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空の彼方、海の向こう

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空の彼方、海の向こう

1 - 空の彼方、海の向こう

♥

21

2024年08月19日

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私の前には海がある。

青い…海が。


―この海には穢れがない

気がつけば、私はまた月の浜辺を歩いていた。

波が足にかからないように波打ち際のへりを歩く。

…もっとも波がかかっても私の足は今、裸足だ…。

まだ私は世界の端の小さな島に暮らす女子高生で、たまにこんないい月夜には、家の近くの浜辺に遊びにくる。

ちなみに家から浜辺まで歩いて五分だ。

勉強もしなくちゃいけないのだろうけど、勉強嫌いな私は夜の時間を学校の課題に費やさず、こうして月の光と波と戯れることに使っている。

そりゃ、先生や、お父さん、お母さんからは将来を心配されているけれど、楽しい今を逃してしまうことのほうが私にはもっと心配だ。

…なんて…高校生らしい刹那じみた考えを、私は今日も波と遊ぶ口実にしてる。

「…だってこんなこと今しかできないでしょ。今感じるものは今だけのものなんだから」

そんな私の隣で、打ち上げられた海藻たちが月の光の波に寄せられて浜辺に黒髪をなげ出すように横たわる。

―ああ、きっと海藻たちは海にかえるときを待っているのかもしれない。

私はそう思う。

きっと、その考えのなかには私の願望もまじっていて、人類が太古、この海から来たというのなら、私の奥にある、純粋なものが私に、そんなことを思わせているんだろう。

そう考えて、私は手のひらに波をすくった。 月の光でそれは手のひらのうえでも光っていた。

「今日の学校の課題はちゃんとやったか?今日、吉田先生と会社帰りにすれちがって詩乃の話になった。最近成績がよくないようで、このままでは進学もままなりませんからお父さんからも言ってあげてください、といわれた。詩乃…。お前、そんなに成績悪かったのか。こないだのテスト良かったと言ってたのは、あれは嘘なのか」

―またうるさいなー、と私は思いながら

「だって学校なんて楽しくないんだもん。みんな真面目な顔で考えてることは大したことでもないのに、自分たちは学んでるだけで大した存在だと思い込まされる場所が学校じゃない。だからそんなところで私の成績が良くなくったって全然構わないよ」

「詩乃、お前なー」

お父さんのお小言がまたはじまった。

私は爪をいじりながら右から左へそれを聞き流す。聞き流しは学校の英語のリスニングでよくやるから慣れっこだ。

「きいてるのか?詩乃」

「きいてますよー。形上はねー♪」

そこでお父さんの堪忍袋はついに破裂した。

学校はおもしろくない。

いつからだろう。

友達が減っていったのは。

「あいつ、ぶってて調子のってんよねー」

そう言われだしたのは。

私はどちらかというと、みんなと遊ぶより一人で楽しみたい人間だった。

それが学校のボスの癪にさわったのだ。

人が一人で楽しんでいることがそんなに悪いの?

人が一人で楽しみを享受するには周りからの承認が必要なの?

だとしたらあなたたちは何者なの?

あなたたちは何様なの?

そんなことをまた思いだしてから、私の学校での居場所は、さらにどんどん追いやられていった。

きっと学校は周囲に迎合することを学びにいく場で、私はハナからその才能に恵まれていなかったらしい。

私にとって学校という場所は窮屈で孤独な場所になっていった。


そんななか六月の終わり、月下の浜辺で彼とはじめて出会った。彼は少し丈の長い半袖の白いワイシャツをきいたからわかった。

ほの暗い闇のなかでも、そこだけが特別な場所のように、光ってみえた。

はじめてみたときの彼の横顔は、海の先をしずかに見つめていた。

そう。…いつも誰も来ない夜の静かな浜辺に男の人が立っていたのだ。

「こんばんは」

私の存在に気づいた彼は、月下に鈴が鳴るような白い声でいった。

「こ、こんばんわ…」

私は少し警戒して返した。

だって、こんな誰もいない浜辺に、こんな時間に男の人が一人なんておかしい。…そう考えて、…あ、それは私も同じか、と思った。

習慣というのは人から自分を客観的に見る力を奪うらしい。

…でも、加えて私は力もない女子高校生だ。力づくで男の人に押さえつけられたらひとたまりもない。

…こんなの警戒しない方がおかしいに決まっている。

「…驚かせちゃってるよね。ごめん…。でも、最後に海が見たくって。…そうだな。僕のことは、この時期だけに現れる波の幽霊だと思ってくれたらいい」

「ユ、ユウレイ?」

私は彼がなにを言っているのか分からず髪を触る。

もしかしたら、ちょっと心にそっちの気がある方だろうか…。

失礼ながら私はそんなことを思った。

月の下で、彼はそんな私を見て、困ったように笑って柔らかく頭をさすった。


そのあと彼と一緒に、夜の浜辺を歩いてみた。

最初は不安だったけど、彼の素性は分からなかったけど、彼の話は面白かった。―彼は話上手だ。

ふわりふわりと舞うように、私の質問を軽やかに片手ですくうように拾い、答えは詩的な想像の花を添えて返した。

……。

振り返ってみれば、かなりの距離私二人の足跡が浜辺に続いていた。

「ねえ、どこからきたの?」

「ここよりずっと遠い北の大地」

「そんな遠くから?この島にきたのは仕事?」

「僕もわかんないんだー。気づいたら僕はこの浜辺にいた…」

どうやら深い事情を抱えた人らしい…。

「あなたって不思議な人ね!」

「この世は不思議だらけだよ。今僕の隣に、こんなにきれいな月の浜辺で、こんなにきれいでかわいらしい女の子が一緒に歩いてくれてるんだからね」

そんななんの他意もなくいった彼の自然な言葉が私にはとても嬉しいものに思えた。

「ねぇ、また会いにきてもいい?あなたはまだこの島にいるんでしょ?」

「どうだろう。それは僕にもわからない」

彼は、そういうと少し物憂げな顔をした。

なんだかそんな横顔ですら、とてもミステリアスな彼の一面に見えた。

月の下の静かな浜辺に詩の花が咲いていた。

―ああ、そうだ。きっと彼は波の幽霊に違いない。彼が帰る場所はこの目の前の静かな海の底なんだ…。

私はそう思った。

それから私は彼と夜の海辺で会うようになった。

彼と会うとき、いつも夜の海だった。

夜にしか交わることがない世界と世界。

この目の前の夜の海の下でも、さまざまな生命が、こんな風に詩的な時間を過ごして交流しているんじゃなかろうか、なんて私はそんなロマンチックなことをつい考えてしまう。

そんな私は少女で、彼は大人だった。

―そして、もしかしたら彼はほんとにユウレイなのかもしれない。

私はそう思いだしはじめていた。

彼は本当に不思議な存在だった。

「あなたってこの世にいるの?」

「いると思ってくれたらいるよ。いないと思えば僕は君のなかの幻なんだ。それだけの違いさ」

幻も存在するとするなら、この宇宙の広さは、さらに二乗に比例するように広がっていく。

実際に彼と話しているとき星は高く、海は大きく、

―世界は広くみえた。

さざあ…ざばん、さざ、ざばん

私は月明かりに光る波をけった。

「月の雫が飛び散ってくね…」

彼はそんな私をみて、そう穏やかにいった。

すべてがたのしかった。

彼の素敵な言葉たちは、それだけで、この世界は素晴らしく恐れるところなどどこにもないのだ、ということを教えてくれているようだった。

「あー、こんなところに筆箱、落ちてるー。もーらお♪」

学校の休み時間、いつもいじめてくるグループの女子たちが私の席を取り囲む。

一人の女子が私の筆箱をふわりとさらった。

私は気にせず、澄ました顔で本を読む。

…きっと彼女たちは私に構ってほしんだろう。構ってもらうことが自分たちの学校での地位の存在価値になっていて、その価値観に服従して従わない私が理解できず、存在として許せないんだろう。でも、私はそういう「私たち」を察してくれ、という甘えた心根が好きではない。

だったら「構って。寂しい」と、―言葉が使えるなら、言えばいい。結局そういうのがカッコ悪いって思ってるところが恵まれててナンセンスで、寂しさがどれだけ素敵なものなのか、この子達はきっとまだ知らないのだ。

「それ、私の筆箱なんだけど返してくれるかなー?」

私は彼女たちを刺激しないように柔らかで穏やかな物腰でいった。

こういう連中は、刺激されると盛り上がるタイプだ。物腰低く、刺激せず、受け流すのが一番いい。

「え?…これ、詩乃のだったの?…これ、詩乃のだったらしいよ?」

と彼女たちのグループのリーダーが、わざとらしく仲間内に哀れむように同意を求めていう。

「えー、こいつ空気だから全然気づかなかったしー」

「ね、みてみて。筆箱にイケメンキャラのシール貼ってるよ。きっもー。うわー、引くわー」

私は筆箱に推しのシールを貼って心和ませるタイプだ。授業、退屈なんだから、いいじゃん。

しかも、イケメンキャラってなんだ。このキャラには桐生タツルって素敵な名前があるんだよ。

「こういう風にさー。二次元ばっか見てるからお前も二次元みたいに薄っぺらな存在になるんだよ。ちょっとは三次元に興味持たないと、お前、この社会からいずれ消えてくよー?♪」

とても下衆で下らない言い回しだな、と思った。案の定、彼女たちのなかでは上手く罵倒できたということになっているのか、上手い!、や、うち、てんさーい♪などと言い合って、ぎゃーぎゃーと彼女たちは騒ぎだした。

「ご忠告どうもありがとう。結構参考になったよ…。それに、それ上手い言い回しだね。素敵だと思うよ?今度教えてくれないかな」

そういうと彼女たちは

「まあ、お前なんかより?ダンゼン?頭もいいからなー♪」

と、はしゃいで私の筆箱を、ポーンと廊下に投げた。

「ごっめーん。つい嬉しくて、はしゃぎすぎて、筆箱飛んでったー。メンゴなー。きもー」

ぎゃはは、とその筆箱を取りに行くでもなく騒いで席に戻る彼女たちを前に、先生が教室に入ってきて難を逃れた。

私は誕生日に自分のお小遣いで、大人が着るような黒いドレスを買った。

配送で届いたそれを部屋の鏡の前で着てみると、胸元がぱっかり開いていて、ドキドキした。

こんなもの着たら、この後の私は、どうなってしまうのだろう…。

でも、彼が喜んでくれるんじゃないか、と私は私なりに奮発したのだ。

彼はいつも透き通るような白いワイシャツを着ている。その隣を歩くには大人っぽい黒のドレスがいいんじゃないか…ナンテ…。

顔を赤くしながらドレスを着た自分を見て、途端に恥ずかしくなる。

もしかしたら、私はとんでもなくセンスを外した、的外れなことをしているのかもしれない。…でも…でも…。

彼のために頑張ったのだから、恥をかくとしても、それをまた糧として彼が喜べるような、彼の隣を歩くのに相応しいような女になるんだと、そのときの私は鼻息荒く思ったのだった。

夜になって彼が浜辺に現れる時間帯に、ドレスに着替えこっそり家を抜け出す。

こんな姿、お父さんとお母さんに見られたら、まずお説教があって、夜の家からの外出禁止になってしまうだろう。

私は黒い花嫁に扮して、彼のいる浜辺に向かう。

今日も、月が浜にゆったり優しく浮かんでいる。

私は胸をいつもより高鳴らせながら、砂浜を踏んだ。

そこに、―彼がいた。

「今日は…どうしたの?いつもよりなんだか…光ってみえる」

「黒は、光を吸収する色なのに?」

私は、その言葉に嬉しくなって、はにかんでいう。

「黒のまとい方にもよるんだよ。君のそれは、なんていうか…」

彼は目を横に恥ずかしそうに流しながらいった。

「言葉すらも僕から失わせる…。僕の目から出た光は、君のその黒いドレスに吸い込まれてしまうからね」

「ふーん、あなたもそういうときがあるんだねー♪」

「そりゃ、それが生きてるってことだからさ」

そういって彼は頬を恥ずかしそうにかいた。そして、気を取り直して静かに彼は手を私にさし伸ばした。

「…それなら、今夜はご一興を。…それではまず、…こんな汚い手でも…取っていただけますか?…」

彼が首を少し傾けながら、差し出した手を私は答えて握り返す。

「ええ、ぜひ」

私は月の下で、にっこりと優美に笑った。

彼と一緒に磯辺を歩く。

今夜は、せっかくなので、いつもの浜辺から少し磯辺を隔てたところにある、誰の足跡もついていない砂浜に行ってみようということになったのだ。

ちょうど私の下はサンダルを履いてきたので、身軽だ。

手を取りながら彼は私を月明かりの下、エスコートする。

「ここからしばらく岩場が続く…。気をつけて…」

「うん…」

そういって彼は私を先に行かせてくれる。

「ステップ踏むみたいに、僕の呼吸にあわせて…。不安だったら僕の目をみてればいい。なれてるだろ。行くよ?」

そういって彼は踊りを踊るように岩場の岩に足を踏み出した。

ふわりと私の体も自然な形で動く。彼がそう配慮してくれているのだった。

ひらり、ひらりと黒いドレスが舞う。

ひらり、ひらりと岩の上をダンスをするように私たちは進む。

進む、立ち止まる。ステップを踏む。

月明かりだけが私たちを見守ってくれている。

波の音が静かにきこえ。

誰もいない夜の海の上を私たちは踊りながら進んでいるみたいだった。

私は波が押し寄せる岩場の先端まできたところで、暗い海を見た。

昼間に見る海よりかは、その海は月明かりの下でも、そこはかとなく黒くて深くて、まるで異世界に通じている入り口のようだった。

私は一瞬、不安になる。

彼の手をするりと離して、私は岩場にたった。

彼は、そんな私を見てふりかえる…。

彼と一緒にいるとき、私は穏やかで安心していられる…。でも、もしこの海の底に沈むことがあったら…?

暗く、光の届かない砂の上で水面を見上げて朽ちていくしかないとしたら…?

途端に自分のいる立場がぐらりと揺らぎ不安定になる感覚に襲われる。彼がいなくなってしまう恐怖に襲われる…。

彼は、波のせり寄せる岩場にたったそんな私をみて

「…君が沈めば海のなかで白い貝殻になるよ」

と、はにかんで、おだやかに優しくいった。

「波の下で君は穢れなく、一枚、一枚、白い貝殻になって海の水にはがされていく。さいご、波間の光にのばした君の手が一枚の真珠貝になって静かに海に沈んでいく。それだけなんだ。あとはいつもと変わらない波が静かに揺れるだけ…」

「そういう光景がみえるの?」

「うん、…みえるよ」

「なんだか、それステキ…」

「それが自然というものだよ…。この月も、波の音も、柔らかな砂浜も…。人間なんて意識してない。でもそれらは、人間にとって、きれいなんだ」

「不思議…」

「僕には今君が隣にいる不思議以上に不思議なことなんてあるもんか。だから…僕には、なにも怖くない」

彼はそういって手を差し伸べてくれた。

頬を染めた私は、その手を再び取る。

―ああ、この感情に名前がつけられたなら?…。

私は月の光に彼から握ってもらった手をかざした。

優しく、その手が光る。

まるで特別な手であるかのように。

私はまだ少女で、愛というものを知らなかった…。

だから、そんな言葉にならない、名づけえれない感情を私は味わうことができた。

知らないことは美しいことだった。

それからもっと彼と私は、たくさん話をした。

学校のことや、好きな本の話、今日みたきれいな景色についてたくさん話した。

私のなかの、この世界を好きなところをいっぱい話した。

彼はそれに詩の花を添えて答えてくれた。

こんな時間がずっと続けばいい。

そう思った。月はしずかに傾いていく。

私の青春は、いつも静かな月の夜だった。

「ねえ、あなたが幽霊だとしたら…その…私の守護霊になってくれる?」

何度目かの砂浜でのあるとき、冗談で、歩きながら隣で彼にいってみた。

なんとなく彼ならこんな下手な冗談でも拾いあげて返してくれそうだったから…。

「守護霊もなにも…僕が、幽霊じゃなくたって君は、もう僕にとって守るべき大切な存在だよ」

彼は潮風に笑いながら返した。

波がさざめいていた。

―・・・。

私の前には海がある。

今、特別になった 静かな二人きりの夜の海が。

誰もいない静かな季節はずれの海みたいな人が私は好きだ。

―私は静かなものが好きだった。

「気をつけて…」

岩場の私を彼は優しくささえる。

そこで私たちはキスをする。

だれもみていない。

もう一度キスをして、夜の潮風を私たちは味わう…。

髪が風になびいて口元にはいる。

その髪を、するりと彼が優しく払ってくれる。

「毎晩、こんな夜遅くまでどこいってるんだ?」

夜の海から家に帰ってくると、お父さんが玄関で怒っている。

いい加減娘の最近の変化に気づいたのか。たしかにそうだとしたら、娘が少し良からぬことをしているんじゃないか?と親ならば当然そう思うだろう。でも…。

―幽霊かもしれない人に会いにいってる…。 そんな事実絶対、言えない…。

現にたぶん彼はこの島の人じゃないし、夜にならないとあそこに現れない…。

…これじゃ亡霊のもとに夜な夜な通った耳なし芳一の物語みたいだ。

お経を体に書かれかねない。

「…心配ならGPSつければ?」

これなら芳一にお経を書いたお坊さんも思いつかなかっただろう。文明の利器。

そういうと、お父さんは不満そうな顔をした。

「君と会うとき僕は夢のなかで君と会うんだ」

彼はあるとき隣を歩きながら、不思議なことをいった。

「じゃあ、私はあなたの夢のなかの存在なの?」

「僕のなかではね」

「夢なのに私は生きてるって…なんだか不思議」

「ある人にとっては夢でも、ある人にとっては現実ってこと」

「あ!そっかー」

「…本当の僕は…今、暗い洞窟のなかにいるんだ」

彼の声音はそのとき僅かに震えていた。

なにかの例えだろうか。

私は哲学者のプラトンのいった「洞窟の比喩」というのを以前、学校で習ったことを思い出した。

たしか、人は洞窟の壁に向かって映る影を、本当の存在だと勘違いして一喜一憂しているにすぎない、うんぬん…。

今回も、そういう彼の得意な詩的な例え話の一つだろうか、とそのときの私は素朴に思った。

彼は続けていった。

「僕のいる世界では毎日が戦争なんだ。毎日、誰かが誰かに殺されたり、誰かが誰かを殺したりしてる。僕の仲間も死んだ。友達ももうほとんどいなくなった。毎日が血と土と粉塵のなかだ。そして僕はあるとき近くに落ちた爆弾の爆風に巻き込まれた…」

私は一瞬彼が言ってることがよくわからなかった。

え?…どういうこと?…戦争?…え?…

「気づいたとき体は血まみれだった。…耳も聞こえない。土煙でまったく見えない。しばらく僕は倒れていた。なんとか僕は手探りで動いた。敵兵にみつかれば殺される。…僕は必死に無事な場所を探した。…視界もなれてきた。僕は近くの小さな洞窟に身を沈めて横たわった。耳はなくなっていた。…目も片方潰れていた」

そこまで話して、彼は私の顔色に気がつき

「ごめん。今の話は忘れて…」

といった。

「忘れられるわけないよ…。…あなた、ほんとに今生きてる人なの?もしかして…」

彼は部が悪そうに目をそらしながら

「今は、まだね…」

と小さく祈るようにいった。

「…今日はもう家に帰っておやすみ」

彼はそのあと、そう優しくいって私の頭を撫でた。

「私はまだあなたの話をきいていたい。ねぇ、さっき言った、今はまだってどういうこと?あなたは今どうなってるの?私が力になれるなら…」

精一杯、私はいった。

彼がどうしても嘘をついているようには思えなかった。また、もし彼が人ならざる存在であったとしても、私のなかの思いには変わりはなかった。

彼は苦く笑って目をそらした

「どうにもならないよ…こればっかりは…」

諦めたような冷たい瞳に、はじめて私は彼に反感を覚えた。

「なんで。どうして?…もっといろんなこと私に教えてよ…ねぇ」

―私、さびしいよ…。

彼はなにかを思うように目をとじて、また開いた。

「教えてもらったのはこちらのほうだよ。平和がどれだけ大切か君が教えてくれた。…そうだな…今、願えるなら…平和な時代に生まれたかった。そう心から言える。最後にそう思えたんだから、まあ、いいだろう…たぶん、もう時間がないんだ、僕は…」

「…なんでもっと幸せに生きれなかったの?」

私はそこでこらえきれなくなって涙を流しながらいった。

とめどなく私の目から涙がこぼれる。月明かりで涙も光るのだろうか。

「…僕が幸せじゃないなんて…そんなことはない。幸せなんて幻だよ。だとしたら今が僕にとっては幸せだ。ありがとう。君のおかげでね」

私は彼を抱きしめた。

彼の温かみが伝わる。

これがもうすぐ死ぬ人間の温かさなんだろうか。

この温かさも、いずれなくなってしまうのだろうか。

私は彼の胸に頭をうずくめて泣きじゃくった。

彼はそんな私の頭を困ったように優しくなでる。

声をあげて私は泣いていた。彼はいつまでも私を抱きしめてくれた。

…気づけば朝だった。

―いつの間にか私は浜辺で眠っていたらしかった。

浜辺近くのベンチに私は横たわっていていた。

髪は潮風でボサボサで固くなっている。

そして、彼はもういなくなっていた。

「こんな時間までどうしてたんだ!!」

家に帰るとお父さんがカンカンだった。

お母さんも心配そうに私を見つめる。

「学校にはいけるの?体調は大丈夫?もう、こんな時間よ。学校に連絡いれるとしても…」

「…うん、いけるよ…」

私は泣きはらしたガラガラの声でいった。

「とにかく学校行けるだったら学校に行くんだな?わかった。でも…帰ってきたらちょっとお父さんと話しあいをしよう」

私はシャワーを浴びてササッと朝ご飯を食べて鞄を持って外へ出た。

ガラガラの自分の声に、昨晩の彼との時間は、私にはまぎれもない現実で、彼はたしかに昨日あの浜辺にいたんだ、という確かさを確めた。

…学校にいる時間、彼の言葉と彼の温かさが頭から離れなかった。

まるで上の空で時間を過ごした。

もっとも私は学校ではいじめられているので、友達はいない。

まったく上の空でも問題なかった。

家に帰ると早めに帰宅した父に即座に捕まり、その日のうちに私の夜間の家からの外出は禁止になった。

…しばらく彼に会えない日が続くことになった。


私はベッドに仰向けになりながらスマホをいじる。

どうしても彼のことが頭から離れなかった。

彼はどういった存在で、なぜあの浜辺に現れて、どうして私と話しができているんだろう。

実は全部私に話したことは彼の作り話で、彼は言葉で私を欺いているという可能性もある。

しかし、そうだとしてもどう考えても彼の内面を考えれば考えるほど、そうとは思えなかった。

彼の言葉はいつも人を蔑ろにせず丁寧で、詩的だ。そして彼は人がよくなるための嘘の使い方を知っている。

なぜか私はそう思えて、最後に会ったとき彼がいったことが真実であるような気がしてならなかった。

醜い現実のなかで彼が必死に願ったことが彼の言葉を支えている…。

だから彼の願いは美しく、言葉は美しい。

私には、そう思えた。

スマホで「戦争」と打ち込んで検索する。遠くの異国の地の戦争のニュースが検索結果に表示される。

その下には、関連ニュースとして、その戦争をとめるために学生たちが署名活動をしているという記事が紹介されていた。

小さな力でも、力になるんだろうか…。

私はそう思いながら、そのニュースをみつめた。

たぶん、…もしかしたら…その学生たちの声は握りつぶされてしまうかもしれない。

戦争に盛り上がる人たち、戦争を続けたい人たちによって、はじめからなかったことにされるかもしれない。…でも…それでも…。

私は彼の顔を思い出す。

あの柔らかな優しい顔が爆風で吹き飛び、兵士に射殺されるところを想像する。

…耐えられない。

―耐えられるわけがない。

小さな力でも、力になるんだろうか…。

彼の顔を思い出す。

私のなかで火花が爆ぜるように、なにかがわきあがる。

私はスマホを投げ出した。

行くんだ!彼のところへ…。

私の足はベッドから跳ね起き駆け出していた。

階段をかけ降りる。

お父さんとお母さんが何事かと部屋から出て私を見る。

…ごめん…お父さん、お母さん、今の私は止められない。

「どこへ行くんだ」

お父さんが後ろからいう

「大切な人が待ってるんだ!」

私は後ろを見ずにいう。

「大切な人って…。お前、またこんな時間に外へ出るつもりか!?この前、もう夜は外出ないって約束したばかりだろう!!」

「大丈夫。無事に帰ってくるよ!」

私は確信を持って強く答えた。

「だって、誰だって平和を望むものなんだ!」

「ええ!?おいぃ?」

ポカンとしているお父さんを後ろに置いて私は黒のランニングシャツ一枚で家を飛び出した。

走る。

…走る。

浜辺まで…走る。

走りながら私はなぜか泣いていた。

その涙をふるい落とすように私は走った。

あの人に見せるのが泣き顔であっちゃいけないから…。

―小さな力でも…。

私は風をきって、走りながら振る手をぎゅっと力強く握った。

彼が生まれたのは北の果ての海がある街だった。

彼が生まれたときから時代は不穏な空気で淀んでいた。それは嵐の前の空気の停滞に似ていて、誰しもがその空気に言いようも知れない不安を感じていた。

現に経済的な混乱に乗じて、彼の国の近隣国が侵略の憂き目にあったりというニュースがちらほら出てきていた。

彼の国でも人々のなかに侵略にたいする反発と、自分たち以外の近隣諸国を敵国とする風潮がじょじょに高まってきていた。

そんななかで彼は育った。

人々は自分たちの領土を守ることに熱気立ち、男たちはみな戦うことに色めき立っていた。女々しいものは役立たずで社会的な居場所が得づらかった。

そのなかで彼は言葉を愛し文学を享受して育った。もしかすると、彼のなかでは戦いの予感に対する一種の抵抗感が彼にそうさせたのかもしれなかった。

彼が二十歳になったとき、戦争はついに起きた。

「君たちは我が国の希望であり誇りだ」

という首相の詩的な演説から大衆は熱狂し、人々のなかに志願して自ら戦争に命をかけようとするムードが創出され高まり、徴兵制が議会で可決され、一個人である彼も軍隊に送られることになった。

母と父は泣いていたが、彼にはどうすることもできなかった。

軍の駐屯地に行く電車に揺られながら、彼はふと海がみたい、と思った。

もうみることもないかもしれない、海…。

思えば、彼がいた漁港の海は軍港となって、軍艦の吐く灰色の靄で霞んで、いつの間にかきれいではなくなってしまっていた。

きれいな…争いとはなんの関係もない…白い砂浜と青い空に縁取られた、…そんな海が、

…海がみたい。

彼はそう心の奥底で、なにかに願った。

その願った先はどうしようもなく自分を戦争に送りつける世界と運命に対してかもしれなかった。

そして、彼が送られる予定地になっていたのは内陸の国境線付近の戦線だった。

電車のなかで夕日に照らされながら彼は、たぶん自分がそこで死ぬであろうことを予感していた。


戦場で彼には何人かの仲間ができたが、その仲間も日を追うごとに消えていった。

爆音が近くで鳴り響き、人が弄ばれるように吹き飛ぶ。

兵器を前に人は玩具のように軽々とつぶれた。

「生きてろよ」

砲弾の炸裂音が間近で聞こえる。

「お前の詩(うた)は誰かを生かす詩(うた)だから」

彼の最後の仲間はそう彼に笑って敬礼し、敵の銃弾のなかに突っ込んでいった。

両手は頭を撃たれて介抱した仲間の血と黒い土でどす黒くみえた。

彼は、そのときからすべてを諦めこれが現実なんだと受け入れることにした。

涙もすでに流れなくなっていた。

生きていくために、現実を乗り越えるために、人として持っているものは必要なもの以外捨てた。

それでよかった。

悲惨だった。戦争は美談で語られることが多かったが、結局、人はやってみるまで実際それがどういうものなのか分からなかったのだ。

爆音がすぐ近くでした。

叫び声を上げるまでもなく、彼の体は壮絶な貫く痛みとともに飛んだ。

気づけば自分の体が不自然な姿勢で地面に横たわっていた。

遠くで敵兵の声がしている。

―生きなければ…。

彼は足を一生懸命動かして、安全な場所を手探りで探して動いた。

鼻はたぶんなくなっていて、耳も吹き飛んだらしい。

片目のあたりも、すーすーする。

たぶん、えぐられている。

彼は痛みのなかで必死にもがいた。

もがいて、小さな洞窟をみつけ、そこに身をよじりいれた。

もうすべてがどうでもよかった…。

彼はそこで眠りについた。

眠っているなかで夢を見た。

夢で彼はもう一度見たいと思っていた海を眺めていた。

願いが叶ったのか…。

彼はそう思った。

その海の浜辺には白い透き通る肌をした黒髪のかわいらしい少女がいた。

彼は少女とたくさん話をした。

彼はそれが夢であるとわかっていても、幸せに思えた。

眠りが覚めればいつも暗い洞窟で、いつ敵兵がくるかもわからない。しかし、眠れば夢をみることができ、その夢では彼は穏やかで幸せでいられた。

…こんなはずはない。現実はもっと残酷だ。

そう、わかっていても、彼にはそれが本来あるべき世界のように思えた。

きっとそうなのだろう…。

少女のときおり笑う顔が愛おしかった。

少女が話す姿をもっと見たいと思った。

少女が幸せである、その世界がなによりも一番尊かった…。

君がいる世界が幸せでありますように…。

彼は洞窟の暗がりで、夢から目を覚ます度に、そう心から願った。

たぶん、もうすぐ敵兵がここに来て僕を見つける…。

それまで、あの少女といられる奇跡が人生の最後にあるのだとしたら、最後は一人ぼっちの人生だが、やはり素晴らしいものだったと思わざるえない。

「ダメだ…。…もっと…もっと生きたくなってしまうじゃないか…。ダメだ…。」

彼は残った片目で、涙を流しながら暗がりのなか思う。なんで、こんなに幸せで残酷な贈り物を神は僕に与えたのか。

彼は闇のなかで、そう思って微笑した。

あの少女のことを思い出すたびに幸せになる。

あの少女がこの世界のどこかで生きていける場所があるだけで…。

彼は目を閉じた。

地面が少し振動しているのがわかる。もうすぐそこまで敵兵がきている。


…殺される…。


彼の息は荒くなった。

洞窟の入り口にニ、三人の銃を持った影がたっているのがおぼろげに見えた。

…ついに、きたのか…。早かったな…もう少し、あともう少しだけ…見つけるのを遅らせてくれればよかったのに…。

彼は諦めから力を抜いて、目を閉じた…。

私は浜辺で息をきらしていた。

さざ波がいつものようにさざあ、ざばんと波打ち際に寄せては返す。

今日の浜辺の天気は晴れで、新月だ。

空は星々で、これでもかというほど彩られている。

私は運動靴を脱ぎ捨てて、静かな浜辺へ足を下ろす。

真っ白な鍵盤のような砂がかわいくきゅっという音を出して踏まれる。

私はそこで浜辺を見渡した。

彼は…。

…彼はいつものように海を見ながら立っていた。

そこで私の存在に、彼は気づく。

「来てくれると…思ってた…」

私も元気に答える。

「いてくれると…思ってた…」

そこで彼はふふ、と笑い。

「これはお互い、傲慢かな」

と楽しそうにいった。

「傲慢でいいよ。あなたに一生会えない絶望なんかより百倍増しだから」

「言い返しができるようになったねー」

「あなたのおかげでね」

私の目はすでに潤んでいた。

「ねえ、本当にもう会えないと思ってた。…ごめん、お父さんからここくること止められてて…」

「いいよ。僕にとっては今までの時間ですべて有り余るくらいのものをもらえてる。これ以上貰えるものがあるならそれこそ身に余りすぎてる…。だから謝らないで…。お父さんが心配するのももっともだよ。僕がお父さんなら君を絶対出さないようにするから…」

「あなたがお父さんだったら私は幸せすぎてもう何もいらなくなる」

「こらこら、親として先が思いやられることをいうんじゃない」

そこで二人で笑った。

「ほんと、あなたといると楽しい。時間があっという間にすぎていく」

「本当だね。すぎていくということが僕も恨めしいよ。人に無限を与えなかった神様はナンセンセンスだって今だけは思わせてくれる、そんな時間だね」

「その言い回し、素敵」

「僕の世界の友だちだったら、何いってんだって真顔でいわれてるところだよ。君はそういうとこが儚くて尊くて美しい…」

そこで私たちは静かになった。

さざあ、ざぱん、さざざぱん、と波の音が繰り返される。

「ねえ、また会えるの?素敵な…あなたに…。また明日もここに来たら、あなたは…いてくれる?」

そういうと彼は静かに目をふせて微笑んだ。

「…それは…約束できない…」

「…約束してよ」

私は泣きそうになる。

彼はそれを見て、苦しそうに笑った。

「この間も言ったように僕はたぶんもうすぐ死ぬ身なんだ…。この世界じゃないかもしれない。僕は僕の世界で確実に…死ぬ…。でも、最後…どういうわけか、こんな奇跡が起こった。出会うはずもない君に出会えた。そして、あるべき世界の形を知った…。こんなこと奇跡以外ありえないなら、もうそれで僕にとっての奇跡は充分なんだ…。これ以上はないよ。僕にとってはね。君にとって、この時間が素晴らしいものだったなら、それだけを覚えていてほしい。そのなかに僕が生きれる。きっと続いていくものはあるんだ。この時間から」

私は堪えきれなくなって涙を流した。

「私は、あなたにまだありがとうも言えてない。恩返しもできてない。なんでこんな素敵なあなたが戦争で死ななきゃならないの!?殺されなきゃいけないの!?おかしいよ!絶対おかしい!!あなたが救われるなら私の命だって差し出すのに!私の代わりにあなたが生きれるならそれでいい!!なんで…なんで、あなたが死ななきゃいけないの!!ねぇ!!……ねぇ!!」

そういうと彼は胸が詰まったように息をとめた。

そんな苦しそうな彼の顔をみて、私は我にかえった。

「ごめん…なさい…。でも…悔しくって」

―悔しくって…。

ああ、ダメだだな…私…。

私だって心のどこかで彼ともう会えなくなることをわかっていた。

わかっていたから、最後まで笑顔を届けようと思ったのに…。

こんなの…。

こんなの。

彼は涙目でにこりと笑って、声を少しにじませていった。

「お互い…不器用だな。生きることにおいて」

「器用じゃなくていい。うまく言えなくてもいい…。私はあなたに、ありがとうがいいたいんだ。こんな素敵な時間をありがとう。そばにいてくれてありがとう。愛してくれて…」

―ありがとう。

それがたとえ、人生においてのわずかな時間であったとしても。

私にとってかけがいのない時間だったことは事実にかわりない。

「こちらこそ…ありがとう。僕のほうこそ貰ってばかりでなにも…恩返しができずに…すまない…。なにより死んでいく身だからなぁ。こればかりはどうしようも言い訳できない。次生まれ変われるとしたら、もうちょっと、周りのみんなで上手く共和的に生きれないか、頑張って模索してみるよ。君からそれを教えて貰ったんだ」

私もそれに負けじと返す。

「私も、この先であなたみたいな人が出てこないように絶対、この先起こる戦争を止めてみせるから!!」

「おうおう、これは大きくでたね」

「期待してよ!絶対、私はそうしてやるんだ!小さな力でも力になれるから!きっと未来のあなたが笑って暮らせるような世界にしてみせるから!!」

「そうか…そうか…」

彼は泣きながら涙をこぼしていった。

「夢は決まったんだろ…。じゃあ、もう行かないと。君は君の世界のこれから進む道を進むんだ。もうここへ戻ってくることはできない。でも君は覚えていることができる。戻ってこなくてもいつでも君のなかにそれはあるんだ…」

―小さな力でもその胸に宿る力はほんとうなんだ。

私は泣いて彼を抱きしめた。

「ありがとう。未来に生きる君…。そして死んでいった仲間たち…お母さん、お父さん…。みんな…」

―さあ、行って。

彼はそういって私から腕を離した。

「もうここに戻ってこないで。後ろは振り向かないで…前だけみて」

私は涙でかすんだ彼を見つめてうなずく。

彼は私が見えなくなるまで手をふってくれていた。

静かな星の息が聞こえてきそうな夜。

それが彼との最後だった。

洞窟の入り口から入ってきた人影はやはり敵兵のものだった。

彼は、目を覚まして、はたと気づき身構える。

なんだかさっきとても大切な時間を過ごした気がする…。

ただもうそれがどういうものかわからなくなってしまったが、今はそれどころではない…。

影が銃を引いてこちらにくる。

殺りに来る気だ。

…絶対に僕はもう助からない…。

彼は少しでも動こうと痛む足に力をいれ、洞窟の壁に背を張り付ける。

もう…ここで…死ぬのか…。

彼は最後の抵抗で思いっきり身をよじる。

二、三人の人影はその間にもじょじょに近づいてくる…。

はあ、…はあ…はあ…。

思えばこの人生…なんだったんだろう。…

彼は少女の顔を思い出す。

ああ、…彼女がいた…か…。

彼はそこで安心に包まれる。


敵兵は、銃の引き金に指をかける。

銃を身構えた敵兵は彼の前に立ち、容赦なく引き金をニ、三発引いて、彼の頭を粉々に撃ち砕いた。

あとには彼だった体の残骸が洞窟にのびて横たわり、やがて、力なくぐったりとし、その呼吸運動を

―止めた。

彼と別れた、私のそれからは怒涛の日々だった。

いじめられていた学校生活で、粉骨砕身して勉強をがんばった。

いじめにも立ち向かった。

なによりも必死にがむしゃらでがんばった。

彼がいたことを忘れないために。

彼が、この世界に見た希望を確かめるために。

そのために、それだけを支えに、どんな困難でも打ち破ってきた。

必死にやれば理解者もでき、仲間もできてきた。

成績はやがてじょじょに伸びるようになり、学年でトップの成績を維持し続けるようになっていた。

お父さんもお母さんも、なにがあったのかと最初は首をかしげていたが、すぐ応援してくれるようになり、学校生活は充実したものになっていった。

時折、彼がいないことにつらさを感じ、孤独を感じてまた浜辺に行く夜もあったが、やはりというか、なんというか、彼はそこにいなくて、また私は諦めて家に戻って勉強した。

いい成績で全国トップの大学に入り、私はついに国際外交を任される外交官になった。

女が外交官なんて、と最初は散々バカにされコキ下ろされ、叩き落とされたが、それでも何度でも立ち上がって、外交官の仕事をし続けた。

努力して努力して、いつか彼が笑える日があることを信じて、ただそれだけで仕事に邁進した。

一人ではなかった。

きっと自分ががんばることで、どこかで彼のような存在が生きられるなら…と思うと、例え一時的に孤独でも、そこに意味が生まれた。

そうやって私はただ必死に、仕事をこなした。

「この条件がのめないならば…こちらとしては、手段として、あらゆる措置を考えねばならない」

目の前の隣国の代表は高圧的に静かにいった。

私はそれを冷静に切り返す。

「その条件をのめば私たちの国は多大な貧しさに陥ります。お互い共存んしていくことが、この場合、望ましく。他方が損をし、その取り返しをしようとなると永遠に繰り返される歪みが生まれるだけです。それは長期的みれば双方の国にとって明らかに損失を生むことは外交官になるくらいのあなたにはわかるはず。短期的に見れば、あなたの言っていることは成り立ちます。しかし、私たちが外交官でなくなってからも、私たちが今お互い背負っている土地はあり、そこで人々が生き続けていく。私たち同士の短絡的な利益は実際そこに対して、なにも生まないでしょう」

そういうと相手の国の代表はプライドを傷つけられたと思ったのか、苦々しそうに笑っていった。

「いいんですよ。そう長々と回りくどくきれいごとなど言わなくても…。まあ、要はのめないということじゃないですか。のめないとなれば、話はシンプルです。大統領はのめなければ、あらゆる措置を講じるとの意向だ。長期的な国益や、うんぬんよりも、のめないなら軍事演習をそちらでさせてもらうというだけの話です。世界はそう生ぬるくはない。」

私はそれに冷静に反応する。

「了承しました。その意向をこちらの上層にも伝えさせておただきます。生ぬるくはない、とあなたは今、おっしゃいました。しかし端的にいって、それは人を銃で脅してやもなくば殺害する、という表現の表明ということでよろしいですか?」

「軍事演習といったはずです。きいていましたか。その際、流れ玉にあたって死ぬ人が出るというのは話が別になりますがね」

「わかりました。…それでは、あなたは目の前の人間にたいして、銃を撃てるでしょうか?」

そういうと相手の国の代表は変な顔をしていった。

「私?私ですか?冗談を。私は外交を担当する仕事の人間ですよ。銃なんて撃ったこと…」

私は鞄から静かに銃を取り出した。

「な、なんだ!?あなたは!そんなことして!?」

私は銃を放って相手の国の代表の男に渡す。

「では…、今から、まず私を撃ってみてください」

「はあ!?」

「ですから、今、目の前にいる、この私を撃ってみてください。どうせあなた方は今から軍事演習といって人を殺すのでしょう?私が撃たれてもいつ撃たれるか、誰に撃たれるかの違いで、あなた方にとって私が撃たれて死ぬことに問題はないはずです。あなた方がしようとしていることは目の前の人間の命を奪うこと…。ならば、あなたの目の前にすぐまず亡くなる命がある…。それが私だ。そう思っていただければいいんですよ。何も問題ないでしょう。さあ…構わず、撃ってください」

「なにいってるんだ、この女は」

隣国の代表の男は、狼狽した。まっすぐ見てくる目の前の女の目は男のなかまで見抜くようだった。

ほら、撃てないでしょう?…なんなの、あなたって…口ばかり大きいのね。

そう言われているようで、男は驚きから席をガタリと立った。

「はったりを噛ますのもいい加減にしてくれ?気は確かか?君…。自分がなにをいってるかわかってるのか」

「あなたこそ、この程度のこともできずに自分たちが関わってもいない軍事力を過信して、それをほのめかすようなことを言ってたんですか?私にとっては、私たちは今命のやりとりをしているのであり、プライドごっこや、知識の言葉遊びをしているのではないのです。そんな時間なんてない。はやく撃ってください。それともできないんですか?…腰抜けね」

その腰抜け、という言葉が男の癇癪玉を破裂させた。

男は目の前の銃に手をのばし、止め金をはずし、女に向けた。

銃はずしりと手に馴染み、ちゃんと銃弾が詰まっていることを男に伝えていた。

ずしりと自分の立つ立場が重くなる。

しかし、この場で銃を取ってしまったからには後には引けない。

狂言じみた場では、先にひよってしまったほうがババを押し付けられるのだ。

男は焦点を女の額にしぼる。

女はたじろがず静かに深く男を見つめてくる。

まるで、その目はブルーで深い海を思わせるような静かな目だ。

なぜかその目に畏(おそ)れを覚えて、汗が男の額を流れる。

なぜだ?なぜこの状況でそんなに冷静でいられる?本当に殺されるかもしれないんだぞ。俺は勢いで撃ってしまうかもしれないんだぞ。

自分の歯止めのなさに汗が吹き出す。

目の前の人間も殺せないのに、国のために人を殺す話をしていたのか?

そう本気で自分のなかの自分が問いかけてくる。

いや、ノーだ!そんなことはない!自分はそんなことで今までを生きて、ここまで辿りついたんじゃない!

…じゃあ、なんで撃つのをためらう?…

…コシヌケか?…

腹の底でもう一人の自分がニタリと嘲笑する。

男の頭は真っ白になり、そこで男は銃の引き金を引いた。

ズダン、という鈍い音がした。

男の持っている銃口からは煙があがっており、その目の前で女は依然として、―立ち続けていた。

音をききつけた補佐官たちが何事かと直ちに部屋に入ってくる。

状況は明白だった。

隣国の代表の男が何を血迷ったか、女外交官を射殺しようとした…。

「なにがあったんですか?」

補佐官たちが隣国の代表の男を取り押さえた。

男の放った銃弾は、狂った手元から女の頭を僅かにはずれ女の後ろの壁に穴をあけていた。

「い、いや…この、この女が…撃てっていうから…撃てっていうから」

はたからみて部が悪くなったのは隣国の代表であることは誰の目から見ても明らかだった。

女はつかつかと男に歩みより顔色を変えずいった。

「どうでしたか?銃を持った気分は…」

「この男を取り押さえろ」

と一人の補佐官がいった。男は、いや、違う!違うって!と言いながらもがいたが、補佐官たちに取り押さえられて部屋から隔離された。

「申し訳ない…。この度は。…このことは私たちの上層に伝えさせてもらう。またこのような事態になったら国際的にも知れ渡ることは避けられないだろう。…そこで…どうだろうか…改めてまた再度お互い体制が整うことができたら交渉ということで…」

相手側の補佐長官が女に提案をしてきた。

「わかりました。ただ、軍事力をほのめかすからといって外交の場で外交官を射殺しようとするという方法は時代遅れすぎて話になりません。次に外交交渉させていただく時は、もう少し進歩的な形でのお話しあいができればと思っております」

「…わかった。この度はすまなかった。我々の委任ミスだ。肝に銘じよう」

「大丈夫でしたか?」と秘書に心配されているなかで、彼女は澄まし顔で「ええ、問題なかったわ」とあっさりといって部屋をいつも通り退出していった。

退出して女はひとつくくりに結んでいた髪をほどく。

するりと風がなびく。

―ああ、一仕事した気分だなー。

女は軽やかにステップを踏むように階段を下りながら、がんばったご褒美に、久しぶりにあの場所にいってみるかー、と楽しげに思った。

その後、女の交渉が元になり、緊張が高まっていた隣国との外交関係は国際世論をまきこんで状況が変わり、衝突回避の合意に至ることができ軍事衝突は避けることができた。

ただ当の女は気にすることもなく、待たせていた車に乗り込み行き先を伝える。

彼女は自分が今たつ原点になる場所に向かうのだった。

風がまぶしい。

空がいつものように高い。

私は彼と会った浜辺に来ていた。

ここには滅多なことではくることはないが、時折彼との思い出を確かめるためここにきている。

そして、ここにくれば私はいつでも彼に出会ったときの高校生の少女になれる。

「ねぇ、きいてー…また、戦争とめたー」

ねぇ、きいてきいてー。すごいでしょー、とねだるように彼がいたらいうんだろう。

そしたら、彼は反応に困ったように笑いながら、それでも澄んだ顔で

「偉いね」

と言ってくれるんだろう。まるで、私が頑張って、おつかいした程度みたいな、そんなノリで。

「大変だったんだよー」

私はそういう彼に笑っていうんだろう。

ほんとに…大変だったんだよ…。

涙があふれてくる。

大変だったけど…あなたを救えなかった…。

私は悔しさで歯をくいしばる。

大変だった…それでも、あなたを救えなかったんだ…。

逆に、あなたの存在に私は今回も助けられてしまった。

相手の銃から目をそらさなかったのも、

ずっとその正面を真っ正面から見つめられたのも、あなたがいた時間があったから、私にできたこと。

あなたと出会えなかった私一人には、きっとあんな芸当できていない。それで相手が狼狽えて私に向けての銃弾を外したのも。…ぜんぶ。

ダメだよな…。私…。まだまだ仕事できてないよねー

私はそう誰に語りかけるでもなく、彼のいた砂浜に言葉を積む。

きっと、こういうことの繰り返しでしかないんだろう…。

彼が愛したこの世界を愛していく方法は、不器用な私には、そういうことしか思いつけない。

「お互い、不器用だったよね。生きることにおいて」

いつかの彼の言葉を反芻する。

彼が愛した、この目の前の海が、いつか血に染まることがありませんように。

そう願う…。

…彼は幸せが幻だと言った。

幼い少女の私は、それに返す言葉を持っていなかった。

だから今の私の幸せが幻なんかじゃないというために、私は精一杯、彼の何倍も幸せに生きてみせるのだ。

砂浜を小さなヤドカリが歩く。

潮風は止めどなく私の髪を巻き上げる…。

―ああ、やっぱり海は変わらずきれいだ。それで全部つじつまがあう。

ありがとう。あなたがこの世界に、この目の前のきれいな海と私が生きていける居場所をくれたの。

青い空も

白い砂浜も、

静かな磯辺も、

海の底に沈むきれいな真珠の貝殻も…。

ぜんぶ、ここにある。

ぜんぶ。

私は静かにそのぜんぶを包むように目の前の海に思いをはせる。

静かに息をする。風はふく。雲は流れる。

静かに、この場所で私は息を今している…。

私の目の前には海がある。

青い…海が。

ううん!…きっとそう!

―この海には


穢れがない


私の海についての物語は

これでおしまい。


(了)

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