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(してやられた。くそっ)
アシェルはノアの肩に額を付けたまま舌打ちした。
今ごろきっと、絶対の信頼を置いている宮廷魔術師は、ニヤニヤと意地悪く笑っているだろう。
アシェルは自分が性格が良い方ではないと自覚しているが、それでもグレイアスほどではない。
あの男は自分の価値をちゃんとわかっている。仮に咎められたとしても、言い返せる材料をごまんと用意しているはずだ。
それに何より、グレイアスは無駄なことはしないし、面白がって人の色恋をかき乱すようなこともしない。
こうすることが一番だというタイミングで、背中を押すのだ。
(……まったく、なんでアイツはあんなに性格が悪いんだ!?)
長年友として、頼れる家臣として傍にいるが、時折アシェルは宮廷魔術師の手のひらで踊らされているような気がしてならない。
「殿下、驚かせてごめんなさい。やっぱり、直接私からお伝えすれば良かったですね……本当に、申し訳ないです」
無防備に肩を差し出している少女は、そう言ってまた背中を優しく叩いてくれる。
ゆるゆると顔を上げると、お互いの吐息をとても感じる。ノアが、緩く微笑んだのが気配でわかった。
「……殿下、ここにずっと居るのはアレなんで一先ずお部屋に戻りましょう」
「い、いい……のか?」
「もちろん!いいですよー」
殿下を一人で帰らせる訳にはいきませんから。
最後に耳元で囁かれたその言葉の中に、自分と同じ想いがあればと祈るが、どうしたって見つけることはできなかった。
でも、なんの躊躇いもなく自分の手を取って立ち上がり、「ってか、どっちが帰る方向だろう??」とオロオロするノアが愛しくて堪らなかった。
気づけばアシェルはまた、ノアを己の胸に抱き寄せていた。
(……誰かが居なくなってしまうのが、こんなにも怖いなど知らなかった)
盲目になって精霊を見る瞳を失って、たくさんの人が背を向けた。王位継承権がないなら、なんの価値も無いとあからさまに態度で示された。
それは確かに辛かったし、悔しかった。しかし、怖いとは思わなかった。
失った権威は取り戻せばいいだけだし、身近な人間の本心を見ることができたと思えば、それはそれでと割り切ることだってできた。
しかし、たった一人の少女が自分の元から消えてしまうと思った瞬間、例えようのない恐怖に襲われた。
ノアを抱き締めたまま、無意識に柔らかい髪に口付けを落としていた自分に気づいて、アシェルは笑い出したくなった。
己が選んだ道に、こういう感情は必要なかったはずなのに。でも違うと否定しても、湧き出る感情に名前を与えてしまったのだ。もう理性だけでは抑えられない。
「あのう……殿下、つかぬことを聞きますが、もしかして歩けないほど具合悪くなっちゃいました?」
異性の男に抱きしめられたというのに、愛しい彼女は気遣う言葉しかくれない。
そしてその声音には、やっぱり自分と同じ想いは含まれていない。
(……彼女を利用しようとしているのに、私と同じ気持ちになってほしいだなんて望みすぎなのはわかっている。……でも、どうやったらノアは私のことを好きになってくれるのだろう)
そんなことを口にできないアシェルは、またノアに小さな嘘を重ねる。
「ああ。ちょっとだけ目眩がするんだ。だから、ノア……もう少しだけこうしていて」
すぐさま「いいですよー」という呑気な声と共に、小さな手を背中に感じて、アシェルは不意に泣きたくなった。
***
一方、ノアといえば。
(うわぁあああ、なんか自分から抱きついちゃった!)
ノアは人生で初めて成人した男をぎゅっとしている現実に、なんだか恥ずかしくなって顔が熱くなる。
それが何だか恥ずかしくて、これは体調不良の雇用主を介抱しているだけだと自分に言い聞かせる。
だってそうしないと、いけない場所に踏み込んでしまったような気持ちになってしまうのだ。
ただ、こんなふうにアタフタするのは、そもそもアシェルのせいだとノアはちょっとだけムッとする。
(もうっ、私たちはお仕事だけの関係のはずなのに、そんな顔であんなことをするのは少し狡いと思う!)
そんな主張を声に出してしたくなるが、口から出た言葉は別のものだった。
「殿下、私は急に居なくなったりはしませんよー」
「……本当に?」
「はい。約束します……って、で……殿下、あの、ちょっと……く、苦しいです」
なせ、即答した途端に腕の力を強められるの?あと、こんなに元気ならもう歩けるんじゃないか?
そう思った途端、ノアはアシェルの肩をポンポンと叩いた。
「殿下、そろそろ戻りましょう。お部屋まで案内しますよ」
「……嫌だ」
「えー」
掠れた声で首を横に振られてしまい、ノアは困惑した声を出すことしかできない。
だからと言って、アシェルに対してムッとしたりはしない。それがとっても不思議だ。
胸に沸いた小さな戸惑いは次第に膨れ上がっていくが、パチンと弾ける前に植え込みが音を立てて揺れた。
「……ノア様、突然ですが残念なお知らせがありますが、お伝えしてもよろしいでしょうか?」
瞬きする間に消えて、絶妙なタイミングで現れたのはフレシアだった。
ぶっちゃけ、彼女の登場の方がよっぽど突然のような気がするが、誤解されそうなこの状況をなんとかする方が先決だ。
「あ、あの、こ、これはですね──」
「ん?この声はフレシアだね。いいよ、言って」
ノアの言葉を遮って、アシェルがフレシアに許可を出す。ちなみに、彼はノアを抱きしめたままの状態だ。
(殿下はこのままでいいの!?)
ノアとしては、早急に離れるべきだと思う。だがしかし、身じろぎをしても頑丈な腕はピクリとも動かない。
一方フレシアは、抱き合っている二人なんぞ興味がないようで、感情を乗せない声で衝撃的なことを告げた。
「では、失礼して──……ノア様、申し訳ございません。実は用意していた馬車に不具合がありまして、本日はどう頑張っても替えの馬車を用意することができません」
(……はぁ?)
「……はぁ?」
心の中で思ったと同時に、ついそのまま口から出てしまった。
しかし……まぁ、今回の一時帰宅はグレイアス先生の善意で成り立っているのがほとんどだったので、ノアは文句を言う権利はない。
「そ、そっか。フレシアさん、わざわざ先回りして馬車を見に行ってくれたんですね。ありがとうございます。あと、殿下……そういうことですので、動けるようになったら」
「うん。動けるようになったよ。ノア、帰ろう」
かぶせるようにそう言ったアシェルに、ノアは「随分タイミングが良いな」と思うべきだった。
でも、なんかもう疲れてしまったノアは、全てを放棄して頷くと、アシェルの手を取って離宮へと歩き始めた。
ちなみに今回は、フレシアは消えることなく離宮まで先導してくれた。