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─空が、近い。
風送り最終日の夜、漠然と、活気づく商店街を歩いて、そんなふうに思った。
空気は澄んでいるのに、何かが重たく沈んでいる。
それは気温のせいでも、湿度のせいでもなかった。
─今日で、すべてが終わる。
漠然と、そんな確信だけが胸にあった。
けれど、何が終わるのか、俺にはまだわからなかった。
町を歩く。
祭りも終盤に差し掛かり、楽しそうな雑談があちこちから聞こえてくる。
─音が、ない。
でも、あんなに耳にまとわりついていた風鈴の音すら、今日はどこか遠い。
ただ、時折ふっと吹く風に乗って、かすかに、ひとつだけ、かすれるような音が聞こえる。
─チリン。
それは、俺の中のどこかを優しく撫でる音だった。
坂を登る。
この違和感も、アユばあなら何か知っている気がして。
送り堂へと続く、なだらかな上り坂。
何度も何度も歩いたはずの道なのに、今夜は、まるで初めて踏みしめるかのような感覚だった。
靴底から伝わる石畳の冷たさ。
ゆるやかな風が、頬を撫でる。
─けれど、そのすべてが、どこか現実味を失っている。
誰もいないはずの道の向こうに、誰かの気配があった。
けれど、顔を上げても、そこには何もいない。
─気のせいか。
自分に言い聞かせながら、さらに坂を登る。
夜空には、星が浮かんでいた。
去年の風送りの夜と、同じような、あたたかくて、少し寂しい星空。
けれど、あのとき隣にいたはずのアユは、今はもうない。
心臓が、ひとつ、どくんと鳴る。
─おかしい。
一陣の風が吹く。
瞬間。胸の奥に、ざらりとした違和感が広がる。
まるで、何かを見落としているような、あるいは、ずっと見ないふりをしていたものに、ようやく触れてしまったかのような。
心臓が、強く打った。
足が勝手に動き出す。
足が、自然と速くなる。
早く、たどり着かなければ。
気づけば、俺は、坂を駆け上がっていた。
一刻も早く、送り堂へ。
何か、大事なものが、そこにある気がした。
その時、
透き通るように響く音が、耳をかすめた。
何かを必死に追うようにして、坂を駆け上がる。
そして、見えた。
灯りの落ちた送り堂の前。
その縁側に、ひとりの少女が立っていた。
─アユ。
瞬間、呼吸が止まった。
─そんなはずはない。
だって、彼女は─
足が勝手に動く。
必死に。必死に。坂を駆け上る。
声にならない声を飲み込む。
アユは、こちらを見ていた。
目を見開いて、まるで、幽霊でも見たかのように。
星に背を押されるようにして、静かに、そこに立っていた。
スカートの裾を風に揺らしながら、じっとこちらを見つめている。
けれど、それは─俺も同じだった。
俺も、足を踏み出す。
ゆっくり、ゆっくりと。
アユの目が、わずかに見開かれた。
わかる。
彼女にも、きっと、見えている。
俺の姿が。
俺の存在が。
境内の空気が、やさしく震えた。
距離は、もうほとんどなかった。
言葉が、出ない。
だって、彼女は、いま、目の前にいる。
こんなにも、はっきりと、ここに。
「……あ、あ……」
声が、喉の奥で絡まった。
アユも、何かを言おうと口を開きかける。
門の前で、ふたり、立ち尽くしていた。
冬の夕暮れの風が、ふわりと吹き抜ける。
アユは、じっと俺を見つめたまま、動かない。
俺も、何も言えずにいた。
ただ、この瞬間が、永遠に続けばいいと、心のどこかで願っていた。
そのときだった。
「ほう……ようやっと、会えたんか」
アユの背後から、静かな声が響いた。
振り向くと、そこにはアユばあが立っていた。
まるで、すべてを知っているかのような、深い、深い瞳で。
「よう来たなあ」
風に白い髪を揺らしながら、にっこりと微笑んでいる。
アユばあの声は、風に溶けるように静かだった。
俺は送り堂の前に立ち尽くしたまま、息をするのも忘れていた。
目の前にいるアユは、俺を見ていた。
今にも泣きだしそうな瞳で。
「……アユ……?」
かろうじて絞り出した声が、夜気に吸い込まれる。
「うん……」
ただ、涙を滲ませた目で、震える唇を噛みしめながら、必死に絞り出した声。
─おかしい。
だって、アユは、あの事故で─
アユが生きて、ここにいる。その嬉しさと、今の俺は何なのか。
喜びと、混乱がこみ上げる。
永遠に続くかのように思える時間。
その間にやさしい声が響く。
「さあ、こっちにおいで」
アユばあは、手招きする。
俺たちは、導かれるようにして、送り堂の奥へと進んだ。
二人、信じられない。そんな表情を隠すことが出来なかった。
軋む縁側に腰を下ろすと、アユばあも、隣にゆっくりと座った。
俺とアユは、肩が触れるか触れないかの距離で並んで座った。
冬の夕暮れの冷たい風が、縁側をなでる。
でも、不思議と寒さは感じなかった。
ふと、アユがそっと右手を伸ばした。
ためらうようにして、それでも、そっと俺の手の上に、指を重ねる。
震える指先。
でも、確かに、あたたかかった。
俺も、そっとその手を包み込んだ。
言葉なんか、いらなかった。
ただ、このぬくもりだけが、今のすべてだった。
しばらくの間、風の音だけが、境内に満ちていた。
やがて、アユばあが静かに口を開いた。
そして、ぽつりと、呟いた。
「─あんたは、強う生きた子じゃった」
俺は、瞬きもできずに、その言葉を聞いた。
「事故の日……あの交差点で……歩夏を、かばうようにして─」
アユばあの声は、震えていた。
でも、それでも、言葉を紡ぐことをやめなかった。
「─命を、落としたんじゃよ」
頭が、真っ白になった。
─何を、言ってるんだ。
俺は、生きている。
こうして、ここにいるじゃないか。
─なのに、どうして。
「アユは……生きとる」
アユばあの言葉が、胸に突き刺さる。
胸から目頭から、何か、こみ上げてくる。
「けれど、歩夏は─あんたを、忘れられんかった」
風が吹く。
「強う願うたんじゃ。忘れたくない、消したくない、ってな」
風鈴たちが、一斉に揺れる。
空気が震え、空間が歪むような感覚に襲われる。
「その想いが、あまりにも強うて─」
アユばあは、俺の目を、まっすぐに見た。
「……あんたは、ここに“おる”」
心臓が、ひとつ、跳ねた。
「─違う」
思わず、声が漏れる。
違う、違う、そんなはずはない。
俺は、生きている。
ちゃんと、地面を踏みしめている。
こうして、風を感じている。
─なのに。
「……あんたは、“記憶”なんじゃ」
アユばあの声は、ひどく静かだった。
けれど、その静けさが、なによりも重たかった。
左手に重なるアユの手がやけに小さく感じた。
「アユの、願いと、記憶から、生まれた……残滓(ざんし)じゃ」
─残滓。
その言葉の意味が、ゆっくりと、体の奥まで染み込んでいく。
「歩夏が、逆風鈴に込めた想いが、強すぎたんじゃ。忘れたくない、忘れられない、傍にいてほしい歩夏の心が─」
風が、また吹いた。
「……あんたを、この町に、呼び戻してしもうた」
涙が、頬を伝うのがわかった。
だけど、それは止められなかった。
「そやけどな、風は─」
アユばあは、そっと手を伸ばし、宙を撫でた。
「……どんなに、強うても、ずっとは、留まれん。それは逆風鈴に封じられていたものだったとしてもじゃ。」
「それに……あんた、アユの記憶に、ずいぶん深う触れたんやな」
「だから、ここ最近、あんたの生活には歪みがあったはずじゃ。」
俺は思い返す。
送り堂以外にあるはずのない逆風鈴。
どこか遠く感じる、雑踏。
いつまでも、既読のつかない、メッセージ。
―あぁ、そうか。
風は、必ず流れていく。
音は、いつか消えていく。
記憶も、いずれは、風に還る。
─それが、風送り。
「今日で、風送りは終わる」
アユばあの声は、やさしく、けれどはっきりと響いた。
「……あんたも、還るんじゃよ」
その言葉を聞いたとき、俺はようやく理解した。
─ここが、終わりなんだ。
アユの記憶が、想いが、俺を支えてくれていた。
でも、それも、今日で終わる。
―だって、アユが─前を向いてくれたから。
―俺を風に還す、そう決めてくれたから。
視界が滲んだ。
アユが、横にいる。
生きて、ちゃんとここにいる。
それだけで、十分だった。
俺は、静かに目を閉じた。
風は、すべてを運んでいく。
音も、記憶も、願いも─
─そして、俺も。
─アユ。
声に出そうとしたけれど、喉が詰まって、うまく出なかった。
でも、伝わった気がした。
彼女の震える肩、小さな手、潤んだ瞳、そのすべてが、言葉以上に雄弁に訴えかけてきた。
「……凪」
かすれた声で、アユが呟いた。
「アユ……」
そっと手を握りしめる。
アユも、ぎゅっと、握り返してくれた。
そのときだった。
ふわりと、身体が軽くなる感覚がした。
足元から、少しずつ、俺という存在がほどけていく。
アユが気づいた。
目を見開き、震える唇で、俺の名前を呼んだ。
「凪……!」
俺の体は、もう、風に溶け始めていた。
指先が、淡く滲んでいく。
掌が、空気に溶けていく。
─もう、時間がない。
それでも、俺は、アユを見つめる。
アユは俺の手をぎゅっと握り。
「ごめんね……」
涙が、彼女の頬を伝った。
「……わたしのせいで、ずっと、ここに─」
─違う。
違うんだ、アユ。
俺は、君がくれたこの時間に、何度だって救われた。
君が覚えていてくれたから、こうして、もう一度君に会えた。
だから、ありがとう。
「ありがとう、アユ。」
喉が、焼けるように痛い。
けれど、どうしても、伝えたかった。
だから、俺は──
風に崩れそうな体を、必死に支えながら。
俺は、静かに微笑んだ。
もう、泣かないでほしい。
これでいいんだ。
生きてほしい。
生き続けてほしい。
アユに向かって、そっと顔を近づけた。
アユも、涙をこらえながら、そっと目を閉じた。
最後の一瞬、俺たちは、触れ合った。
ふわりと、あたたかく、やわらかく。
まるで、世界にたったひとつだけ、確かに存在するものを確かめ合うように。
キスを交わした瞬間、俺の輪郭が、光に溶け始めた。
アユの頬に流れる涙のぬくもりが、伝わってきた。
俺は、消え入りそうな体で、必死にアユを抱きしめる。
風が吹いた。
ふたつの体が、そっと重なる─
ほのかに冷たくて、でも、あたたかくて。
この世で一番、大切なものの感触だった。
「……っ……」
アユは、声にならない声で、泣いた。
堪えていたものが、堰を切ったように、溢れ出した。
俺も、涙が止まらなかった。
こんなにも、彼女に会いたかった。
こんなにも、彼女を想っていた。
そして、アユも─同じだった。
ふたりの間を、風が、優しく撫でていった。
もうすぐ、終わる。
この時間も、この奇跡も。
でも、最後に。
俺は、どうしても、伝えたかった。
─ずっと、そばにいる。
たとえ、体が風に溶けても。
たとえ、記憶が風に還っても。
この想いだけは、ここにある。
アユも、涙の中で、微笑んだ。
「……うん」
「……わかってる」
彼女の声が、風に乗って届いた。
「……大好きだよ。」
─ありがとう。
─ありがとう。
―アユと出会えてよかった。
風が、吹いた。
送り堂の中で、最後の風鈴が、静かに鳴った。
星空に消え入るような音で。
涙をぼろぼろとこぼしている、アユの顔が、ゆっくりと、霞んでいく。
アユが、手を伸ばしてくれている。
でも、その手が、届かない。
それでも、いい。
彼女が、生きてくれている。
彼女が、前を向いてくれた。
それだけで、いい。
最後にもう一度、俺は微笑んだ。
アユも、涙の中で手を振りながら笑った。
そして──
俺は、風になった。
夜空へと昇っていく。
音も、記憶も、想いも。
すべてを風に乗せて。
─さようなら。
─ありがとう。
─俺も大好きだよ。ずっと。
風鈴が、もう一度だけ、鳴った。
澄んだ音が、夜空の深い青と共鳴する。
まるで、星たち自身が、小さく震えながら、音を返してくるみたいに。
風に溶けても、俺の想いは、永遠に、風鈴坂町の空に響き続ける、そう信じて。
**
私は目を閉じる。
目の裏に、彼の笑顔が浮かぶ。
堤防の上で指を差しながら笑っていた顔。
祭りの夜に、浴衣姿で隣を歩いていた横顔。
教室の窓際で、ふいに真剣な目をしてノートをとっていた姿。
「……大好きだよ。」
口にした瞬間、胸がいっぱいになった。
─大好きだよ。
心の中で、もう一度だけ。
風が、鳴く。
その音とともに、
彼の気配が、空に溶けていくのが分かった。
温かくて、柔らかくて、でも、確かに─遠ざかっていく。
「……大好きだよ。私も、ずっと。ありがとう。」
―でも。そうはいっても。
そう、彼に手を伸ばそうと思って。
―でも。
やめた。
彼が、安心して、風に還れるように。
私は、そっと手を振った。
誰に見せるでもない、小さな小さな手振りだった。
送り堂の天井を越え、風が高く、高く昇っていく。
音も、光も、想いも、全部、夜空に吸い込まれていく。
最後にもう一度だけ、風鈴が鳴った。
それは、まるで「さようなら」ではなく─
「またね」って言っているみたいな、そんな音だった。
**
優しく響く音色は、その音は、確かに、風に消えていった彼の声に聞こえた。
「……ばか」
泣きながら笑うみたいに、私は呟いた。
「そんなに、優しい音、残していかないでよ」
涙が頬を伝う。
もう、だれもいない空に語り掛ける。
全部、彼に届いてほしかったから。
風鈴の音が、星の海へと溶けていく。
これは。
さよならではない。
生きていくための、静かな約束の音だった。
**
風鈴の音が、夜空に溶けていった。
しばらくその場で空を見上げていた。
手を伸ばせば、まだ彼に、凪に触れられる気がして、なかなか動けなかった。
けれど、風はもう、優しく吹き抜けていくだけだった。
ただ、静かに、次の季節を告げるような風。
「……よくがんばったねぇ」
「おばぁちゃ……」
声にならない声で、アユは応える。
アユばあは、にこりと笑って、ぽん、とアユの肩に手を置いた。
「よう聞きなさい」
その声は、風の音よりも、あたたかかった。
「─風送りっちゅうんはな、忘れるためのもんじゃないんよ」
「忘れなくてもええ。無理に忘れんでもええんじゃ」
アユばあは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「人はな、忘れたくないもんも、忘れられんもんも、たくさん抱えて生きとる。けど、それでも─一歩だけ、前に進みたい思いがあるけえ、風に乗せるんじゃ」
「……前に、進むために?」
「そうじゃ。風送りはな、心の荷物を一度だけ、風にゆだねる儀式なんよ」
アユは、小さく息を呑んだ。
アユばあは、優しく続ける。
「つらい思い出も、悲しい別れも、ただ─ほんの少し、楽になって、また歩き出すために。前を向いてい居ていくために。」
「……私、凪の事、背負って生きてかないとって。絶対に忘れちゃダメだって。」
「辛い決断だったねぇ。」
おばあちゃんは、言った。
「大切に、大事に、胸にしまって。でもな、悲しみに押しつぶされそうなときは、そっと思い出すんじゃ。
あのとき、風に乗せた想いが、自分を支えてくれるいうことを」
堪えきれずに涙をこぼした。
「……わたし、ずっと……。」
「それでええ。想っとるだけでええ。無理に笑わんでええ。風送りは、な、無理に明るくなるためのもんじゃない。心に寄り添う、風のようなもんなんじゃ」
そっと撫でる、おばあちゃんの手は温かくて。
「……ありがとう、ばあちゃん」
アユは、嗚咽をこらえながら、胸の奥でそっと誓った。
彼を忘れない。
でも、前を向く。
悲しみも、痛みも、全部抱えて。
─そう、彼が願ってくれたように。
風が、もう一度、送り堂を通り抜けた。
高く、高く、天へと昇っていく。
その空の、どこかで。
彼が、きっと、笑っている。
境内に、再び静寂が満ちる。
もう、彼の気配はどこにもない。
だけど、心のどこかに、確かにいる。
これから先も、ずっと。
深く深呼吸した。
夜の空気が、肺いっぱいに広がる。
それは、少しだけ痛かったけど、悪くない痛みだった。
「おばあちゃん、ありがとう。もう行くよ。」
そういうと、おばあちゃんは優しくうなずいた。
彼の道筋をたどるように、縁側を離れ。
境内の石段を下りる。
踏みしめるたび、かすかに雪がきしむ音がした。
ふと、振り返る。
送り堂の屋根に、無数の風鈴が揺れていた。
カラン、カランと、星空の下で、かすかな音を重ねながら。
私は、夜の町へ、ゆっくりと歩き出す。
明日へと、向かうために。
夜風が頬を撫でた。
その風の中に、ほんの一瞬だけ─彼の笑い声が混じった気がした。
─前を、向くんだ。
彼が好きだった、私のその姿を、取り戻すために。
風が、また吹いた。
鳴いたその音は、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。