2020年8月17日
新宿区・某ホテル
「失礼します」
セーラー服姿の少女は、ローファーをスリッパに履き替える。
「待ってたよ」
少女とは幾分年齢の離れている男は、無精髭を生やした顔でニヤついて、少女をベッドに迎える。
黴かタールの匂いが染み付いているのか、室内の異臭は随分と少女の鼻についた。しかしそれもお構いなしだというように男は少女に話題を持ちかける。
「こんな風にさ、ほかの大人とも遊んでるの?」
「うーん……」
「やってるクチだね、じゃあ慣れっこだよね」
男はベッドの傍らに座ると、隣に来るよう目配せした。少女は不慣れな足取りで男の隣にゆっくり座した。男は彼女の肩を抱き、口吻を迫った。少女の方はというと少し落ち着かない感じで、彼に応じようとしなかった。
「手、震えてるよ。緊張してるの?」
少女はなにも言わなかった。
男は優しく指を少女の顎に添える。そうするともう、行為を断絶することはできない。それはお互いよく諒解していた。
そのときだった。ロックされていたはずのドアが勢いよく開け放たれた。ドアが壊れたのかと思うほど鋭い音だった。
「なんだよ、大事なときだってのに」
男は少女との行為を中断して、憤懣を募らせながら入り口に向かう。
玄関口のライトが壊れたようで顔が良く見えない。夏にしては着膨れしているように見える。
「お前、誰だ?」
影武者は、腰に下げた刀を鞘からゆっくり引き抜く。薄闇の中で銀色の太刀は異様な輝きを発していた。
「それはもしかし——」
男が言い終わるのを待たず、太刀は宙に円を描くような軌道を描いたのち、男の胸部を貫いた。
刃が引き抜かれると鮮血が盛大に飛び散った。
顔は苦痛に歪み、口からもとぽとぽと紅の血が溢れる。
「貴様が子どもたちに与え続けた苦しみは、この何十、何百倍にもなる。一瞬で終われるのだから、幸福だと思うがいい」
影武者は刀身を男の喉仏に添えた。そして一度振りかぶるように刀を引き、一閃させた。
彼の首は断頭台にかけられたそれよろしく、回転しながらフローリングに落ちた。体躯はびゅっと血を噴き上げ、その場に頽れた。
ベッドの上で、震えながらその光景を見ていた少女は、予想だにしなかった闖入者の所業に恐ろしさを感じずにはいられなかった。
「手間をかけた」
頼は覆面を剥ぎ取ると、少女に笑いかけた。
彼女はびくっと身体を震わせ、ベッドの奥へ後退りしようとした。
「なに、あんたまで殺す気はない。おれは、悪を裁いただけだ」
頼の目が、赤色に輝いた。真夏だというのに首巻をしている。少女はむしろその異様な風体に驚いているようだった。
「まあなにはともあれ、任務は終わった。あんたは街でとあるキャッチに捕まって、前金と報酬の代わりにこの部屋に来るよう命じられた。一種の茶番なのだが、その男と一緒に過ごすだけでいい、と言われたはずだ。それはすべてこの任務を遂行するための下準備だったんだ」
まだ怯えを隠しきれない少女に、頼は分厚い茶封筒を懐から取り出し、受け取れ、と言うようにそれを差し伸べた。
「申し遅れたが、おれは頼という者だ。悪の摘発に協力してくれたことに感謝する。……これは報酬だ。もう綱渡りはやめた方がいい。帰るべきところへ帰るんだ」
少女は、餌をおそるおそる受け取ろうとする犬のように、震える手で茶封筒を受け取ると、たっと駆けて部屋を後にした。
頼は無線機を取り出し、枝本を呼び出す。
「こちら現場。ターゲットの殺害が完了しました」
長い任務だ、と頼は思った。だが、もう終わりは見えかけていた。
2037年8月15日
東京港埋立第13号地内・国防軍駐留所
——そういえば、あれから17年になるのか。
食堂で垂れ流しになっているニュース番組をぼうっと見ながら、頼は思いを巡らせていた。相方の枝本は、テーブルの向かいで新聞に目を通している。
なぜか、頼はふいに「あの日」のことを思い出すことがあった。ターゲットの男を殺したことよりも、少女のその後について考えてしまう。あの時の少女は、いまどこかで人間らしい暮らしを手に入れて幸福な人生を歩めているだろうか。
——そんなことより、次の仕事だ。
頼は自分にそう言い聞かせて、甘ったるいカフェオレを飲んだ。依頼状をテーブルの上に広げて、字を赤い目で追う。
この17年間、長期にわたって展開される任務がなかっただけに、およそ1年を要して終わらせた違法アダルトビデオ製作会社の殲滅は、頼の記憶に深く刻まれていた。デジタル犯罪組織の枝葉末節にいたるまでを機能停止に追い込むのは、容易ではなかった。
その後はこれといって派手な殺しもなく、淡々と任務をこなすだけの日々が続いた。
依頼状の要件が呑めた頼は、枝本にこう語りかけた。
「メディアというのは不思議ですね、みごとにわれわれの殺した人物の話題だけしない。明治からずっとそうだ」
「テレビや新聞じゃ、死刑執行を報じないだろう? あれと同じさ」
いつの間にかしわが増えて順調に老けつつある枝本は、ふっと笑った。
「大佐、次の任務については——」
頼がそう言いかけたときだった。突然テレビのアナウンサーの声が大きくなった。
「えー、ただいま新しいニュースが入ってきました。当局に向けて動画が送られてきて、これは——犯行声明、と見られています。JBBの独自ニュースとして放映してほしいというメッセージが同梱されています。差出人の名は……サムライ、とだけ書かれていたようです」
頼はテレビ画面を見た。枝本の手から新聞が滑り落ち、彼は立ち上がる。
「では、ご覧いただきましょう」
画面はずいぶんと解像度の悪い映像に変わった。黒い覆面マスクを被った男だけが映し出される。随分と薄暗い場所のようだ。
「——時は満ちた。この国にはまだひとり、どんな人間よりも醜悪な魔人が闊歩している。その悪魔を殺すときが来た」
音声は加工してあるようで、ひょうきんな口ぶりだった。しかし頼は、その映像に、いつもと違う何かを感じていた。
「この悪魔が生きてさえいればどんな事件も人殺しによって解決できる。この悪魔さえいれば、戦争が始まっても日本が負けることはない。政府はそう確信しており、警視庁ならびに、この国が隠匿している国防軍を中心として、鵜飼いで漁をするように、悪魔を生かしているのだ」
枝本は、握りしめた拳を怒りで震わせる。
「これは断じて許されることのない犯罪である。だからワタシは、悪魔——悪のサムライと、政権のエラーに鉄槌を下さなければならないと確信している。まもなく始まるだろう。……最後のサムライよ、お前はこれを見ているはずだ。悔しければ止めてみろ。やらなければ、お前を殺す」
そこで「犯行声明」は終わり、スタジオの映像に戻った。頼は赤い光を放つ目で、最後まで画面を睨みつけていた。枝本は椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「なぜだ! われわれの任務は断じて、断じて外部に情報が流出することがないように行われているのに!」
頼もゆっくりと立ち上がる。
「大佐、いまはこの犯行声明を国民に信じさせないようにするのが先決です。まだ遅くない」
「だが、もしこの情報を信ずるものが現れたら?」
「これはまだ信憑性を欠いている情報です。国民にとってはデマ——」
そう言いかけたとき、再び語勢を強めてアナウンサーが原稿を読み出した。
「今入った情報です。国会議事堂が燃えているとのことです。詳細についてはただいま調査中ですが、現地ではすでに消火活動が行われており、——現地の映像が入ってきました」
映像が、大きな煙を巻き上げながら赤々と燃える国会議事堂に変わった。それをバックに、リポーターが大慌てといった様子で、わめくように喋る。
「こちら国会議事堂です! 懸命な消火活動が行われております! ですが火災の規模が大きく、内部に取り残されている人もいる中で、——ああっ!」
強烈な波動に、カメラが揺れる。背後で爆発があったようだ。
収拾のつかない映像を映し続けるテレビ。あっけに取られた枝本に、頼は決意を持ってこう語った。
「少し時間をください。任務を切り替えたいのです」
枝本は頼の方を見た。テレビに向けられた眼光はいつもにも増して強い。
「——おれを殺す、と言ったな。そう宣言したからには、おれの手で死を与えなければならない」
そのとき、下級の兵士がひとり、食堂に駆け込んできた。
「サーヴァント殿! 一通、上官宛ての封書が届きました。爆発物等のチェックはクリアしてあります」
頼はふうっと深い息をついた。封筒を受け取り、上部を乱雑に破る。
「枝本大佐は至急、地下第二会議室で行われている緊急会議にご出席願います。JBBの報道による国防軍の対応について、先ほど会議が開かれたところです」
枝本はわなわなと身震いしながら、ひとつ頷いて、
「そうだな……」
と呟き、下唇を噛んだ。
「頼、そこにはなんと書いてあるんだ?」
封書の中身を凝視したまま、頼は押し黙っていた。