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それは、二週間ほど前のことだった。
その日は朝からひどい雨が降っていて、私は鬱々とした気分で会社に向かっていた。
私は通勤ラッシュが大嫌いだ。
まぁ、あの大混雑を好きだと思っている人なんて、もちろんいるはずないだろうけれど、私は特にあの喧騒が苦手で仕方がなかった。
頭の中に入ってくるたくさんの音や声が私の頭をかき乱して、めまいがして、頭痛がして、混乱して――叫びたい気持ちにさせるのだ。
それは何も今に始まったことじゃない。
小さいころからそうだったし、小学校の頃はその為に別クラスで授業を受けたりもしていた。
何度も病院や施設に通ったりして、ある程度は自分でその感情をコントロールできるようにはなったのだけれど、朝のあの通勤ラッシュだけはどうしても身体が受け付けなかった。
就職するときもその特性に配慮して、ある程度は出勤時間に余裕の持てる会社を選んだのだけれど、雨が降るといつも以上に駅が混雑してしまう為、どうしてもその喧騒から逃れることができないのだ。
イヤホンをしてスマホから好きな歌をかけ、雑多な騒音が耳に入らないように努力はしているけれど、あの人混みだけはどうすることもできない。
私はなるべくそんな人混みから視線をそらし、電車がホームに入ってくるのを待っていた。
スマホでニュースを確認しながら、黙々と外界からの情報を遮断しながら。
どれくらいそうしていただろう。
突然、どん、と後ろから背中を押されたのだ。
え、と思った時には、私の身体はホーム下の線路に傾いていた。
ガタゴトと音がする。電車がホームに入ってくる音だった。
死ぬと思った。
このままホーム下の線路に落ちて、あの電車に轢かれて死ぬのだと眼を見張った。
イヤだ、死にたくない――
そう思ったとき、私の腕を強く掴んで引っ張る感覚があった。
本当に、一瞬のことだった。
寸でのところで私の身体はホームに引っ張られて、そのままの勢いで尻もちをついていた。
耳にはめていたイヤホンが、ころんころんとホームに転がって落ちた。
色々な音が私の耳に襲いかかってきた。
誰が何を言っているのか、何を叫んでいるのか、何が何だかわからなかった。
誰かが私の身体を支えていた。
誰かが叫び声を上げていた。
誰かがホームを、人だかりをかき分けるように走っていた。
誰かがその走ってる人を追いかけていた。
誰かが、誰もが、私を遠巻きにするように、驚愕の表情を浮かべていた。
泣きたかった。
叫びたかった。
いや、私は泣いていた。叫んでいた。
ただただ頭は混乱していた。
たくさんの人に声をかけられた。
けれど、何を言っているのか全然わからなかった。
その後、私は駅員さんに連れられてどこかへ向かった。
そこで警察の人にいろいろ聞かれたけれど、なんて答えたか覚えていない。
しばらくして同僚が来てくれて、私は彼女に支えられながら、その日は結局帰宅した。
……あとから警察に聞かされた話。
私の背中を押したのは、五十代の何とかいうどこかの会社のおじさんだった。
名前も聞いたはずなのだけれど、ちゃんと覚えていない。
私をホームから突き落とそうとした理由も意味不明だった。
私がイヤホンをして、スマホをいじって立っていたから。
ただ、それだけ。
おかしな話だ。そんなの、私以外の人だってやっているのに。
それなのに、たまたま私の姿が目に入ったから、私の姿が気に食わなかったから、ただそれだけの理由で、私はホーム下の線路に突き落とされそうになったのだ。
そのおじさんは、殺人未遂の疑いで逮捕された。
そのあとどうなったのか、警察が逐一知らせに来てくれたがあまり覚えていない。
私は被害者としてその後もいろいろ聞かれたけれど、答えることもそんなになかった。
私が気になったのは、あの時、私の腕を引っ張って助けてくれた誰かのことだけだった。
いったい誰が、私を助けてくれたのか。
警察に訊ねてみたけれど、警察もそれを把握していなかった。
後日、駅員さんにも訊ねてみた。
けれど、やっぱり誰だったか判らないと言われてしまった。
唯一わかったのは、それがどこかの男子学生さんということだけ。
しかも、彼は私を助けたあと、そのままどこかへ去ってしまったらしい。
犯人のおじさんを追いかけて捕まえたのは、他の人たち。
私を助けてくれた男子学生の行方は、結局二週間経った今も、判らないままだった。
私は彼にお礼を言いたかった。
彼がいなければ、今の私はここに存在していなかっただろう。
彼は――あの男子学生は、いったいどこの誰だったのか。
そんな時に同僚が教えてくれたのが、『魔法百貨堂』だった。