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誰もいない教室。
夕日が斜めに差し込む中、カーテンの裾がかすかに揺れている。
誰も喋らないまま、ふたりだけが残された空間。
日下部は席に座り、何かを考えるふりをして、ノートを開いていた。
けれど、そのページはもう三十分以上、めくられていない。
遥は、窓の外を向いたまま立っている。
後ろ姿しか見えない。
でも、何度か、肩がかすかに揺れていた。
咳でも、笑いでも、泣きでもなかった。
ただ、何かが限界に近づいていると、日下部にはわかった。
「……この前の、写真」
遥が不意に言った。
か細くて、音のように淡い声だった。
「誰が撮ったか、知ってる?」
「……蓮司、だと思う」
「うん。俺も、そう思った」
しばらく沈黙。
「じゃあさ、そのあとロッカーに書いたのも、たぶん──」
遥は言いかけて、そこで言葉を切った。
続けなかった。
日下部も、続きを言わなかった。
代わりに遥は、ぽつりと呟いた。
「わかってたのに、……“寄りかかった”の、俺のほうなんだよ」
日下部の指が、ノートの角を無意識に強くつまんだ。
指の節が、白くなる。
「悪いな」
遥の声は、謝罪でも告白でもなかった。
ただ、言葉だけが残されていた。
「俺、あのとき……“誰かに触れてほしかった”だけなのに」
振り返らない遥の背中を、日下部はまっすぐに見つめていた。
「……触れたいって思うの、そんなにいけないことか?」
「うん。俺にとっては、いけないことなんだよ」
少し笑うような声だった。
そのくせ、ひどく遠かった。
「日下部の手、きれいだからさ」
「──は?」
「なんか、さ……」
遥がようやく振り返った。
その顔には、怒りも涙もなかった。
ただ、ひどく静かで、綺麗に諦めた目をしていた。
「お前のその手で俺を抱いたら、もう、お前は“汚れる”じゃん」
「……何言ってんだよ」
日下部が言ったとき、遥はすでに背を向けて、教室を出ていた。
その足音は、すこし震えていた。
日下部は、席から立てなかった。
教室の中には、まだ遥の匂いが残っていた。
窓からの夕陽が、今はもう赤くもなかった。
色が剥げたような光だけが、床に影をつくっていた。
「……汚してるの、俺のほうなのに」
誰に向けるでもなく、日下部が呟いた。
そのとき教室の外の廊下を、誰かが通り過ぎた。
ひそひそと、声がする。
「まだあのふたり、付き合ってるフリしてんの?」
「てかさ、性癖バグってんじゃない?」
笑い声。
けれど、日下部は何も反応しなかった。
ただ、その声が遥の耳に届いたかどうか、それだけを気にしていた。
(──今度こそ、本当に壊れるかもしれない)
でも、どう止めればいいのか、わからなかった。