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靴を履き替えながら、遥は一瞬、躊躇した。下駄箱の隅に、小さく丸められた紙屑が落ちていた。
誰のものかなんて考えるまでもない。
足先でそれを避け、教室へと向かう。
ドアを開けた瞬間、教室に流れていた小さなざわめきが──止まった。
たった一歩、足を踏み入れたことで、空気が変わる。
誰も声を荒げない。誰も睨んでこない。
ただ、“もう答え合わせは済んでます”という顔をして、目を逸らす。
窓際の席には日下部がいた。
視線は黒板に向けられているが、何も見ていない。
遥の気配に気づいているのは間違いない。
でも、目は合わない。
(やっぱ、こうなるよな……)
遥は静かに席へ向かった。
ふたりの間に引かれた、昨日のチョークの線がまだうっすら残っている。
教室の誰も、それを消そうとはしなかった。
机に着くと、ノートの上に一枚の付箋が置かれていた。
《“守る”って気持ち悪い》
一瞬、視線を横にずらす。
誰が置いたかなんて、もうどうでもよかった。
遥は付箋を丸めて、胸ポケットにしまった。
捨てる気にはなれなかった。
(……あいつも、捨てないかもな。あの紙)
日下部のほうを見ようとして──やめた。
代わりに、ぼんやりと黒板を見る。
あの文字はもう消されている。けれど、“加害者はどっち?”という問いだけが、
心の中で、何度もなぞられる。
昼休み、教室に残ったのはふたりきりだった。
偶然──ではなく、たぶん“わざと”。
昼食を取りに行くという口実で、全員がいなくなる。
静寂。
窓の外から、どこかの教室の笑い声が微かに聞こえる。
遥は弁当を開くでもなく、ただ、指先で机をなぞっていた。
「……見たよ」
日下部の声が、沈黙を破った。
遥は顔を上げない。
「お前のロッカー。あと、机」
間が落ちる。
「……で?」
遥の声は、冷たいというより、空虚だった。
「何も、してこなかったから。誰にも。……言葉が出なかった」
遥は小さく笑った。
「不器用すぎ。……昔から」
言葉に棘はなかった。
けれど優しさもなかった。
ただ、どこにも向かわない感情の残骸だった。
「なぁ、遥」
「やめろ」
遥の声が重なった。
遮るように、拒絶するように。
「……おまえが“そういう目”で見たら、ほんとに、俺……加害者になる」
沈黙。
「俺が一線越えたってことに──なる」
日下部は動かなかった。
遥の言葉が、どれほど怖さを孕んでいたかを、痛いほどわかっていた。
「なにもしなかったよ」
「わかってる」
「俺は、おまえの味方だよ」
「……そうやって言うの、やめろって言ってんだろ」
遥の声が、わずかに震えた。
「“味方”って言えば、俺が安心すると思ってんだろ? ……おまえ、ほんとバカだな」
日下部は何も返さなかった。
それが、遥の心を余計に刺した。
その静けさが、優しさとして降りかかるたびに、
遥は、自分が“ひどい人間”に思えて仕方がなかった。
だから──
「離れろよ、もう」
ぽつり、と落ちた遥の声に、日下部の肩が、初めてわずかに揺れた。
けれど、立ち上がることはなかった。
その午後、誰も戻ってこなかった教室の中で──
ふたりの間には、声では届かない断絶が、
何層にも重ねられていった。