この作品はいかがでしたか?
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『なのちゃん、仕事が終わったらうちに来なさい。いいわね?』
お母さんから有無を言わせぬ口調でそんな留守電が入っていた今日。
私はなおちゃんとの電話を切ったあと、なかなか踏ん切りがつかなくて、車の中に一人ぼんやり座っていた。
日頃はのほほんとしているお母さんの聞き慣れない声音に、私はソワソワしてずっと心がざわついている。
何か悪いことが起こったとしか思えない。
一人暮らしで家を出ている私と違い、未だ実家住まいをしている姉のことをふと思い出した私は、姉に聞いてみることにした。
『あんた、悪いことするときはバレないようにやらなきゃダメじゃない。お母さん、相当悩んでたよ?』
開口一番溜め息混じりに姉がそう言って。
私はなおちゃんとのことが母にバレたことを知った。
「な、んで……」
――分かったのかな?
そう続けたかったけど、喉がカラカラに乾いて紡げなかった。
だけどお姉ちゃんはちゃんと察してくれたみたい。
『菜乃香、昨日うちにお土産持ってきたでしょ? あん中にホテルの領収証が入ってたのよ。相手の名前入りの……』
私が市役所で臨時職員(今は会計年度任用職員というらしいけれど私が働いていた時は臨職と呼ばれていた)をしていたことは、もちろん母も知っている。
というより、懇意にしている市議さんを通して私の仕事の世話をきいてくれたのは、小さな運送会社社長を営む母方の祖父だったから。
私が市役所で働けるように頼んでくれたのはきっと母に他ならない。
私は基本的に隠し事が苦手なタイプで、市役所で働いている間も、自分の周りにいる職員さんたちの名前などを交えてその日あったことなど家でよく話していた。
当然、かつて一緒に働いていた公園緑地係のおじさんたちの名前もしょっちゅう出していて……その中にはなおちゃん――緒川さん――の名前も含まれていたはずだ。
お母さんはコンビニでパートタイマーをしているんだけど、常連のお客さんに関してはその人が頻繁に買うものの趣味嗜好をしっかり把握していて、「コーヒー、今日はいらない?」とか「煙草は○番ですよね?」とか、さり気なく言えちゃえるような人。
要するに、とっても記憶力がいい。
なおちゃんの名前を覚えていたって不思議じゃないの。
『今日はお母さんに呼び出されたんでしょ? 覚悟して行きなよ?』
電話の切り際、姉に苦笑まじりの声音でそう言われたけれど、言われなくてもそんなの分かってる。
でも……どうしたらいいんだろう。
人の道に外れたことをしているんだもん。
きっと物凄く怒られちゃうよね。
***
「ただいまー……」
いつもなら「ただいまっ!」とハキハキとした声で開けられる実家の玄関だけど、今日はとてもじゃないけどそんな気になれなかった。
お母さんはお父さんにもなおちゃんとのことを話したのかな。
お父さんに知られたら絶対面倒だ。
そう思ったけど、いつも十七時には帰っているはずの父の車が、まだ車庫に入っていない。
もしかしたら今日は居ない日?
祖父の会社で大型トラックの運転手をしている父は、祖父の計らいで基本的には日帰り出来る距離ばかりを走行している。
姉が幼い頃は、広島に拠点のある自動車メーカーの営業マンをしていた父は、土日に不在なことが多かった。
父親っ子だった幼稚園児の姉が、父親不在の寂しさからか、様子がおかしくなってしまったらしい。
情緒が不安定になり、今まではカラフルに伸び伸び描いていた絵が、太陽を隅っこの方に小さく小さく描くようになったり、色使いが黒一色になってしまったり、誰の目から見ても明らかに「変」になってしまったそうだ。
幼稚園の先生からそんな指摘を受けた母が、子供らに絵の描き方を教えていた知人に姉の絵を見せて相談したら、「両親から、特に父親からの愛情に飢えてる子供がよくこんな絵を描くよ? 心当たりない?」と指摘されたんだとか。
その話を受けて、父はすぐに車の営業を辞め、元々持っていた大型自動車の運転免許を活かす形で、義父(私からすると祖父)のやっていた会社に転職したらしい。
父親は、私が生まれた時には既に大型トラックの運転手で、私はお父さんがそれ以外の仕事をしていたことがあると言われてもピンと来なかった。
ただ、家にある車が何度買い替えても同じメーカーの車ばかりだったのは、父が勤めていた時の同僚から車を買っているためだと、子供心に聞かされたのを覚えている。
同僚たちがいなくなってからはあちこちの車メーカーの車に買い替えられるようになったけれど、小さい頃は本当、同じメーカーの車ばかりだった。
そんな父だったけど、私たちが小学校にあがる頃には、たまに泊まりがけで走るような距離――大抵行き先は鳥取県――の仕事に出ることがあった。
そういう時は夜帰ってこない。
恐らく今晩はそれだ。
「今日はお父さん、出雲?」
キッチンに立って夕飯の支度をしている母に、何の気なしを装って聞けば、「うん、そう」とつぶやくような返事があって。
お母さんの声も沈んで聞こえて、私は心臓をギュッと掴まれたような息苦しさを覚える。
姉は私が今日ここへ来ることを知っているから、わざと寄り道をして帰るって言ってた。
『私は邪魔しないようにするからしっかりお母さんと話し合いな』
姉にそう言われたのを思い出して、私はギュッと拳を握りしめた。
***
「まぁとりあえずそこに座りなさい」
火を止めてこちらを振り返った母に、リビングの椅子に座るよう促される。
無言でコーヒーを淹れてくれたのを「ありがとう」と受け取りながら、私は緊張でどうにかなりそうだった。
「今日、お母さんが何であなたを呼び出したか分かってるよね?」
――お姉ちゃんに聞いたんでしょう?
そう言外に含まされているような物言いに、母は私の行動なんてお見通しなんだと思った。
小さくうなずいたら、目の前にスッと一枚の紙が差し出された。
姉が言っていたホテルの領収証で、宛名のところにバッチリ「オガワナオユキ様」となおちゃんの名前が入っていた。
「お母さんね、なのちゃんが彼氏とお泊まりだって言うから……なのちゃんもそういうお年頃だしなぁって思ってたの」
お父さんは「男と泊まりがけなんて!」とプンスカしていたらしいけれど、「もう大人なんだから」とお母さんが宥めてくれたのだと初めて聞かされた。
「なのちゃんはまだ若いんだし、お付き合いをしたからってその人と結婚しなきゃいけないとは思わないよ?」
お母さんはそう前置きをしてから、小さく吐息を落とした。
「――家庭のある人を好きになっちゃったのも仕方がないと思う。ううん。人を好きになるのは止められないし、誰かを好きになれるっていうのは素敵なことだともお母さん思うよ?」
そこまで言って私をじっと見つめると、「でもね」と続けた。
「でもね、なのちゃん。不倫はダメ。その一線を越えたらみんなが不幸になっちゃう」
その人のことを好きだなぁって想っているだけなら許されるけど、行動に移したらダメだとお母さんは私の手をギュッと握った。
「何回も言うよ? 人を好きになるのはとっても素敵なことだと思う。だけど……なのちゃん。どんなに好きでも緒川さんとは別れなきゃダメ。分かった?」
てっきりこっぴどく頭ごなしに怒られると思っていたから……。
その優しく諭すようなお母さんの言い方に、私は胸がギュッと苦しくなった。
お母さんは今回のこと、お姉ちゃんには話したみたいだけど、お父さんには言わずにいてくれたみたい。
お父さんに言えば、きっと頭ごなしに私の気持ちを否定しちゃうって分かっていたからかな。
〝菜乃香! 何を馬鹿なことしてるの! 妻子持ちの男性となんて、さっさと別れなさい!〟
そんな風に言われた方がマシだった気さえしてしまう。
押さえつけるように私の気持ちを全否定されたなら、「私となおちゃんの何が分かるって言うのよ!」ってお母さんに酷いことを言って突っぱねられたもの。
ねぇ、なおちゃん。
私、なおちゃんのこと本当に本当に大好きだけど……お別れしなきゃいけないね。
お母さんを悲しませたくないから。
そう思ってしまったよ。
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