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月曜日。
疲れた身体にブラックコーヒーを注入して、打ち合わせに臨んだ。
左手の薬指には、昨日ジュエリーショップではめてから、外すことを許されないサファイアの指輪。
傷つけたくないからと何度も言ったのに、全く聞き入れてもらえなかった。
「外してるの見つけたら、すげー恥ずかしいことしまくる」と、雄大さんは楽しそうに言った。
すげー恥ずかしいこと、が何なのかは怖くて聞けなかった。
打ち合わせ中くらい、外してもいいかな……。
今日の打ち合わせは、私一人。
始まる前にトイレに入り、指輪を外そうかと迷い、やめた。
外して、失くしたり傷つけたら大変だから。
誰も、私の指輪なんて気づかないか。
そう思ってトイレから出た五分後、しっかり気づかれてしまった。
春日野玲さんに。
指輪を見た春日野さんは表情を失い、それから笑った。
おめでとう、とか、素敵ね、とか、そんな感情の笑みではない。というより、感情のない笑み。
背筋がゾッとした。
やっぱり、春日野さんはまだ雄大さんのこと……。
「おはようございます」
私と春日野さんの張りつめた空気を変えたのは、畑中さん。
「あ……」
私は今、仕事中だということを思い出した。
「おはようございます」
「わざわざご足労頂きまして、ありがとうございます」
「いえ」
「今日はお一人なんですね」と言った春日野さんは、見覚えのある穏やかな表情。
けれど、目は穏やかとは程遠い。
「はい。槇田は——」
「部長となれば急な予定変更は難しいですもんね」
私の言葉を遮って、言った。
「申し訳ありません」
「いえ。槇田部長には、私が畑中のアシスタントをさせていただくことはお伝えしてありますから」
「え……?」
「お聞きになっていません? 金曜の夜に偶然お会いしたんです。お酒をご一緒させていただきまして」と、春日野さんは楽しそうに言った。
『どうして唇に口紅がつくの?』
あの口紅は、春日野さんの——。
先週、静岡で会った時の春日野さんは印象が良かった。綺麗でスタイルが良くて、自分に自信があって、優しくて。それは、私が雄大さんの婚約者だと知らなかったから。
今の彼女は、私に敵意むき出しの上、見下している。
私は春日野さんのように美人でもないしスタイルも良くないし、自分に自信なんてない。
けれど、なけなしのプライドくらいはある。
そうよ。
雄大さんの現在《いま》の女は、私。
私も春日野さんに負けない余裕の笑みを見せた。引き攣っていたかもしれない。
「そうだったんですね。春日野さんと一緒だったのなら、槇田も美味しいお酒を楽しめたと思います」
「ええ。とても、楽しかったです」
「それは良かった」
私も春日野さんも、オンとオフを切り替えるスイッチはあったようで、打ち合わせは順調に進んだ。初回の今日は、関係各社の確認とスケジュール調整。
次回は来週、各社の担当も含めての会議となる。もちろん、雄大さんの出席は絶対だ。
婚約者の元カノと仕事なんて、最悪……。
まぁ、私より春日野さんの方が最悪だろうけど。
今も気がある元カレと、その婚約者と仕事をするなんて、拷問だろう。
「では、今日はこれで終わりましょう」
春日野さんが資料をまとめて、言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
私は資料を鞄に入れながら、腕時計に目を落とした。
十一時半。
私は重い鞄を抱えて、一番近いデパートに向かった。
目指すは紳士服売り場。
どういう経緯かはわからず仕舞いだけれど、ダメにしてしまったネクタイの代わりは買うつもりだった。
昨日、指輪を取りに行った時に買おうと思ったけれど、雄大さんの機嫌を損ねたくなくて、やめた。
ホント、何しちゃったんだろう……。
何をやらかしたにしても、ネクタイを渡して謝ろうと思った。
売り場のフロアを三周して、ダメにしてしまったものに似ていて、一番気に入ったものを買った。簡易包装を頼む。
「雄大にプレゼント?」
聞き間違いかと思ったが、振り返ってそうではないことがわかった。
「春日野さん!」
「先ほどはお疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
店員から包み終わったネクタイを受け取る。
「一緒にランチ、しない?」
「え……?」
「お礼はあなたへのランチにするわ」
意味が分からなかった。
けれど、断るのは逃げるようで嫌だった。
春日野さんに連れられて行ったのは、レストランフロアの懐石料理店。昼時ではあるけれど、敷居が高いせいか、すんなり入れた。
「雄大に連れて来てもらったこと、あるかしら?」
「いえ……」
「そ? 良かった」
春日野さんが雄大さんを『雄大』と呼ぶたびに、指先に棘が刺さるような鋭い痛みを感じた。
料理はお任せした。
「あの、お礼って何のことですか?」
「金曜日ね、雄大に奢ってもらったのよ。そのお礼にネクタイをプレゼントしようと思ったんだけど、先を越されちゃったから。雄大へのお礼をあなたに返そうと思って」
「そう……ですか」
「それに、あの雄大が結婚する理由も知りたかったし」
お礼はこじつけで、本当の理由はこっちだなと思った。
「雄大とは長いの?」
「え……?」
「上司と部下としてじゃなく、恋人になってから」
「いえ……」
一か月、とは言えなかった。
「私と雄大は二年、付き合ってたわ」
『それが?』と言いたかった。
「けど、結婚の話は出なかった。だから、驚いたわ。雄大が結婚するなんて」
そりゃそうでしょう。
当の私でさえ、驚いているんだから。
「妊娠、してるの?」
「え?」
「あれだけ結婚に興味のなかった雄大が結婚するって言うから、理由は子供かと思って」
自分の事情は棚に上げて、私はムッとした。
妊娠でもしてなきゃ、雄大さんが私なんかと結婚したりしないって?
「してません」
「じゃあ、何?」
「え?」
「結婚する理由」
この人は、何が何でも恋愛結婚を否定したいらしい。それがわかっていながら、聞いた。
「ずっと一緒にいたいから、じゃおかしいですか?」
「おかしいわね」と、即答された。
「あれほど結婚で実家に縛られることを嫌がっていた雄大が、好きだの愛してるだのなんて理由で結婚するなんてあり得ない」
実家に縛られる……?
「あなた、ご実家は?」
「え?」
「お父さまのご職業は?」
ぶっきらぼうな言い方をされて、聞かれたことに素直に答えなければならないのは、癪に障った。
けれど、雄大さんのことを何も知らないと馬鹿にされるのは、もっと癪に障る。
「両親は他界しました」
「そう……」
「それが結婚となんの関係が——」
「私の父親は病院を経営しているの」
「は?」
「政財界とも懇意にしていてね。雄大のご両親とも交流があったの」
自分の実家の自慢話にしか聞こえなかったけれど、雄大さんの両親が登場するあたり、そうではないらしい。
「付き合い始めた頃はそれを知らなかったんだけど、半年ほどして親同士に接点があったとわかって、雄大に言われたの。『親が知れば俺たちの意思なんて無視して結婚話が進むだろう。少しでも結婚願望があるのなら、今のうちに別れてくれ』って」
お料理をお持ちしました、と声がして、襖が開いた。お盆の上には前菜から汁物までの六品が並んでいる。
「食べながら話しましょう」
春日野さんが箸をつけ、私も続いた。
「続きだけど、私は雄大と付き合っていることを他言しないと約束したわ。もちろん、結婚も望まないと。正直、一緒にいれば雄大の気が変わるんじゃないかと、少し期待していた。けど、二年付き合っても雄大の気持ちは変わらなかった」
「どうして別れたんですか?」
普通なら聞きにくいことだが、すんなり聞けた。
天ぷらは、雄大さんに連れて行ってもらったお店の方が、美味しい。
「私が静岡に転勤になったから」
「そうですか……」
春日野さんは遠距離でも雄大さんとの関係を続けたかったんじゃないだろうか、と思った。