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夕方の空がまだ明るくて、でもどこか金色に傾いてきた頃、商店街の提灯に火が入った。太鼓の「ドン、ドコ、ドン」が腹に気持ちよく響いて、焼きそばとしょうゆの匂い、かき氷のシロップの甘い匂い、金魚すくいの水の匂い——全部が夏の音楽みたいに混ざる。
「うわ、混んでる!」
「それが夏祭り。混雑は仕様」
「仕様って言うな」
浴衣の人波を縫いながら、私は首からカメラを提げて、屋台の光をひとつずつ拾った。提灯の赤、ヨーヨーのラテカラー、綿あめの雲。レンズの中の商店街は、画面の端っこまでお祭りでいっぱいだった。
「こっちこっちー!」
彩葉が手をぶんぶん振る向こうで、見慣れた顔と、初めましてのちっちゃい顔。
彩葉の弟——陽向(ひなた)が、顔より大きい金色の風船を抱えて跳ねている。風船には星のシールが貼ってあって、ライトを少し受けるたびに「ぴかっ」と目をするみたいに光った。
「わぁ、でっか! 宇宙球?」
「宇宙球だよ!」
陽向が胸を張る。
「宇宙から見た地球の色、っていう設定らしい」
「設定が壮大」
瑠衣はかき氷のブルーハワイを持って、舌を見せて「青くなった」と笑う。
悠真は焼きそばを二本、いや二舟持って登場し、蒼介は紙皿と割り箸を必要十分だけ配る。
太鼓のリズムが一段強くなって、屋台の列の上に「わぁ!」って歓声が重なった。
「写真、撮る?」
「撮る撮る。陽向、風船こっち向けて」
「こう?」
風船が空を映す。その金色に提灯が逆さにいくつも揺れて、陽向の笑い顔が小さく歪んで映った。シャッターを押す。胸の中まで「カシャ」が気持ちいい。
「ところで」
「ん?」
「風が、ちょっと強くなってきてない?」
「確かに、提灯が踊ってる」
その時だった。
「アイス……」と屋台の冷ケースに吸い寄せられた陽向が、ほんの一瞬だけ、手の力を抜いたのだと思う。
金色の球が、ふわり。
空気の階段に乗ったみたいに、するすると上へ。
「えっ——」
「わぁあああああああっ!」
陽向の声が、祭りの音に重なって伸びた。
私たちの目の前で、金色の風船は提灯の列を過ぎ、屋台のテントの上をかすめ、商店街のアーケードの端へ。
「待って!」
一拍遅れて、陽向が走る。
私たちも、ほぼ同時に走った。
アーケードの端を抜けると、空がいきなり広い。風船は、建物と建物の間の風の道を読んでいるのか、ふわふわ、でもしっかり先へ。
「こっち、裏路地いく!」
彩葉が角を指す。
「挟み撃ちする?」
「風に挟み撃ちは効かない」
裏路地は、昼間なら通らないような細さ。エアコンの室外機の熱、猫の気配、植木鉢の影。
上を見上げるたび、金色の球がビルの壁に沿って、まるで見取り図の矢印みたいに進んでいく。
「おおい、何追ってんだ!」
焼きトウモロコシ屋のおじさんが笑う。
「宇宙球です!」
「宇宙まで行かれんようにな!」
「行かせない!」
角を曲がる。金物屋の鈴がチリンと鳴る。
ふと、ガラスに映った自分たちが可笑しかった。焦る顔、揺れる風船の反射、祭りの火。思わず一枚。走りながらカシャ。
「なに撮ってんの!」
「今日いちのドキュメンタリー」
路地を抜けると、川へ降りる道に出た。
橋の上には人だかり。遠くで太鼓の演奏が始まって、リズムが足元のコンクリまで震わせる。
風船は橋の柵の少し上、風の腹に乗って、遊歩道の方へ流れていった。
「先回りしよう。風、こっちからこっち」
瑠衣がスマホの地図アプリで風向きを示す。
「さすが計画派」
「現場監督」
「誰が監督」
遊歩道は提灯が間引きで付いていて、ところどころ暗い。風船は明るい場所の上に来ると、星シールがまた「ぴかっ」と光って、私たちをからかうみたいだ。
「待ってってば!」
陽向の声が半泣きに近くなる。胸がぎゅっとした。
「大丈夫、まだ近い」
私が言うと、蒼介が小さくうなずいて、少し前に出た。
「左。あと十メートルで曲がる」
「わかるの?」
「風の匂いが変わった」
ほんとかどうかはわからないけど、蒼介の言う通り、風船は左に折れて、公園の方へ流れていった。
そこには、夏の夕方に似合いすぎる老夫婦。ベンチに並んで座って、うちわでゆっくり風を作っている。
金色の球は、その頭上をかすめた。
「すみませーん! 風船、息子の宇宙球が通過します!」
「おやおや、宇宙は忙しいねぇ」
おじいさんが笑う。
「急がないと、もっと遠く行っちゃうよ」
おばあさんが優しい目で空を見上げる。
「行かせない……!」
風船は公園を抜け、川面に張り出した小さな桟橋の方へ向かった。
桟橋の端には、さびた手すりが一本。
風船は、そこに——ほんのひっかけるみたいに、糸が絡まった。
「止まった!」
「今だ!」
桟橋は少しぎしぎししていて、足音が増幅される。私は靴底の力を抜いて、そろそろと近づいた。
風船は、手すりの外側にふわりと浮いている。糸は手すりの突起にくるんと巻き付いて、ほどけそうでほどけない。
手すりごしに、そっと手を伸ばす。
指先に、糸。
心臓の音が、川の音と混ざる。
もう少し——もう、ほんの、少し——。
掴んだ。
「とった!」
振り返ると、陽向の顔がぱっと明るくなった。
駆け寄ってきた小さな腕が、風船をぎゅっと抱きしめる。
金色の表面に、陽向の涙の跡がひとすじ。
「よかった……」
彩葉が肩で息をして、笑って泣きそうな顔をする。
「よく頑張った、宇宙球」
悠真がぽん、と陽向の頭を叩く。
その時、風船の側面に小さな影が見えた。
薄い引っかき傷。
「……あ」
陽向の腕に抱かれたまま、風船から、ピィ……という、ほとんど聞こえない音がした。
空気が、ほんのちょっとずつ、逃げていく。
「し、しぼんでる……?」
陽向の目がまん丸になる。
私はしゃがんで目線を合わせた。
「大丈夫。ゆっくりだから、今夜はまだ宇宙のまま。記念写真、撮ろ?」
「……撮る」
桟橋の上、夕焼けが川に筋を引いて、金色の球と重なる。
私は陽向の涙の跡がうっすら残る風船と、抱きしめる小さな手、後ろに並ぶみんなの顔を、ひとつの画面に入れた。
「いくよ。三、二、一——」
カシャ。
シャッターの音が、太鼓のリズムと混ざって、今日の終わりを優しく区切った。
商店街に戻る頃、風船はほんの少しだけ小さくなっていた。
屋台のおじさんが「おお、帰ってきたか宇宙」と笑って、綿あめを小さく一個、おまけしてくれた。
老夫婦はまだベンチにいて、今度は陽向の頭をなでた。
「帰ってきたね」
「はい。宇宙、帰還しました」
最後に、陽向は風船に星のシールをもう一枚ぺたりと貼った。
「これ、『帰還記念バッジ』」
「いいね、それ」
家に帰る道で、陽向は風船を肩にのせるみたいに抱え、時々鼻を近づけて、「まだ宇宙の匂いがする」と呟いた。
金色の表面には、提灯と街灯と、行き交う人の笑顔と、私たちの一日が、逆さまにいくつも映っていた。
私は思った。
逃げるものは多い。風、時間、夏の匂い、いろんな瞬間。
でも、追いかけたら、ちゃんと戻ってくるものもある。
その途中で、笑いが増えたり、写真が一枚増えたり、帰還記念バッジが増えたりする。
家の玄関でソラが跳ねて迎えてくれて、陽翔(うちの弟)が風船を見て「ちょっと小さくない?」と言う。
「これは宇宙の仕様」
「またそれ」
プリントした写真を冷蔵庫のマグネットで止めた。
金色の球の前で、陽向が笑って、私たちが笑っている。
しぼむ前に残した光は、すごくまっすぐで、すごくやわらかかった。
——久遠美空の風船パニック。
ドタバタして、ちゃんと笑って、少しだけ賢くなった日。
次は、何を追いかけよう。追いかける前から、ちょっと笑えるように。