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久遠美空の風船パニック

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久遠美空の風船パニック

1 - 久遠美空の風船パニック

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2025年08月16日

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夕方の空がまだ明るくて、でもどこか金色に傾いてきた頃、商店街の提灯に火が入った。太鼓の「ドン、ドコ、ドン」が腹に気持ちよく響いて、焼きそばとしょうゆの匂い、かき氷のシロップの甘い匂い、金魚すくいの水の匂い——全部が夏の音楽みたいに混ざる。


「うわ、混んでる!」

「それが夏祭り。混雑は仕様」

「仕様って言うな」


浴衣の人波を縫いながら、私は首からカメラを提げて、屋台の光をひとつずつ拾った。提灯の赤、ヨーヨーのラテカラー、綿あめの雲。レンズの中の商店街は、画面の端っこまでお祭りでいっぱいだった。


「こっちこっちー!」

彩葉が手をぶんぶん振る向こうで、見慣れた顔と、初めましてのちっちゃい顔。

彩葉の弟——陽向(ひなた)が、顔より大きい金色の風船を抱えて跳ねている。風船には星のシールが貼ってあって、ライトを少し受けるたびに「ぴかっ」と目をするみたいに光った。


「わぁ、でっか! 宇宙球?」

「宇宙球だよ!」

陽向が胸を張る。

「宇宙から見た地球の色、っていう設定らしい」

「設定が壮大」


瑠衣はかき氷のブルーハワイを持って、舌を見せて「青くなった」と笑う。

悠真は焼きそばを二本、いや二舟持って登場し、蒼介は紙皿と割り箸を必要十分だけ配る。

太鼓のリズムが一段強くなって、屋台の列の上に「わぁ!」って歓声が重なった。


「写真、撮る?」

「撮る撮る。陽向、風船こっち向けて」

「こう?」

風船が空を映す。その金色に提灯が逆さにいくつも揺れて、陽向の笑い顔が小さく歪んで映った。シャッターを押す。胸の中まで「カシャ」が気持ちいい。


「ところで」

「ん?」

「風が、ちょっと強くなってきてない?」

「確かに、提灯が踊ってる」


その時だった。

「アイス……」と屋台の冷ケースに吸い寄せられた陽向が、ほんの一瞬だけ、手の力を抜いたのだと思う。

金色の球が、ふわり。

空気の階段に乗ったみたいに、するすると上へ。


「えっ——」

「わぁあああああああっ!」


陽向の声が、祭りの音に重なって伸びた。

私たちの目の前で、金色の風船は提灯の列を過ぎ、屋台のテントの上をかすめ、商店街のアーケードの端へ。


「待って!」

一拍遅れて、陽向が走る。

私たちも、ほぼ同時に走った。


アーケードの端を抜けると、空がいきなり広い。風船は、建物と建物の間の風の道を読んでいるのか、ふわふわ、でもしっかり先へ。

「こっち、裏路地いく!」

彩葉が角を指す。

「挟み撃ちする?」

「風に挟み撃ちは効かない」


裏路地は、昼間なら通らないような細さ。エアコンの室外機の熱、猫の気配、植木鉢の影。

上を見上げるたび、金色の球がビルの壁に沿って、まるで見取り図の矢印みたいに進んでいく。


「おおい、何追ってんだ!」

焼きトウモロコシ屋のおじさんが笑う。

「宇宙球です!」

「宇宙まで行かれんようにな!」

「行かせない!」


角を曲がる。金物屋の鈴がチリンと鳴る。

ふと、ガラスに映った自分たちが可笑しかった。焦る顔、揺れる風船の反射、祭りの火。思わず一枚。走りながらカシャ。

「なに撮ってんの!」

「今日いちのドキュメンタリー」


路地を抜けると、川へ降りる道に出た。

橋の上には人だかり。遠くで太鼓の演奏が始まって、リズムが足元のコンクリまで震わせる。

風船は橋の柵の少し上、風の腹に乗って、遊歩道の方へ流れていった。


「先回りしよう。風、こっちからこっち」

瑠衣がスマホの地図アプリで風向きを示す。

「さすが計画派」

「現場監督」

「誰が監督」


遊歩道は提灯が間引きで付いていて、ところどころ暗い。風船は明るい場所の上に来ると、星シールがまた「ぴかっ」と光って、私たちをからかうみたいだ。

「待ってってば!」

陽向の声が半泣きに近くなる。胸がぎゅっとした。


「大丈夫、まだ近い」

私が言うと、蒼介が小さくうなずいて、少し前に出た。

「左。あと十メートルで曲がる」

「わかるの?」

「風の匂いが変わった」


ほんとかどうかはわからないけど、蒼介の言う通り、風船は左に折れて、公園の方へ流れていった。

そこには、夏の夕方に似合いすぎる老夫婦。ベンチに並んで座って、うちわでゆっくり風を作っている。

金色の球は、その頭上をかすめた。


「すみませーん! 風船、息子の宇宙球が通過します!」

「おやおや、宇宙は忙しいねぇ」

おじいさんが笑う。

「急がないと、もっと遠く行っちゃうよ」

おばあさんが優しい目で空を見上げる。

「行かせない……!」


風船は公園を抜け、川面に張り出した小さな桟橋の方へ向かった。

桟橋の端には、さびた手すりが一本。

風船は、そこに——ほんのひっかけるみたいに、糸が絡まった。


「止まった!」

「今だ!」


桟橋は少しぎしぎししていて、足音が増幅される。私は靴底の力を抜いて、そろそろと近づいた。

風船は、手すりの外側にふわりと浮いている。糸は手すりの突起にくるんと巻き付いて、ほどけそうでほどけない。

手すりごしに、そっと手を伸ばす。

指先に、糸。

心臓の音が、川の音と混ざる。

もう少し——もう、ほんの、少し——。


掴んだ。


「とった!」


振り返ると、陽向の顔がぱっと明るくなった。

駆け寄ってきた小さな腕が、風船をぎゅっと抱きしめる。

金色の表面に、陽向の涙の跡がひとすじ。

「よかった……」

彩葉が肩で息をして、笑って泣きそうな顔をする。

「よく頑張った、宇宙球」

悠真がぽん、と陽向の頭を叩く。


その時、風船の側面に小さな影が見えた。

薄い引っかき傷。

「……あ」

陽向の腕に抱かれたまま、風船から、ピィ……という、ほとんど聞こえない音がした。

空気が、ほんのちょっとずつ、逃げていく。


「し、しぼんでる……?」

陽向の目がまん丸になる。

私はしゃがんで目線を合わせた。

「大丈夫。ゆっくりだから、今夜はまだ宇宙のまま。記念写真、撮ろ?」

「……撮る」


桟橋の上、夕焼けが川に筋を引いて、金色の球と重なる。

私は陽向の涙の跡がうっすら残る風船と、抱きしめる小さな手、後ろに並ぶみんなの顔を、ひとつの画面に入れた。

「いくよ。三、二、一——」

カシャ。

シャッターの音が、太鼓のリズムと混ざって、今日の終わりを優しく区切った。


商店街に戻る頃、風船はほんの少しだけ小さくなっていた。

屋台のおじさんが「おお、帰ってきたか宇宙」と笑って、綿あめを小さく一個、おまけしてくれた。

老夫婦はまだベンチにいて、今度は陽向の頭をなでた。

「帰ってきたね」

「はい。宇宙、帰還しました」


最後に、陽向は風船に星のシールをもう一枚ぺたりと貼った。

「これ、『帰還記念バッジ』」

「いいね、それ」


家に帰る道で、陽向は風船を肩にのせるみたいに抱え、時々鼻を近づけて、「まだ宇宙の匂いがする」と呟いた。

金色の表面には、提灯と街灯と、行き交う人の笑顔と、私たちの一日が、逆さまにいくつも映っていた。


私は思った。

逃げるものは多い。風、時間、夏の匂い、いろんな瞬間。

でも、追いかけたら、ちゃんと戻ってくるものもある。

その途中で、笑いが増えたり、写真が一枚増えたり、帰還記念バッジが増えたりする。


家の玄関でソラが跳ねて迎えてくれて、陽翔(うちの弟)が風船を見て「ちょっと小さくない?」と言う。

「これは宇宙の仕様」

「またそれ」


プリントした写真を冷蔵庫のマグネットで止めた。

金色の球の前で、陽向が笑って、私たちが笑っている。

しぼむ前に残した光は、すごくまっすぐで、すごくやわらかかった。


——久遠美空の風船パニック。

ドタバタして、ちゃんと笑って、少しだけ賢くなった日。

次は、何を追いかけよう。追いかける前から、ちょっと笑えるように。

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