
「言ってたね」
「これ閉めたら」
深澤が続きを言う。
「終わりとかないよね?」
「……」
渡辺が顔をしかめる。
「やめてよ」
「いや、でもありそうじゃない?」
「天使だし」
佐久間が言う。
「適当だもんね」
「だから怖いんだよ!」
阿部が頭を抱える。
目黒は扉を支えたまま。
「開けっぱなしにする?」
岩本が旅館の玄関を見る。
「でもずっと開けっぱなしも変じゃない?」
「確かに」
宮舘が頷く。
「従業員さん困るんじゃない?」
その時。
旅館の人がにこやかに言った。
「お閉めいただいて大丈夫ですよ」
九人全員が。
その人を見る。
「本当に?」
阿部が聞く。
「はい」
「帰れます?」
「もちろんでございます」
「どうやって?」
従業員は。
にこやかなままだった。
「お帰りの際にご案内いたします」
「……」
阿部は。
少し安心する。
「じゃあ」
目黒が扉を見る。
「閉めるね?」
「待って!」
佐久間が急に言った。
「何?」
「俺が閉める!」
「なんで?」
「こういうのは勢いが大事!」
「絶対違う」
阿部が止めるより早く。
佐久間が扉へ手を伸ばした。
バタン。
閉まる。
「佐久間ー!」
「閉めた!」
「見れば分かるよ!」
渡辺も呆れる。
「これで帰れなかったら佐久間のせいだから」
「え!?」
「責任重大だね」
ラウールが笑う。
佐久間は急に不安そうな顔になる。
「開け直す?」
阿部が扉を開ける。
向こうには。
普通の旅館の壁があった。
「……」
佐久間が固まる。
「消えた」
「だから一回って言ったじゃん!」
「ほんとに一回だった!」
「嬉しそうに言わないで!」
目黒が笑っている。
阿部は睨む。
「めめ」
「ごめん」
「帰れなかったらどうするの」
「その時は」
少し考える。
「もう一泊?」
「そういう問題じゃない!」
案内された部屋へ向かう。
廊下を歩きながら。
康二はずっと写真を撮っていた。
「景色ええなあ」
大きな窓の向こうには。
山。
川。
少し遠くには。
滝まで見える。
「これ全部夢なんだよね」
ラウールが言う。
阿部も外を見る。
「そうらしい」
「すごいね」
「俺が作ったって言われても全然実感ないけど」
やがて。
従業員が一番奥の扉を開ける。
「こちらでございます」
全員で中へ入る。
「……」
また。
止まった。
広い。
とにかく。
広い。
畳の大部屋。
その奥に。
さらに別の部屋。
窓際には。
大きなテーブル。
マッサージチェア。
ゲーム機。
冷蔵庫。
壁際には。
卓球のラケットまで置いてある。
佐久間が。
両手を広げる。
「最高!」
阿部は。
部屋を見回す。
「……広すぎない?」
目黒が言う。
「天使、狭いって言ってたから」
「だからって急にこれ?」
ラウールは冷蔵庫を開ける。
「うわ」
「何?」
「飲み物いっぱいある」
「ほんと?」
阿部も覗く。
自分が普段飲むもの。
目黒が好きなもの。
佐久間が喜びそうなもの。
渡辺が選びそうなもの。
みんなの好みらしいものが。
きれいに揃っている。
「怖」
渡辺が言う。
「何が?」
「夢、好み把握しすぎ」
「俺の夢だから?」
「それにしても」
宮舘は。
テーブルに置かれているお茶菓子を見る。
「阿部の好みが結構出てるね」
「分かる?」
「うん」
「なんか恥ずかしい」
佐久間は。
別の扉を開ける。
「こっち何!?」
全員が見る。
「露天風呂!」
「部屋に?」
深澤も寄ってくる。
窓の外には。
大きな露天風呂。
さらに。
その奥には山。
「貸切?」
岩本が聞く。
従業員が頷く。
「こちらのお部屋専用でございます」
「え、九人で入れる?」
佐久間が聞く。
「十分な広さがございます」
渡辺が。
すぐ言う。
「男女分けて」
深澤も頷く。
「それはそう」
阿部も。
なんとなく胸元を押さえる。
「夢でもそこは気になるんだ」
目黒が笑う。
「普通に気になるよ」
「一緒でもいいのに」
「よくない」
「即答」
さらに。
部屋の奥。
襖を開ける。
そこには。
布団を敷くためらしい広い和室。
すでに。
九人分の布団が準備されていた。
「早くない?」
阿部が言う。
「まだ昼だよ」
佐久間が数える。
「一、二、三……九!」
「ちゃんと九人分あるね」
ラウールが笑う。
その中で。
目黒が。
一か所を見ていた。
阿部も気づく。
「……何?」
「別に」
「何見てるの」
「布団」
「布団?」
目黒が。
少しだけ笑う。
阿部の布団の隣。
当然のように。
目黒の布団。
ぴったり並んでいる。
阿部は。
すぐに意味を理解した。
「……」
佐久間も気づく。
「あー!」
「言わなくていい!」
「蓮とあべちゃん隣!」
「見れば分かるよ!」
渡辺が冷めた声で言う。
「夢まで分かってるんだ」
「何が?」
阿部が聞く。
「配置」
「やめて」
目黒は。
かなり嬉しそうだった。
「いい夢だね」
「めめ」
「何?」
「見ないで」
「もう見た」
「じゃあ忘れて」
「無理」
阿部は。
顔を赤くして。
別の方を見る。
その間。
ラウールは。
また別の場所を見つけていた。
「ねえ」
「何?」
「こっち」
全員が行く。
そこには。
小さなゲームコーナー。
卓球台。
カードゲーム。
ボードゲーム。
さらには。
アイス用の冷凍庫まであった。
「……」
深澤が阿部を見る。
「あべちゃん」
「何?」
「欲望出すぎじゃない?」
「俺じゃないよ!」
「あべちゃんの夢でしょ?」
「だからって全部俺が頼んだわけじゃない!」
佐久間が卓球のラケットを持つ。
「俺これやる!」
ラウールは。
アイスを見る。
「俺こっち」
康二は。
カメラを構える。
「俺全部撮る」
渡辺は。
マッサージチェアに座った。
「あ、これいい」
「翔太もう休むの?」
宮舘が笑う。
「移動してきたから疲れた」
「トイレ一枚越えただけじゃん」
阿部が言う。
「精神的に疲れた」
「それはちょっと分かる」
岩本も。
部屋を見渡す。
「本当に何でもあるね」
「うん」
宮舘が。
窓の外を見る。
「景色も静かだし」
「人もいない」
阿部も。
そちらを見る。
山。
川。
青い空。
聞こえるのは。
水の音くらい。
ニュースも。
カメラも。
誰かの視線も。
何もない。
九人だけ。
「……こういうところ」
阿部が呟く。
目黒が隣を見る。
「好き?」
「うん」
少し考える。
「好きかも」
静かで。
誰にも見られなくて。
みんながいて。
何もしなくてもいい。
天使が。
今の阿部は暗すぎると言って。
温泉に行けと言った理由が。
少しだけ分かった気がした。
「ねえ」
ラウールが。
急に阿部を見る。
「何?」
「これ」
部屋中を指差す。
「完全にあべちゃんの理想じゃない?」
「違うって」
「ほんと?」
「俺こんなにゲーム置かないし」
佐久間がすぐ言う。
「俺の理想も混ざってる!」
「じゃあ九人分?」
康二が言う。
「そうなんちゃう?」
宮舘も頷く。
「みんなが楽しめるようになってる感じはするね」
阿部は。
改めて部屋を見る。
確かに。
自分だけではない。
佐久間が好きそうなもの。
ラウールが喜びそうなもの。
翔太がくつろげるもの。
康二が撮りたくなる景色。
館さんが気に入りそうな料理。
ふっかと照がのんびりできそうな場所。
めめと。
一緒にいられる部屋。
「……俺だけの夢じゃなくなってるのかな」
阿部が小さく言う。
目黒が。
隣で笑った。
「かもね」
その言葉に。
阿部も少し笑った。
今は。
傷のことも。
帰ることも。
考えなくていい。
とりあえず。
九人で。
この旅館を楽しめばいい。
「よし」
阿部が言う。
「何する?」
佐久間が即答する。
「卓球!」
ラウール。
「食べる!」
康二。
「写真!」
阿部は。
思わず笑った。
「夢の国の時と一緒じゃん」
九人の温泉旅行は。
こうして始まった。
夕方。
温泉に入ったり。
卓球をしたり。
部屋でだらだらしたり。
それぞれ好きに過ごしているうちに。
夕食の時間になった。
「お待たせいたしました」
広い個室に案内されると。
九人分の料理が並んでいた。
「うわ」
ラウールの目が輝く。
「多い」
「ラウには足りないんじゃない?」
阿部が笑う。
「おかわりあるかな」
「もう考えてるの?」
佐久間も。
料理を見ながら嬉しそうに声を上げる。
「豪華!」
刺身。
焼き物。
煮物。
鍋。
炊き込みご飯。
小さな器に入った前菜。
そして。
最後にはデザートまであるらしい。
「これ絶対あべちゃんの夢の力入ってるって」
深澤が言う。
「なんで?」
「好きそうなのばっかじゃん」
「そう?」
宮舘が料理を見ながら。
静かに頷いた。
「確かに」
「館さんまで」
「でも、みんなが好きそうなものもあるね」
渡辺が鍋を覗き込む。
「これ美味しそう」
宮舘がすぐに言う。
「翔太、取り分ける?」
「うん」
「自分でやりなよ」
深澤が笑う。
「いいじゃん」
「甘やかされてるねえ」
「うるさい」
いつものやり取り。
その横で。
ラウールはもう食べ始めている。
康二は。
料理にカメラを向けていた。
「食べる前に撮る!」
「康二、それ終わった?」
佐久間が待ちきれない。
「今!」
「早く!」
「さっくん子どもみたいやな」
「お腹空いた!」
岩本が笑う。
「じゃあ食べよっか」
「いただきます」
九人の声が重なる。
食事が始まると。
すぐに賑やかになった。
「これ美味しい!」
佐久間が焼き物を指差す。
「分かる」
阿部も頷く。
ラウールは。
かなりの速さで食べ進めている。
「ラウ」
「ん?」
「ちゃんと噛んでる?」
「噛んでるよ」
「ほんと?」
「子どもじゃないんだから」
その横で。
康二は食べながらも写真を撮る。
「康二」
渡辺が呆れる。
「飯くらい普通に食えないの?」
「これも思い出やん」
「温泉旅行まで仕事してる」
「仕事ちゃうって」
康二は笑う。
「好きで撮っとんねん」
阿部は。
その言葉を聞いて。
少しだけ笑った。
昨日。
康二から聞いた話を思い出す。
それでも。
今は。
そこに重さを持ち込まなかった。
今日は。
楽しむ日。
それでいい。
阿部は。
炊き込みご飯を食べる。
「……美味しい」
目黒が隣を見る。
「気に入った?」
「うん」
「おかわりする?」
「する」
「珍しい」
渡辺が言う。
阿部が見る。
「何が?」
「いや」
少しだけ。
言葉を止める。
「結構食べるなと思って」
「温泉入ったからかな」
「卓球もしたしね」
目黒が笑う。
阿部は。
空になった茶碗を見る。
「もう一杯いけそう」
その瞬間。
宮舘の箸が。
止まった。
ほんの一瞬。
本当に。
少しだけ。
でも。
阿部は気づかなかった。
目黒だけが。
宮舘の方を見る。
渡辺も。
隣にいるから気づいたらしい。
でも。
誰も何も言わなかった。
宮舘は。
すぐにいつもの顔に戻る。
「おかわり頼もうか」
「うん」
阿部は嬉しそうに頷いた。
食事の最後。
デザートまで。
阿部は全部食べた。
「お腹いっぱい」
畳に座ったまま。
少しだけ後ろへ倒れる。
「食べすぎた」
「さっきおかわりしてたもん」
目黒が笑う。
「美味しかったから」
ラウールは。
まだ何か食べられそうな顔をしている。
佐久間が見る。
「ラウ、まだいける?」
「いける」
「怖」
「アイス食べたい」
「部屋にあった!」
「戻ろう」
ラウールが立ち上がる。
「早」
阿部が笑う。
佐久間も。
すぐに立ち上がった。
「俺も!」
「じゃあ先戻ろっか」
岩本が言う。
深澤も立つ。
「俺、マッサージチェア使いたい」
康二もカメラを持つ。
「夜の景色撮りたいな」
「また撮るの?」
「撮る」
一人。
また一人。
部屋へ戻っていく。
最後には。
四人だけが残った。
阿部。
目黒。
宮舘。
渡辺。
「館さんたちは戻らないの?」
阿部が聞く。
「もう少しここにいる」
宮舘が答える。
渡辺も。
「俺も」
と言った。
目黒は。
阿部の隣に残っていた。
阿部は。
特に何も考えず。
「じゃあ俺ももうちょっといようかな」
と答えた。
コメント
1件
第36話、読み終えました。トイレをくぐったら旅館って発想、すごく好きです。しかも一回だけしか使えない扉を佐久間が勢いよく閉めちゃうところで笑いました。布団の配置であべちゃんの隣に当然のように目黒が並んでいたシーン、細かいけど「夢まで分かってる」って感じがしてじんわりきました。おかわりした阿部を見て館さんと翔太が一瞬止まるところも、何も言わないのが優しいなと。楽しいだけじゃなくて、ちゃんと九人の関係性がにじんでいて、いい話だなあと思いました。